第154話 花の香りはもうしない

 動かないスレイプニルと、黙る美濃を見かね、隼人はぽんぽんと軽い力で寄り添う身体を叩いた。紫のかかる漆黒の瞳が自分に向いたのを確認して、隼人は立ち上がる。


「頼む、スレイプニル」


 窓に手をかける宿主の姿を見受け、魔神は不満を滲ませてその後を追った。

 スレイプニルが蹴破るのではなく、隼人の手でゆっくりと開かれた扉の続く先は、屋外ではなかった。

 フローリングの床、大きな窓、シンプルな照明。

 余計なものは一切なく、必要最低限の家具が並ぶ様は、まるでモデルルームのようである。整然として、綺麗ではあるものの、人が住んでいる様子を窺わせない。


「……美濃くん家? なんで?」


 隼人はスレイプニルの足が機能したことよりも、繋がった先が四条坂にある美濃の自宅で会ったことに驚いていた。

 美濃はそのまま帰宅へと足を踏み出すと、扉からは見ることのできない場所へと顔を向けて「問題ない」と頷く。美濃の言葉に誘われるように、隼人の視界の端から人影が現れた。


「それがスレイプニルの能力?」

「ああ、第一世界境界への回帰」


 ピンクゴールドの髪は緩い編み目で結われていて、彼女の動きに合わせて揺れる。突然に現れた美濃と、違う空間と繋がる扉を見て、紺碧の瞳は興味深そうに輝いた。


「確かに、これがあれば境界圏内との移動は驚くほど、簡単――」 


 扉の真正面、繋がる先が見える位置に立った時、向かい立つ隼人の存在を認めて、淡々としていた声は尻すぼみに消えていく。

 目を見開いた二人の視線は、真っすぐに絡み合う。


「イオン……」

「雛日……」


 そこにイオンがいるとは知らなかった隼人は、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。何度、視界を切り替えても、彼女の姿が消えることはない。

 イオンも同じような動作をして、隼人の存在を確認していた。


「……ちょっと待って、オーディンは意識と能力を分離してるんでしょ? なんで、イオンのとこに――」

「スレイプニルは、こいつに回帰したんじゃねーよ」


 美濃に促され、彼の自宅に入った隼人とスレイプニルは、部屋の奥に鎮座する、明らかに異質であるモノに目を奪われた。

 正八面体の結晶、淡く灯る色はガーネット。


「レプリカ……?」

「オーディンが存在を書き換えた。世界境界の模造品」

「……まさかとは、思うけど――」

「違ぇよ。これには何の力もない。もちろん、魔神も入ってない。スレイプニルがオーディンと勘違いするためだけの装置だ」

『ワタシが主を勘違イすることなどなイ』

「はいはい。お前は運ぶの手伝え。とりあえず、格納庫に置く」

『……仕方なイ。七代目、扉は閉じるなよ』


 美濃の腰元まである大きさのレプリカは、人の力で持ち上げるのは難しいだろうように見えるが、見た目通りの質量がないのは隼人も知っていた。

 なんとかぎりぎりで扉を通過したレプリカと共に、美濃とスレイプニルも姿を消す。


 残された隼人とイオンは、気まずさに視線を彷徨わせた。

 隼人はイオンとの話題は山ほどあるのに、上手い切り出しが思い浮かばなかった。機会があれば、などとは言いつつも、実際に会うつもりのなかった隼人は、遠目に無事が確認できればそれでよかったのだ。

 用意された再会の場に動揺し、しどろもどろするのも不可抗力である。


「――酷い怪我だったけど、もう動いて平気なの?」


 先に口を開いたのはイオンであった。

 イオンが最後に見た隼人の状態と言えば、真っ青の顔色で、虚ろな目をした血生臭い姿であった。腹に穴を開け、呂律も回らないのに、必死に言葉を紡ぎ出そうとする姿は、忘れようにも忘れられない。


「はい。もう、大丈夫。イオン博士こそ――」

「呼び捨てで構わない」


 隼人はようやくイオンの顔を見た。

 あちらはこちらを見ておらず、目が合うことはなかったが、彼女の顔は無表情に近い。しかし、そこに紛れている居心地悪さは隼人の目には明らかであった。

 緊張しているのが自分だけではない、と分かると隼人の肩から急速に力が抜ける。


「無理しなくていいですよ。俺のこと思い出せてないでしょう?」

「……」

「でも、博士だと堅苦しいから、イオンさんって呼ばせてください」

「……無理しないでは、こっちの台詞」


 むすりとするイオンに、隼人は滲むように笑うと「じゃあ、お言葉に甘える」と言葉づかいを崩した。

 ソファーも、椅子もあるのに、突っ立ったままで会話をする二人は、傍から見れば滑稽であろう。

 しかし、座るという動作で、この空気が急激に軟化するわけでもない。


「喜里山さんに私のことは聞いた」

「うん」

「でも――、よく、分からない。思い出せる気もしないの」

「……それで当然だと思うよ」


 隼人はそっと目を伏せる。

 十七年の短い人生しか生きてはいないが、少年の過去を超える悲劇はそうそう起こるのではないだろう。

 イオンが記憶喪失を起こしたのは、悲惨すぎる事変のせいと、旧世代機メルトレイドとの接続リスクとが相乗した結果である。

 惨事を拒絶し、記憶に蓋をしてしまったのも、自己防衛だと説明もつけられる。そうしなければ、心が壊れた、と。それを助長したのは、脳神経を侵すメルトレイドのパイロット経験であった。


「俺はね……、ええと、勝手な意見だけど、イオンさんには、昔を思い出して欲しくなくて」

「……」

「できれば、忘れたままでいて」


 真剣な面持ちで告げられた切望は、隼人の本望である。


「それは、できない」


 もしもの可能性に縋ってみたものの、瞬間で否定され、隼人は悲しげにほほ笑んだ。

 自分がイオンの立場であるなら、彼女と同じように答えたと思うのに、実際にそう返されると何とも言えない残念さが隼人の心に浮かんだ。


「それなら――」


 イオンが記憶を取り戻そうとするのを、隼人は黙って見ているだけではいられない。


「俺に、イオンを守らせて」


 きょとり、とした青い瞳に、隼人はつぼみが綻ぶように笑う。

 イオンは確かな懐かしさを感じた。何も思い出せていはいないし、隼人と幼少を共に過ごした実感は欠片もない。

 それでも、目の前の少年は自分にとって特別である、と彼女自身の心が叫んでいた。


「どんな時でもいいから、俺を頼って。困ってる時とか、助けて欲しい時とか、つらい時は、必ず俺が手を伸ばすから、必ず掴んで。一人で泣かないで、一人で我慢しないで」


 隼人はイオンとの距離を詰めるように歩み寄ると、控えめに右手を差し出す。

 急にざわつく心の音に耳を傾けていたイオンは、隼人の動作の意味を尋ねるように顔を覗き込む。

 そして、後悔した。


「そんな不安そうな顔、見てられない」


 柔らかく、優しい表情で、愛情をさらけ出す姿に、イオンはむず痒さを覚える。

 恥ずかしげもなく、莫大な好意をまき散らす隼人へ、イオンは恐る恐ると手を重ねた。暖かな体温。隼人は一回りは小さい手を、ぎゅ、と一度だけ強く握ったかと思うと、満足そうに頷いた。


「……ありがとう、ヒナ」

「だから、無理しなくていいってば。雛日でいいよ、今まで通り」

「……」

「ははっ、拗ねないで。――気遣いはすごく、嬉しかったから。イオンさんにそう呼んでもらえる日が来るなんて、思ってなかったし」


 イオンは過去を、思い出してはいない。けれど、思い出したことは覚えている。

 昔――記憶にはない幼少の自分は、いつでも彼に助けられてた。

 自分は泣き虫で、弱気で、びくびくとしてばかりいたのに、隣立つ少年はいらつきも見せず、手を引いて歩いていてくれて、一緒になって笑ってくれていた。

 そんな隼人のことばかりが、イオンの過去であった。


「ひとつ、ずっと覚えてたことがあるの」

「え?」

「これ――」


 繋がれていない方の左手で、イオンは右耳を飾るピアスに触れた。


「誰にとか、いつ、なんでとかは覚えてなかった。でもね――」


 イオンは繋がれた手を解くと、自らの意志で隼人の手を握り直す。


「大事なものだって、知ってた」


 澄んだ紺碧に真っすぐに見つめられ、隼人は口許をむずむずとさせて、左手で心臓を押さえた。その下にはチェーンに通されたピアスがぶら下がっている。

 薫の遺品、イオンがつけるのと片割れであるプラチナのフープピアス。


「――俺も、耳につけようかな」

「きっと、似合う」


 イオンは、唇で弧を描くと、薄く、笑った。

 満面の笑み、というにはほど遠いが、喜怒哀楽の表情筋の変化が乏しい彼女にしてみれば、そんな笑顔も稀有なものである。


「……じゃあ、あの、俺、戻るよ」

「うん、また」

「! ……またね、イオンさん」


 屋敷に戻った隼人は、イオンから隠れるように談話室からリビングへと逃げ込むと、後ろ手にその扉を閉ざした。扉に寄りかかり、ずるずると座り込むと、両手で顔を覆い隠す。

 頬に差した赤の色は止まることを知らない。顔の熱を冷ませるならば、いっそ泣いてしまいたかった。


「お前、ほんと気持ち悪いな」


 全力で照れる隼人を見つめるのは、少年に対比して冷え切った目をする美濃である。

 リビングのソファーで足組みして、報道番組を興味なさそうに視聴する美濃は、まだ湯気の立つマグカップを傾ける。

 麗しき美丈夫は、何気なくテレビを見る姿すらも優雅であった。


「美濃君、俺もう幸せで爆発しそう」

「ああそう」


 しばらく、床に座り込み、騒ぐ心臓が落ち着くのを待っていた隼人は、耳に聞こえてきた音に、未だ朱に染まる顔を上げた。

 画面に映るのは、艶やかで長い黒髪に、意志の強そうな深海色の瞳を輝かせる少女。音声とテロップとを繋ぎ合わせれば、会見の中心である少女が何者かであるかは容易に知れた。


「……彼女が、八番の鍵――相島百合子さん」


 SSD日本支部、記者会見用の会場でフラッシュをたかれる先、マイクの前に立つのは、凛とした雰囲気を画面越しにも伝える少女であった。

 飛び交う質疑応答すべてに、簡潔な言葉でしっかりと対応する百合子は、清廉そのものである。


「相島博士の娘さんか。すごく綺麗な人」

「……」

「……オーディンの審判を受けて、世界のための人柱になれると判じられるなんて、ほんと凄い」


 感心したように画面を見つめる隼人は、惜しみない賛辞の言葉を百合子へと送る。それもつかの間、少年の邪魔をするかのごとく、美濃はテレビの電源を落とした。

 それから、美濃は隼人の前に立った。切れ長の目が、不調の少年を見下す。


「そういえば、スレイプニルは?」

「外、歩いてくるってよ。すぐに戻ってくんじゃねーの」

「そっか」

「道も繋がったし、俺は外の連中のとこに行ってくる」

「うん、分かった。……俺は少し、眠ろうかな」

「すぐに忙しくなる、早く治せ。あと、扉は閉じるなよ」

「了解、頭領」

「分かったんなら退け。繋がってるのは、談話室の窓だけだろ」

「あ……、イオン、置いてきちゃった」

「お前ね……」


 のろのろと立ち上がり、身体を退かせた隼人は、談話室から自宅へと行く美濃の背中を見送った。

 隼人はイオンに合わせる顔が見つからず、美濃とイオンの会話が消えるまで、リビングに立っていた。

 首に指を這わせ、チェーンを引き出し、目当てのピアスを眼前で揺らす。

 白金の輝きが、いつも以上に増して見えた。


「薫――、俺、イオンを守るよ。オーディンの想う大義を果たして、薫の願いを叶える。美濃君が進む道は、誰にも邪魔させない」


 改めた誓いを宣言する。

 静かになったのを確認し、隼人はピアスを服の中に戻して、談話室へと入った。部屋の隅に畳まれた毛布を引っ張り出し、三人掛けのソファーに横たわると、顔以外を毛布に包ませる。

 眠い、とは思っていなかったが、横になると、知らぬ間に蓄積していた疲れが、隼人を夢に誘う。


 気がかりなことはたくさんあるが、イオンの無事な様子を見れて、隼人はほっとしていた。次に会ったら、何を話そうと考えるだけで、自然と笑みが浮かぶ。

 隼人はぼんやりとした視界で、部屋の隅に飾られた枯れゆく花を眺めていた。それから、段々と重くなっていく瞼をゆっくりと閉じる。

 芳しい花の匂いはちっともしない。慣れ親しんだ日常の匂いに身を委ね、隼人は意識を手放す。

 いい夢が、見られるような気がした。


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虚飾の審判者 真名瀬こゆ @Quet2alc0atlus

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