審判

第147話 審判されるということ

 第八世界境界もいなければ、第八世界境界線もいない。再び動き出した第八世界境界点は、鮮烈な色に染まることはなかった。

 空に浮かぶ透明な結晶はゆったりとした速度で回転していて、この点から半径二十キロの地帯を魔神の世界と繋いでいる。


 リフレクションドールは境界点が近づくにつれて、高度を下げていった。視界を埋め尽くしていたはずの桜の木は一本もなく、人の手に荒らされていない大森林が続いている。これが本来の第八世界境界点の影響圏内の景色であった。

 境界点の真下だけ不自然に木々がなく、開けた土地である。そこには点のような二つの人影と一機のメルトレイドが見てとれた。


「お前らは待ってろ」

「さっ、さすがに、も、もう、動けないよ」


 リフレクションドールはそうあることが当然であるように、待機状態のアイスワールドに並んで降着する。地に足をつけ、膝を折り、待機を構えて、ハッチを開くところまでの操縦を終えると、隼人は操縦席に沈むように身体の力を抜いた。


 メルトレイドの演算機能に接続されている未来の状態が分からない以上、リフレクションドールの電源を落とすことができず、隼人が仕事を終えるにはまだ早いが、ここまでくれば一息はつける。


「……すぐアイスワールドを寄こす」

「でっ、できれば、いっいイオンも。――たぶ、多分、イオンなら、みっ、みみ未来を何とか、でき、はず」

「分かった」


 美濃にしてみれば、居合わせる少年軍略家の身などどうでもいい話である。しかし、未来をどうにかしなければ隼人が休息をとらないだろうことは明らかで、美濃は一も二もなく肯定を返した。


 深く追求することは、すべてが片付いてからでいいのだ。もう、邪魔はないのだから。


「あと――」

「なんだよ」

「おっ、オーディンに、よろ、ろしく」


 へら、と真っ青な顔で笑う隼人へ、美濃は「ああ」と短く返事をすると、開けられた出口から外へと飛び出た。まず向かうは、隣で待機を維持している愛機の元だ。

 アイスワールドは美濃の姿を認めると、喜びを表現するように氷雪を舞わせた。きらきらとした細かな氷に包まれた青年は、ぺたり、と手のひらを従順な機体へ触れさせる。

 機体の熱はアイスワールド自身の氷点下に似合わず、冷たい美濃の手を温めた。


「アイスワールド、頼み事ばかりで悪いがヒナと雅を頼んだ」


 目線でリフレクションドールを示すと、美濃はくるりと世界境界点の方へと向き直る。美濃に絶対服儒のアイスワールドの返事を聞く必要がないのは分かるが、美濃のせっかちな動作はアイスワールドへの信頼だけでの行動ではなかった。


 心が急くのが身に反映し、歩みは一歩、二歩と踏み出すたびに早足になっていく。

 美濃の心は焦燥に駆られていた。それも仕方ないだろう。ずっと、ずっと――十一年前から求め続けていた第一世界境界。切望の再会が、ようやく叶う。

 急ぎ足は段々と重くなるようにして減速していくと、イオンと百合子と向かい合う位置で止まった。


「オーディン……」


 恋焦がれていたかのように、甘い吐息の混じる声。

 呼ばれた名前に反応したのは、ピンクゴールドを風に靡かせるイオンであった。遠い空、広い海のような紺碧の瞳は、彼女に宿る世界境界の色に上塗りされていて、深紅の瞳は美濃の姿を映して、柔らかく細められる。


「待っていましたよ。わたくしの愛しいしもべ」


 声に引き寄せられるように、美濃は更に距離を詰めるための足を動かす。恐る恐るの足取りは、確かに前へと進んでいく。が、急な邪魔に美濃は足止めをくらった。

 オーディンに手の届く位置まで近づく前に、美濃の身体は突っ込んできた小さな塊に足止めされる。


「隼人はっ――!?」


 百合子は美濃とは正反対の感情に心を染めていた。

 華奢な体のどこにそんな力があるのか、美濃の胸倉を掴んだ少女はがたがたと頭一つ分以上は大きな青年の揺さ振る。


「ッ、揺らすな!」

「無事なんでしょうね!?」

「無事――とは言えないが、生きてはいる」

「ッ――」


 コックピットで虫の息である隼人は、酷い傷で精神的にも肉体的にも死にかけであるが、今はスレイプニルが治療に働いている。後遺症や傷跡に関しては置いておくとしても、死する心配はないだろう。


 百合子の手から美濃の服が離れる。急に力を失った百合子は、そのまま地面に膝から崩れ落ちた。


「――――、本当に、生きて……よかった……」


 心配が安心に変換されれば、張りつめていた気持ちも緩む。心にできた安堵に涙腺も簡単に決壊した。百合子は感情のままに表情を崩す。


 ぼろぼろと大粒の涙を流す百合子に、美濃は止めた足をそのままでしゃがみこんだ。しかしながら、幼い頃のイオンの相手をするように、戯れに慰めることはできず、美濃はただ溢れる涙を拭い続ける百合子を見やるだけで、気の利いた行動をするわけでもない。


「相変わらず、不器用な子ですね」


 呆れたような声で美濃を咎めたオーディンは、着ていた白衣を百合子の震える肩にかけてやると、一緒になってかがんだ。慰めるように百合子の背をさすってやるオーディンは「大丈夫ですよ、すべて発散してしまいなさい」と穏やかに言葉を紡ぐ。

 三人が座り込んで顔を突き合わせるような状況になって、美濃は百合子からオーディンへと視線を流した。


「美濃」


 視線に答えるように、オーディンは幾年ぶりに美濃の名を呼んだ。

 オーディンからすれば、意志自体はずっと美濃の左目に収まっていたのだから、久しぶり、という感覚ではなかった。が、こうして顔を合わせて、言葉を交わすとなれば、懐かしさもひとしおである。


「薫に似て、とても綺麗になりましたね」

「……冗談のつもりか?」

「ふふ、すっかり大人ですねえ」


 穏やかな空気。障害であったアスタロトと若桜はこの世におらず、境界点の復帰している今では外からの来訪者もないと仮定して問題ない。彼らの再会の邪魔は何ひとつなかった。

 美濃をからかうオーディンは彼女なりに正式な再会を喜んでいて、花でも背負っていそうに浮足立っている。


 楽しげなオーディンに、美濃も表情を和らげた。

 第一世界境界と、その思想を尊ぶレジスタンスの頭領としての関係以前に、彼と彼女は旧知の仲であり、付き合いも浅くはない。

 オーディンと美濃は唐突に昔話でも始めそうであるが、オーディンは百合子を一瞥し、静かに立ち上がると、座ったままの二人を見下ろして「役目を果たしましょう」と宣言した。


「美濃と話し始めてしまうと、終わりが見えませんから、先に仕事を済ませましょう」


 それがいい、と二度頷いた第一世界境界にならい、立ち上がった美濃は「……オーディン、仮宿はもういらないだろ? イオンをヒナの所に」と願い出る。

 隼人の身体の傷は魔神に任せれば何とかなるだろうが、精神疲労をどうにかするにはまずメルトレイドとの接続を解除することが第一歩。そうするためには、イオンの存在は必要不可欠だ。


「あの子はまだイオンに執着しているのですか?」

「――それは関係ない。俺も詳しい説明できるほど、事態を理解してねーんだ。けど、ヒナはイオンが行かなきゃ、操縦席から離れない」

「……まあいいでしょう。私もヒナに話がありますから」

「っ私も――!」


 イオンを解放することなく、隼人の元へと行こうするオーディンを引き留めるのは、まだ涙を止められない百合子だった。


「一緒に、行かせて」


 彼女が隼人と最後に顔を合わせたのは、見たくもない過去を奔走していた記憶螺旋の中。ほんの数時間前のことであるが、その数時間で何があったかは百合子には分からない。

 生きている、とは聞かされても、正規ではない腕を生やしたメルトレイドを見れば、激戦があったことを察するに容易かった。話はできずとも、一目みたいというのが百合子の素直な気持ちである。

 しかし、百合子の希望は「会わない方がいい」と美濃の声に即座に否定された。

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