第125話 理想と思想、信念と大義
「……」
美濃は動かなくなった薫の手を離すと、その手で彼女の瞼を下した。
第一世界境界点の圏内にあるフロプトの屋敷では、ほぼほぼ毎日と姿は目に入れていたが、まじまじと顔を見るのは久しぶりだった。
閉じられた瞳、散らばる黒髪、白い肌。呼吸の音がしない以外は、屋敷にいるのと何も変わらない。
身体を巡る感情に身を浸しながらも、美濃は折っていた膝を伸ばす。心を裂く悲しみは溢れているが、同じくらいに憎しみも燻ぶっていた。
しっかりとした足取りは研究所の建物へ踏み入る。
建物の中は瓦礫が散らばってはいるが、適当なりに整備されている様子が窺えた。天井に開いた穴や、崩れた壁から入り込む日光が光源で、暗がりの道をぼんやりと照らしている。
様々な施設を複合する研究所は、美濃に言わせれば無駄に広い。建物内部に入ったことのない美濃に分かるのは、メルトレイド格納庫のある方向くらいのもので、若桜が拠点にしていそうな部屋の心当たりなど一切なかった。
迷子必至であるが、美濃の頭にはそんなネガティブな発想はない。正しくは、そんなことを思い浮かべる心の隙間がなかった。
「……」
足早なブーツの足音は反響して廊下の長さを教える。美濃は思案に足を止めることはなく、詳細を知らない研究所を突き進んだ。
続く廊下の先、淡い灯りが美濃の視界に入る。引き寄せられるように光に近づいていく。明かりが大きくなるにつれて、その先に広がる景色も見え始めた。
廊下は終わりを迎えていて、窓の向こう側にあるのは中庭だ。眩しい緑を輝かせる木々と暖色の花々が見てとれる。崩壊した壁は外への出入り口に申し分なく、美濃も正規の門ではないそこから外へと出た。
建物の壁が作り上げる柵の中、真上に広がるのは青空。
中庭はどの位置を見てとっても、建物と比べるのがおこがましいほどに美しく、完成された空間であった。窓越しに見えた通り、荒廃した研究所と異なり、ここだけは隅々まで手入れがされているようである。
「やあ、お別れは済んだ?」
その中心、花壇に座った若桜は指で花をつついていた。色素の薄い髪とペリドットの瞳は、中庭の一部でも可笑しくはない。紛れ込むように存在する若桜の隣では雅が伏せている。
「……お前の命なんかで、薫の死は償えねーけど、手向けの花くらいにはなんだろ」
「花束なら見繕ってあげるよ。どんな色が良い?」
二人は視線を交わらせるだけで、攻撃をしようという動作は見られない。銃口を向けられても若桜が動じないのは、美濃も十分に理解していた。
敵意だけは収まらず、鋭い眼光は変わらずに世界境界線を射抜く。
「……人類審判、その結果が、人間が魔神に勝る」
若桜は花を愛でることを止めずに、そっと口を開いた。
唐突に始まった言葉は目先の話題ではなく、規模の大きな、もっと根の深い話題である。
人類審判、世界境界点が現れた日から始まり、今では一段落のついている規格外の社会問題。
結果として、魔神はエネルギー源のひとつとなった。レプリカに捕らえ、命を命とせずに扱うことは、魔神より勝った人類の利権である。勝者と敗者の区別は明確だ。
「喜里山くんはどう思う? 人類審判は、人類が強く正しいことを示した?」
いつでも過度な愛想を振りまく世界境界線の顔が、情けなく崩れる。虚しさを噛みしめているかのような、心を痛めているかのような。定例放送に見慣れていれば、青年がするには不似合いな表情であると思えるものだった。
「若桜はそれでいいと思う」
台詞と声色とが相違する。
花から美濃へと視線を移し、若桜はもう一度、同じ言葉を繰り返した。
「――それでいいけど、魔神の命を食い潰して生きる人間の在り方は間違ってる」
美濃は僅かに怪訝さを覗かせた。
境界線の青年が淡々と告げる話は、フロプトがSSDに向ける口上と類似している。魔神の命を人間が好きに扱うことは間違いだ、と。美濃も再三、口にしてきたことだ。
「ねえ、喜里山くん。若桜と世界征服しようよ」
柔らかに微笑む。しかし、悲哀は隠しきれず、泣き笑いのようになった若桜は「これがきみへの用事」と美濃をこの場所に呼び出した目的を暴露する。
「一ノ渡さんはねー、SSDの闇を暴いて、魔神の声を皆に聞かせたいだけなんだってば」
「……」
「きみだって知ってる――いや、知ったでしょ? 若桜くんやヒナくん、イオンちゃん。他にもたくさんいた」
記憶螺旋で知り得た情報のひとつ、この研究所は存在自体が倫理に反する。
幼少期の被験体二人と親しくしていた上、姉の薫はSSDの所属であったが、美濃はその当時の内情については詳しくなかった。
今でこそ、吉木や雅というパイプで必要以上を把握しているが、緻密に隠蔽された情報にまでは手が伸びていない。そもそも美濃とSSDを繋ぐ二人はどちらも欠陥品であったのだ。一層のこと知る由のない話である。
「被害者だもの。大人しく過去に囚われてなんか、いられないよね」
「……」
「僕はこの地で魔神と共に育った。アスタロトの――」
「断る」
力強い否定の言葉はさして大声ではないのに、若桜には強烈に耳に残った。若桜の脳裏でリフレインする言葉を助長するように「お前の生い立ちなんて興味ねぇ」と美濃は素っ気なさを添える。
「お前の行動理念が魔神のためでも、父親への復讐でも、俺は何だって構わない。興味ないからな」
「……」
押し黙った若桜は断られた理由を求めていた。
断られた意味が分からない、と顔で物を語っている青年に美濃は盛大なため息を吐いて見せる。
「フロプトは世界境界点をすべて消失させる」
己の過去の体験を憎悪してか、魔神という存在が迫害されることを忌避してか。理由はどちらにせよ、若桜はSSD、ひいてはその機関を承認する世界政府を相手に反乱を起こしている。
美濃率いるフロプトも、確かに敵対する相手は同じである。若桜側から見れば仲間に成りえるかもしれないが、美濃側から見れば第八世界境界線は同志ではなかった。
「第八世界境界点を有し、第八境界の力を使って世界征服しようって言うなら、お前は間違いなく敵だ」
見下した瞳は絶対零度の冷やかさで、若桜を軽蔑していた。
「例え、抗う相手が同じでもな」
若桜が魔神掃討機関に復讐するというなら、ご自由にどうぞと美濃は言う他ない。その権利がないとは言わない。ただ境界線が同族意識を持っていようと、美濃やフロプトに若桜の事情は関係ないのだ。
もしかすれば、隼人やイオンには思うことがあるかもしれないが、気を引くためにした行為は贔屓目に見てもやり過ぎである。賛同を得るには手遅れだろう。
「人間が魔神を好き勝手に蹂躙するのが許せない? 魔神が人間を審判しようなんてのも可笑しい話だろ」
「……若桜は、間違ってるとでも?」
「どうだっていい。俺はお前を殺す。俺たちフロプトの決断は正しいからだ」
若桜はぱちぱちと物珍しいものを見る目を瞬かせた。ペリドットの瞳はしばらく美濃を見つめた後に、瞼を落し視界を塞いだ。
視界が機能していない若桜の隙を逃すことなく、美濃は無遠慮に銃を構えると速攻で撃ち抜いた。
くす玉の割れる音にしては物騒だが、銃撃音はまさしくそのものだった。
当然ながら若桜に攻撃は届かず、綺麗に整えられた中庭を散らかすように花びらが散る。動揺も見せず、微動だにしない若桜は瞳を閉じたまま、口許に歪を描いた。
ゆるりともったいぶって開けられた視界、宝石の瞳は喜色に富んでいた。
それまでの気弱さに過去を滲ませていた面影はなく、決裂した交渉に未練もないようだ。
「世界征服の第一歩は、対魔神掃討機関、最大勢力レジスタンスの頭領の首を掲げることからか」
若桜から滲み出るのは自信しかない。自分は強者であることを、彼本人が一番に理解している。
過去を見せると言う能力だけを見れば、物理的な攻撃能力を持たない分、相手にするには容易い。が、それは直接接触を求められる境界点の影響圏外であれば、の話である。この場では境界線の意志ひとつで、過去の迷宮にも閉じ込められた。
第八世界境界点の力がある以上、美濃には不利だ。
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