第119話 悲哀の先に眠る
「イオンはどれから食べる?」
「うーん、と」
混沌とした状態の大人たちなどお構いなしで、過去の子供たちはお菓子を広げてはしゃいでいた。
少年少女の耳にピアスホールなど開いておらず、薫のものであったプラチナのピアスはお互いのポケットに収まっている。
箱の中身を見届けた美濃は、再びイオンの傍に戻った。床には座らず、背中をテーブルに預け、彼女が泣き止むのを気長に待つ。
若桜に攫われた薫や、世界境界に精神を乗っ取られている雅を思えば、急ぎたいのは山々だが、この記憶螺旋は急ぐだけで脱出できる迷路ではない。
研究所の中について無知に等しい美濃からすれば、イオンの存在はあって損ではないのだ。
「うぐっ、うっ、ごめ、っね美濃君」
イオンは乾いた嗚咽を漏らす。沈み続ける心に反し、身体の方が涙を流すことに限界を訴え始めていた。
「もういいのか?」
「目も、喉も痛っい。でも、が、我慢しなきゃ、また疲れて寝る」
「ああ、それは遠慮してくれ」
涙は完全に止まっていないが、イオンは行動を始めるために動きだす。まずは曲げていた足を延ばすことから。急に動こうとしても動けないのは、もう身に染みて分かっているのだ。
詰まっていた血液が流れるように、じんじんとする痺れがイオンの足元を発端に身体を走る。
「動けそう、の前に、立てそうか?」
「ちょっと、時間、頂戴」
「なら、その時間で一ノ砥若桜のいそうな場所を考えろ。研究所のことは俺にはさっぱりだ」
「……イチノトワカサ? ……研究所に?」
「は?」
不思議そうに首を傾げたイオンと、呆気にとられた美濃は無言で見つめ合う。二人の耳に聞こえるのは、薫から与えられたお菓子に有頂天になっている少年少女の声だけだ。
イオンはそこでようやく過去の自分に気付き、紺碧の瞳に己を映す。幼少のイオンと隼人はのんびりと暇を満喫していた。
「お前、ここがどこか分かってるか?」
「……? ……過去の研究所」
「ちょっと待て」
美濃は頭を抱えた。
しかし、すぐに自分の判断を改める。相手が隼人ではなくイオンだと思えば、説明する気もすぐに起きた。世界規模で最高峰を称される天才。少し情報を小出しにするだけでも、簡単に自分の置かれている状況を理解するだろう。
「過去にいる原因を知ってるか?」
「正確には過去じゃなくて、第八世界境界線の力でできている空間。私たちは肉体を持たず、精神だけが存在している」
「……驚かせんな。何も知らないのかと思った」
何も知らなかったのは本当のことだ。
SSDで若桜と遭遇した後、わけの分からない状態のまま記憶螺旋に落とされたイオンは、同じ境遇の六人中で誰よりも長い時間ここにいる。しかし、一切の説明なしで能力に呑まれた彼女には、目の前に広がる光景が過去であることしか分からなかった。
思考回路は状況把握を求めて勝手に巡る。
途中、鎖されていた記憶が閃き、悔恨に心を奪われたが、零からのスタートであった彼女は置かれている状況をきっちりと理解していた。
「……ここに一ノ砥若桜が? 何故?」
美濃は記憶螺旋について、若桜が提示したルールを説明をした。とは言っても、美濃が教えたことと言えばここの出方くらいのものだ。若桜を見つけることが、終わりのない過去迷宮の出口。
「で、心当たりは?」
記憶螺旋に入れられている人間の中で、過去の若桜を知っている者がいるとすれば、被験体の二人しかいない。紅白軍人と鍵の少女は研究所の存在すら知らなかったのだし、美濃は建物の内部に足を踏み入れたことがなかった。
「――他にも」
「あ?」
「他にも、集められた験体がいて」
言い淀む声。言いにくそうにするイオンには思い当たることがあるらしい。
「……道案内は、任せるぞ」
「…………うん」
肯定を示す声に反し、イオンの表情は浮かない。
「お子様どものおやつが終わるまでは動けねーけどな」
場所が分かるならばそこへ行こう、と簡単に移動ができないのがこの場所である。
記憶螺旋。
数人の過去が混ざり合い、モノに触れることはできても、動かすことはできない。
先ほど、小さな二人が出入りに使った扉はしっかりと閉じられてた。迷子である美濃とイオンがここから出たいならば、実験体らと一緒に行動するか、不規則に起こる時間移動に賭けるしかない。
「……」
「……」
会話は自然と後を継げず、二人だけに沈黙が訪れた。
「……」
「……」
美濃はイオンの知る情報を引き出そうとはしなかった。
理由はいくつかある。
美濃は研究所の深い闇の底を知らない。それは若桜が研究所にいるとは分かっても、すぐに心当たりが浮かばなかった隼人も知らないもの。イオンの顔を見れば若桜に関わる話が、良いものでないのは明白だった。そして、顔に出るということは、彼女はそれを知っているのだ。
無理に聞き出し、イオンにまた泣き出されてしまえば、せっかくに費やした時間が無駄になる。
「……」
音もなく溜め息を吐き、青年はくしゃりと髪をかき上げた。
能動的な行動をできない二人は、それぞれに時間を潰す。
イオンはゆっくりとした動きで立ちあがり、慣らすように閉鎖された室内を歩き回った。よろよろと歩む姿は、生まれたての仔馬である。お菓子に心奪われている子供たちには近寄ろうとせず、荷物の狭間から出て行こうとはしない。
「イオン、こっちのチョコおいしいよ」
「……ヒナ、そんなに一気に食べて味分かるの?」
「わかるわかる! おいしい!」
美濃は呆けた視線で懐かしい過去を見やっていた。頬を膨らませ、お菓子を詰め込む隼人。その隣で、ちびちびとお菓子をかじるイオン。
隼人はさして変わらない能天気であるが、イオンはSSDの広報で顔を出している科学者と同一人物とはまるで思えない。記憶喪失のせいもあるのだろうが、人を寄せ付けない雰囲気はなく、内気でおどおどとした印象を受ける。
現在と過去の彼女の姿を見比べ、美濃は浮かんだ疑問を尋ねた。
「お前、どこでオーディンを受け取ったんだ。ってか、どうやって連れてる」
ふ、と思い立ったような、なんでもないような声色。
イオンはぎょっとした顔で振り向いた。硬直していた身体も動き始め、まともに足が動かせるようになったらしい彼女は、誰の目にも分かるほど動揺していた。
「……知ってた、の?」
「この前の試力実験で知った」
数週間前の話、事実を知った美濃はオーディンを手に入れるために昨日まで動いていた。
計画自体には問題はなかったが、結局は失敗に終わっている。雅経由でフロプトの思惑が若桜に直通だったせいで、無関係に置かれていた若桜が良いように邪魔に入ったからだ。
世界境界線にとって、雅は非常に優秀な情報源である。SSDとフロプト、両方の内部事情を知ることのできるパイプだ。
「……」
「オーディンを探すのに、当然、お前のことだって調べた。なのに、俺の目はオーディンを見抜けなかった」
青年は眼帯に隠された左目に触れる。己の目であり、森羅万象の欠片。姉から託されたオーディンの瞳。
美濃が大義と称する世界境界は、惨劇のあの日に行方知れずになった。
当然、オーディンを求める美濃は、生き延びた人間全員を調べた。肉体が生きるだけの薫、研究所の関係者五人、生き延びた竜の民全員。しかし、第一世界境界の姿は何処にもなかった。
「研究所側で生きてるのはお前らだけ。なら、竜の民の誰かが他に生き延びていて逃走したのか、って結論付けてたけど、スレイプニルが回帰できない理由は分からないまま」
フロプトの存在理由である”世界境界点の消失”という目的を遂げるには、”審判”の能力を持つオーディンの存在は不可欠である。むしろ、オーディンの能力を補助するための組織がフロプトと言って間違いない。
美濃はずっと第一世界境界を探し続けていた。だからこそ、不思議なのである。オーディンの瞳とスレイプニルを掻い潜ってイオンがオーディンを身に宿していた方法が。
「五月二十九日、フロプトの、二機のメルトレイド」
「イオン?」
「私、あの時も、ヒナのこと、殺しかけ――」
イオンはかたかたと震えていた。すっかりと幼少の記憶ばかりに心を囚われていた彼女は、つい最近に起こした事件など忘れていたようである。美濃が心の内でしまった、と思った時は手遅れギリギリであった。
目も当てられない酷い顔、どこから絞り出したのか、目にはうっすらと涙の膜が張っている。
「おい、もう泣くなよ。めんどくせえ」
「美濃君のことも!」
「イオン、次泣いたら頬を千切り落とすぞ」
「イオン、そんな顔すんなよ。私がいじめてるみたいだろうが」
過去を移動するのに前触れはない。瞬きした後には、状況は一転している。今も場所は移動していないが、時間は確かに移動していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます