第113話 独りにしないで

 スレイプニルは困惑していた。

 隼人が泣き縋る薫は、スレイプニルにとっても特別の存在である。

 己の主であるオーディンに応じる世界境界線であり、主の存在を打ち消す力をも有する人類の希望。


『かおっ、ひっく――かおるってば、起きてよ、っお、きて!』


 幼い隼人は薫の名を呼び、身体の中の水分が枯渇してしまいそうなほどに涙を流し続ける。ぐりぐりと顔を押しつける少年に習い、スレイプニルも首を折り、額を冷たい身体に擦り寄せた。

 外傷のない薫は寝ているようにしか見えない。


『六代目……、何故……』


 第一世界境界線となる前の薫は、スレイプニルと身体を共有するマグスであった。スレイプニルの視点からすれば、彼女は隼人の前の宿主に当たる。

 喜里山薫。

 凛とした輝きを持ち、何にも囚われない。影響を与える側、大衆を率いる資質を持つ人間。たくさんの因果を背負いながらも、決して挫けることのなかった薫に、スレイプニルは深い畏敬を抱いていた。

 そんな彼女がこんな風に、突拍子もなく死するなど考えたこともない。

 信じられもしなかった。


『主はどウしたのだ、何故一緒にイナイ』


 一緒にいれば、こんなことにはならなかったかもしれないのに。

 スレイプニルは出かかった言葉を喉でせき止める。今となってはどんなことを言っても手遅れなのだ。悲しみを紛らわせるように、薫を鼻先で小突く。熱のない肌を実感して、余計に悲哀は益々色濃くなった。


「スレイプニル」


 隼人は薫の頭御を拘束する腕の力を緩め、同じように動かぬ彼女に身を寄せる魔神の顔を窺う。真っ赤になった目、周辺の皮膚は腫れぼったく、酷い泣き顔。

 スレイプニルは心に傷を負った幼い宿主の姿に、これ以上は砕けないと思っていた心が更に細分化する。


「薫、息、してるよ」


 世迷い言にしか聞こえない隼人の言い分に嘘はない。

 死しているはずの薫の身体は、不可思議な形で生きている。


「死んでないよね? 助かるよね?」

『…………ワタシには、分からなイ』


 緩やかな呼吸は続いているのに、心音は聞こえない。この状態が幸いなのか、災いなのかはスレイプニルには判別つかなかった。

 二機のメルトレイドが並び、その上で悲しみに暮れる一人と一体に影が差す。

 涙の膜で歪む隼人にも、影の正体を認識できた。

 異界に染まった機械人形。

 コックピットを覗きこむ眼球はぐるりと一回りし、隼人に焦点を合わせる。元来、メルトレイドにはない生体器官だ。

 壊されたコックピットから、隼人とスレイプニルは外を見上げる。


「イオン」


 隼人は柔らかな響きで名を呼んだ。

 呼びかけに応えるように、生物である機体はぱちぱちと瞬く。瞳だけで感情すべてを把握することはできないが、垣間見える焦げ付く戦意は、確かに生きている感情であった。

 隼人と魔神化した機体は視線を絡ませる。睨みあうのとは雰囲気が違い、お互いに考えを読み取ろうとしているかのようである。


「……返して」


 一連の目を疑うような戦闘操縦はイオンの業ではない。隼人とスレイプニルにもそれは分かっていた。そして、降りる行為をしなかったイオンは、今、メルトレイドという宿を得た魔神の中に確かにいる。


「イオンを、返して」


 隼人の頭はこれ以上の悲劇を受け入れることを拒否していて、自然と涙腺も次を零すことを止めていた。深手の傷心に、感情は表現を拒否し始めている。

 しかし、少年がどんなに嫌がっても、現実は現実。目前の薫の存在はどんなに哀しくても、見えないことにはできない。

 もし、イオンも同じような行く末を迎えたら――少年の頭の中を占めるのは悪い予想ばかりで、脳裏には不幸の結末だけが溢れていた。


 この惨事を招いた原因は、この実験に居合わせた全員にあるとも言える。

 隼人が戦闘拒否をしなければ。

 薫が乱入さえしてこなければ。

 相島博士が実験中止を言い渡していれば。

 吉木が余計な提案をしなければ。

 イオンが隼人を守ろうとしなければ。

 兵器開発の実験自体がなければ。


「イオンを返して……!」


 再度、要求を繰り返す。

 責めるような強い口調に対し、言葉を理解しているのか、いないのか。魔神は他人事のように身体ごと首を傾げた。瞳に含まれた好戦を連想させる色は消えないが、機体は少年に襲いかかろうとしない。

 隼人は小さな手で拳を作った。

 精神的な疲労が限界を超えているせいか、身体に思うように力は入らない。それでもなけなしの余力で心を奮い立たせた。


「俺から……、イオンと薫を、奪わないで……」


 絞り出した声で、隼人は懇願する。

 ほんの少しでも気を抜いてしまえば、足元から常闇に引きずり込まれてしまいそうであった。実験施設の中で生きる隼人にとっての生きる意味は、相島博士の研究への貢献ではない。

 イオンと薫。

 それ以上を望んだことはなく、それ以外を欲したことはない。


「イオンっ!!」


 絶叫に等しい声に、ただ隼人を観察していた機体は、興味をなくしたように視線を外した。英雄の遺志にかかっていた影が消え去り、高い位置にある太陽からの光線が降り注ぐ。

 開けた視界は、魔神へ隼人の要求が通らなかったことを意味する。


「待って!! イオンを連れて行かないで!!」


 開けた天に手を伸ばす。

 少年に見えるのは、雲の少ない空と待機に跪く実験機体。目的の機体ではない。イオンを呑みこんだままの機体が見えることはなく、伸ばした手は空を切った。

 隼人は薫を手放し、英雄の遺志のコックピットから這い上がる。腫れぼったい瞳で、遠ざかっていく機体の背を捕らえた。

 緩やかに足を運ぶ機体は、やはり少しばかり前に傾いた姿勢だ。メルトレイドであった頃の真っすぐだった背筋は取り戻せないらしい。

 肉と機械が交る異形が向かう先にあるのは、この境界圏内での異形であった。


「……研究所に向かってる?」


 ほんの数十分前までは、いつも通りの日常。それが、戦闘訓練と称された実験は、明確な立場の見えない殺し合いにすり替わっていた。

 結果、薫は変則の死を迎え、イオンは魔神の体内にいる。


「イオン」


 隼人は英雄の遺志から実験機体に駆け寄った。途中、壊れた操縦席を覗きこみ「……スレイプニル、薫をこっちに」と声をかける。

 このまま、嘆き悲しんでいるわけにはいかなかった。


『……アれと戦ウのか?』

「敵わなくても、イオンのためなら何だってする。……研究所には相島博士もいるし」

『……』


 スレイプニルは押し黙る。彼女は相島博士に対して良い感情を持ってはいなかった。先ほどの非情な強制命令を受けても尚、隼人が相島博士を気に掛けることを不満に思っているくらいだ。

 幼少の隼人には相島博士の真意は見えていない。彼女は何かと世話を焼いてくれる担当科学者。現代の隼人も相島博士を悪人とは見ていなかった。研究者として、情のないことをする顔もあると知りつつ、それが彼女の個性と受け取っていた。


 実験機体に乗り込んだ隼人は操縦桿に手をかける。

 薫を咥えたスレイプニルは、続いてコックピットに身を入れる。一瞬で狭くなったそこに、彼女の身体を静かに下すと、隼人の身体の中に戻った。


「絶対、絶対助けるから。薫、イオン」


 決意を固め、隼人は自らに宣言をする。

 レプリカを通じ、メルトレイドを起動すば、真っ黒であったモニターに外界が映る。何もない実験場の先、メルトレイドと同じく白を基調とした研究所へと魔神化機体は着実に近づいていた。


『待て、七代目』

「……何?」

『アの機体、命の音がウるさイ。多すぎる、嫌な音だ』


 スレイプニルの感じ取った悪寒は、イオン救出に出ようとする少年を足止めるには十分なものだった。

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