第67話 己の心に従う誓い

「遅かったな、相島」

「……百合子さん?」


 隼人は素直に驚いた。

 ――屋敷にいるはずの彼女が、どうしてここに。

 百合子は呼び掛けた美濃を通り過ぎ、座りこんだ隼人の傍へと一目散に駆け寄った。

 しゃがみこみ、隼人の顔を隠す前髪を払う。少年の顔色を窺う百合子は、最初こそ心配そうにしていたが、隼人が驚きの色をするだけであることに、分かりやすく安堵した。


 たおやかな笑みを浮かべ「また泣き腫らしてるのかと思ったわ」と柔らかい指先が、優しく隼人の頬に触れる。

 切なく揺れる瞳で、他人の身を案じる百合子に、隼人は自分の選択は間違っていない、と認識した。


「立てる?」

「ん……、ありがとう」


 百合子から差し出された手を取り、隼人はゆるりと立ち上がる。

 力は入らないが、立っていられなくはない。


「……話、聞いてたの?」

「喜里山美濃に言われたの。定例放送が始まったら、開いてる扉から外に来るようにって」


 薫の部屋を抜け、非常口から館長室を通り過ぎ、ここに来たのだろう。

 声のする方は一つしかないし、彼女は不用意に外に出るような冒険を侵すようなタイプではない。

 行き着く場所は、ここしかない。


「話が逸れてたな」

『そもそもキサマがッ!』

「スレイプニル、落ち着いて」


 隼人は興奮冷めやらないスレイプニルの背を叩いて、宥める。


「相島の言い分があるなら、聞いてやるだけ聞いてやるけど?」

「――別に、ないわ」


 百合子と隼人、スレイプニルと対峙する美濃は、緩く頷くと「……さて、フロプトが引き渡すのは、八番の鍵だけじゃない」といつも通り、つんとした雰囲気で気だるそうに声を発する。


「SSDからの要求は、相島百合子と、竜の女帝を名乗るパイロットの身柄を引き渡すこと。つーわけだから、お前がそいつをイオンのとこに連れてけ」


 美濃はしっし、とまるで野良犬でも追い払うかのような手を動作をつけて、命令を言い渡す。


『美濃ッ!!!!』

「貴方っ、私のことはともかく、この人は仲間でしょう!?」


 言いつけに声を荒げたのは、命令を受けた本人以外であった。

 スレイプニルは八本の足で隼人の前に出ると、その身の後ろに隠す。魔神に並んだ百合子は、下衆を見る目で美濃を鋭く刺した。


 鉄壁、とは呼べない。それでも、守ろうと意志だけは、痛いくらいに隼人に伝わる。気分の悪さなど、どこかに忘れ去っていた。


「フロプトとしては仲間だろうと、竜の民としては部外者だ」


 隼人の視界に美濃は映っていない。

 それでも、隙間を縫うようにして届く言葉に、隼人はびくり、と大げさに肩を揺らした。深く根付いている心的外傷をえぐられたのはついさっきのこと。


 美濃の言葉は、その延長線上をいくものだ。


「四条坂駅で相島に名乗らせたのは失敗だったな」

「……何を、言っているの?」

「恨むなら、あの変態科学者とお前の母親だ。今更、お前のことを売る」


 美濃は聞き返す百合子へは見向きもせず、視界に映らない少年に標準を定めているようだった。


「お前の母親から居場所をリークされた変態野郎が、俺の説得に手こずるなんてありえない。民の命を引きかえに、定期健診を申しこんでくるような奴だ」

「まさ……、か……」

「お前と相島が一緒にいた以上、どっちかを引っ張れば、あとは芋づるでいけると踏んだんだろ」


 隼人はぐるぐると回る視界に、頭を抱えた。滲む涙は零れはしないが、見える景色を滲ませるには十分で、頭を支える手を離して目を擦る。

 ふと、見つめた自分の手の平が、真っ赤に染まっているような気がした。


「俺にあの悲劇をもう一度繰り返させるな」

「……」


 昂っていたスレイプニルは嘘のように大人しく、事の成り行きを聞き入れていた。百合子だけが分からない、と首を傾げながら、黙るスレイプニルと威圧的な美濃とを見比べている。


「……分かった」


 隼人は唐突にばちん、と両頬を叩くと、不甲斐ない顔つきを一瞬で変えた。

 ぎりり、とスレイプニルが歯を食いしばる音が酷く耳に残る。反論も抗議の声もない。


「引き渡されるにしても、その前に魔神を狩らせて」

「は!? 馬鹿を言うのもいい加減にしなさいよ!! なんで貴方がそんなことしなきゃ――」

「俺は!」


 叫ぶようにして、隼人は百合子の声を遮った。

 壁となっていた百合子とスレイプニルの間へと割り込み、横一列に並ぶ。真ん中に位置する隼人は、影を落としている百合子の顔を覗き込む。対照的に、ほほ笑む少年。

 いつもの、隼人の姿があった。


「俺はフロプトの、雛日隼人だから」


 隼人はスレイプニルの首筋を緩く撫で上げる。

 無言で愚図る魔神を苦笑いで慰めると、隼人は考えを見透かせない頭領を見据えた。

 よくよく見なければ分からないが、美濃はオッドアイである。日の光を受けると分かる程度の違いであるが、左目には深い緋色が孕まれている。

 隼人はその色の違いが分かるほどに、しっかりと目を捉えた。


「俺はいいよ。でも、百合子さんのことは、考え直して欲し――」

「お断りよ」


 自分のことは置いて、彼女を守るために提案した心遣いを即却下したのは、頭領ではなく、同じく、身を捧げることを要求されている百合子だった。

 隼人はきょとんと隣を窺う。


「……百合子さん?」

「私も貴方と行く」


 少年の方を見ずに、そう言い放った百合子は、美濃に対して悪態づいている。

 腕組みし、仁王立ち。美濃に負けず劣らず、高圧的に睨みつける横顔からは、お嬢様とは思えない、逞しさが垣間見える。


「最初っからそうしてるもの。これからも、好きにやるわ」


 仕方ない、と眉を下げた隼人は、組まれた腕を解かせ、百合子の手をとった。

 隼人の本音を言えば、一緒に来ることをは勧めたくない。しかし、こっ酷い言葉で突き放しても、きっと彼女はついてくる。


「じゃあ、一緒に行こうか」


 ならば、自分ができることをしてやればいいと隼人は決心した。

 隼人は百合子を引いて非常口へと向かう。


「ヒナ」


 手が繋がれているせいで、片方が足を止めれば、もう片方も止めざるを得ない。一人に向けられた呼びかけに、二人は揃って振り返った。

 美濃は背を向けていて、少年たちには顔を見ることは叶わない。


「ここを壊させるな、俺を殺させるな」

「うん、了解!」


 いつも通り、元気に返事をすると、隼人は出動のためにこの博物館を去ろうと急ぐ。

 モニターの中、楽しそうに第八境界内の研究所を説明をする若桜。

 定例放送は終わりに近付いている。


 先に行く二人の背を見つめながら、足を動かさずにいたスレイプニルは『美濃……、だからワタシはオマエを選ばなかった』と捨て台詞を吐いた。

 美濃は何も発せず、動きもしない。

 スレイプニルは美濃を一瞥すると、宿主たちと合流し、手近な非常口から屋敷へ戻る道を開いた。


 外界とを繋ぐ通路代わりである薫の部屋は、相変わらずに、民族装飾品に溢れていて、薄暗い。隼人は「薫、ただいま。それから、いってきます!」とベッドの彼女に忙しない挨拶をして、部屋を駆け抜けた。


『先に行く。外で待ってイてくれ』

「分かった」


 スレイプニルは一瞬姿を消して、壁をすり抜けて行く。先行してメルトレイドを取りに行く魔神に対し、二人はばたばたと外を目指して、屋敷の階段を下りる。

 外に出るまでに大した距離もなく、二人はテラスの前に並んで立った。


「貴方、自分のことなのに、何も文句言わなくてよかったの?」


 聞き辛そうにしながらも、百合子は言われるがままに行動を起こす隼人の心内を探る。


「うん。美濃君は、間違ったことしてないし」


 隼人は晴れやかに、辛気臭い空気を笑い飛ばした。

 それが強がりなのか、本音なのか、百合子には分からない。必然的に彼女にできる行動は沈黙一択で、フロプトの少年を理解することができない事を歯痒く思った。


「百合子さんは、死なせないよ」


 考え事をする百合子が先を案じている、と勘違いした隼人は柔らかく微笑むと百合子の両手を取った。


「絶対、俺がさせない。例え、百合子さんが、そう望んでも」


 そう言われて、百合子は初めて自分の中に不安がないことに気付いた。

 絶体絶命の立場、死が寸前まで迫っているのに、恐怖はない。死んでもいい、と思っているわけでも、諦めているわけでもない。

 ――目頭が熱い、頬も熱に溶けそうだ。


「約束するよ。何があっても、百合子さんを守る」


 にっ、と歯を見せて笑う隼人は太陽のようであった。


「……貴方、本当に馬鹿ね――隼人」


 百合子は眉を下げて笑う。こんなにも人を信頼したことなどなく、こんなにも人を想ったことがない。

 百合子は持て余す感情に導かれるまま、ゆるゆると頷いた。


 プロポーズかと錯覚できるような情景を止める者はいない。

 隼人は自分の巻き込まれている事態を忘れているかのように、「酷いな、百合子さん」と破顔した。

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