死王事件⑩


 なにをいっているのか。

 延明はそう問おうとして、ためらった。


 三区に死王がいる――そういえば、そのようなことを口走った者がいた。


小章しょうしょう、ですか……?」


 あの大柄なくせに臆病者の後宮宦官だ。


「ええ。そして彼のことを話すまえに明らかにしておきたいのが、病床に伏せる碧林へきりんの世話をしていた存在があるということです」

「……聴きましょう」


 言うと、桃花は「では」とくちびるを軽く湿らせるようにしてから口を開いた。


「風毒は開口障害を伴うと、さきほど申しあげました。こう、歯を噛みしめた状態でほとんど開かなくなるのです。嚥下にも障害を伴います。ですので、運ばれた生薬をたったひとりで毎日しっかり飲んでいたという状況は、まずおかしいのです」


 そういえば、と高莉莉こうりりの言葉を思い起こす。


 高莉莉は『運んでいただけだ』と証言していた。飲ませたりはしていないと。そして、『次の夕には空になっていた』とも。


「それだけではありません。症状が進んで弓なりになるほどに全身に痙攣がおよぶと、歩行も困難になりますから、排泄の問題もあったでしょう。しかしあのへやからも、碧林の遺体からも、感じたのは微かな異臭だけでした。大も小も何日もたれ流したにしては、軽すぎるとは思いませんか?」

「……仲のよい宮女が世話をしてくれたのかもしれません」

「宮女ならば、なぜ薬湯を運ぶ役を引き受けなかったのでしょう? 世話をするほど仲がよかったのなら、心情的に、ただ置いていくだけの高莉莉さんに任せておけるでしょうか」


 つまり、彼女が言っていることはこうだ。


 碧林には、うつるかもわからない隔離された病人のもとへと通い、薬湯をのませ、排泄の介助、あるいは片づけをするほど親身であった人物がいた。

 その人物は親身ではあるが、なぜか薬湯を運ぶ役を引き受けることはなかった。


「では、それが小章であると考えているわけですね? あなたは」

「昨夜、三区のまえについたときのことです。ひどく怯えた彼は、風で物が転がる音におどろいてこう叫びました。『やはり三区は呪われている。やはり死王はまだ三区にいるんだ』……と」


 一挙手一投足を覚えているというわけではないが、延明は記憶力のよいほうだ。たしかに小章はそのように口走っていたと思われる。震えあがった小章は、そして逃げて行ってしまったのだ。


「妙だとは思いませんでしたか?」

「いえ、特にこれと言っては……」

「そうですか。これは挙げ足をとるようでお恥ずかしいのですが、わたくしは彼の言葉が引っかかりました。『やはり』という言葉は、『案の定』ということです。思っていた通り、あるいは予想していたことが裏づけられたときなどに主に使いますね。ということは彼はあのとき、『三区は呪われている』『死王は三区にいる』とということにはなりませんか?」

「それがどう妙なのでしょう」


「思い出してください。死王のうわさを。死王は母の怨みを晴らすため、謀殺の首謀者をさがして夜な夜な後宮をはいずりまわっているという話だったはずです。ですので、李美人が住んでいた三区を気味悪くは思っても、のです。――なぜなら、三区には今、妃嬪がひとりもお住まいではないのですから」


 たしかにそうだ。延明はこくりと唾をのみくだした。


 李美人は実際のところ病死だが、これを謀殺だと騒ぐ連中がいる。そういった輩が考える謀殺とはもちろん、妃嬪どうしの足の引っ張り合いを背景として妄想しているのだ。

 ところが三区には現在、妃嬪が住んでいない。

 いるのは李美人につかえていた宮女や侍女だけで、妄想する連中からしてみれば、これらは首謀者たりえないのだ。


 現に夜警担当の宮女たちが恐れていたのは、権力者である梅婕妤しょうよたち高級妃嬪がくらす一区だった。

 一区での目撃情報が最も多いのだ、とも言っていたではないか。


「それに、『まだ』という言い方も気になったところです。『まだいる』とは『依然としている』と言い換えることができます。つまり『死王は依然として三区にいるのだ』と言っていたのです。これはどういうことでしょう?」

「――小章は三区のなかで死王を見たことがある、ということですね」


 正確には、三区で異様な容体で臥せる碧林を見たことがある、だ。


 高莉莉がそうだったように、風毒に苦しむ碧林をみて、それを死王の呪いだと思い込んでもふしぎではない。


 しかし、小章は八区の下級宦官である。妃嬪のいない三区に足を踏み入れるような用向きがあったとは思えない。

 夜警にはあの日、だれかの代理でやってきたということだったから、夜警で碧林の容体を覗いたとも考えにくい。


 ではいったいいつ、小章は病床の碧林を目撃したのか。


 それに対する答えが、碧林の指にあった咬みあとであり、病床にある碧林の世話をしていた人物の存在であると、桃花は言いたいのだ。


 たしかに、碧林と小章は密通していた――そう考えるとつじつまが合う。


「薬湯をみずから運ぶことをしなかったのは、できなかったからですか……」


 宦官といえども、密通は罪。

 高莉莉や宮女たちに声をかけることはできなかっただろう。


「ご納得いただけたのでしたら、どうか検屍官を墓地へ。土中に埋葬されていれば遺体の腐敗はとてもゆるやかになりますから、咬み痕と歯型の照合にはまだ間に合うかと存じます」


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