死王事件⑨


「はい?」

 延明はあっけにとられた。


「桃花さん、幽鬼や呪いだという流言はもちろん困りますが、傷害致死など妙なことを言われるのはもっと困りますね。あなたも遺体検分には立ち会ったではありませんか。傷害をうけた痕など、どこにもなかったでしょう?」


 遺体検分の場には延明も立ち会っていた。桃花とともに遺体を照らす作業を手伝っていたからだ。

 さすがに遺体、しかも女性の裸体となるとじっくりながめるような趣味はなかったので、ほとんど視線はそらしぎみだったが、掖廷官が「殴打のあと無し、刃傷無し、服毒のあと無し」と確認していたのはきいていた。


 毒や外傷などの不審点が無く、病であったとの証言がある場合は病死とされるのが通常だ。


 問うと、桃花は灯ろうを持ちかえ、右手の小指を立てて見せた。


「いいえ。彼女の右手小指には小さな傷がありました」

「あれは……たしかにありましたが、非常に小さなものでしたでしょう」


 すでにかさぶたができ、治りかけた些細な傷だった。

 そんなものひとつひとつを「傷害だ!」などと判断していたら、この世の死者は大半が傷害致死になってしまう。


「だいたい、人ひとり死ぬようなものでは――」

「いいえ。死ぬのです」


 まっすぐなまなざしが、延明を射た。


「傷の大小は関係がありません。わずかでも皮膚がやぶれたところから、風毒ふうどくは容易に入り込むからです」


「風毒?」

「土壌にある毒です。これを破傷風はしょうふうともいいます。主な症状は、開口障害と顔面の硬直性けいれんによる引きつった笑い顔です。重度になると、背を弓なりにするほどの全身けいれんを起こします」


 ぱっと碧林へきりんの異常な遺体状況を思い出す。

 たしかに、噛みしめた歯、不気味な笑み、背筋をそらした不自然な姿勢――症状は合致しているかもしれない。


「碧林の主である李美人さまは、手づくりの苔玉を呂傛華ろようかさまに贈ってくださいました。あのかたの殿舎にもたくさん飾ってあったのを覚えています。お好きだったのでしょう。けれども、その苔玉を妃嬪ひひん手ずからおつくりになったとは限らないのです。中宮尚書なら、おわかりでしょう」

「ええ……それはもちろん」


 妃嬪は労働などしない。たとえそれが労働ではなく趣味なのだとしても、磨いて手入れをしている爪が汚れ、手が荒れる行為を厭う。

 かわりにそれらを行うのは、妃嬪に侍る宮女や侍女たちの役割だ。


「つまり、苔玉づくりを行っていたのは亡くなった碧林で、彼女はその際、あの小さな傷から病を得たと? しかし」


 ――ならば、やはり病死ではないか。


 そう指摘しようとした延明を、桃花は手をかざして制止した。

 そのまま、立てた小指をのこしてにぎりこむ。


「問題はあれが、咬み傷であったことです」

咬傷こうしょうですって?」

「掖廷官に確認いただければたしかかと。獣ではなく、人の歯型です。生活反応があり生前にうけた傷でした。そして、ほかに風毒が入りこむような傷はなかった。感染源はあの咬傷にまちがいありません」


 桃花はさらに先をつづける。たたみかけるようなしゃべり方ではないが、それでももはや、ぼんやりとした眠たげな彼女はそこに存在しなかった。


「咬傷は他物たぶつ――すなわち『刃物以外の凶器である』と定義されていますので、歯によって他人を傷つければ『他物による傷害罪』となります。さらに、その傷をもととした病で期間内に亡くなれば殺人を持って論じる、と律令で定められています」

「……あの噛みあとが、だれかからの傷害とはかぎりませんよ。碧林本人のものであるやも知れません」

「いいえ。前歯のかたちがちがいました」


 そんなところまで見ていたのか、と延明はあぜんとした。


「ですのでどうか、検屍官を手配おできになるのでしたら、碧林のほうもお願いいたします」


 延明はなにか反駁しようとして口を開き、結局ただ力を抜くように息をはいた。


「…………参りました」


 もはや、こみあげてくるのは妙な可笑しさだ。笑うしかない。

 後宮には詩や楽、機織はたおりから剣舞まで、さまざまな特技を身につけた美女が咲き誇るが、検屍に律令とはなんともまあ恐れ入るではないか。


 延明が肩をふるわせて忍び笑うのを見て、桃花はふしぎそうに小首をかしげる。

 そのしぐさだけを見れば、花園に咲く百花のただの一つであるというのに。そう思うとなお可笑しい。


「……せっかくですから、確認といきましょうか」

「あの?」


 笑いの衝動が収まり、歩き出した延明に、桃花が怪訝そうについてくる。


「乗りかかった舟です。どうせ寝られず起きているのでしょうから、高莉莉こうりりに話を訊いてみましょう。他者に噛まれてケガをしたのなら、おそらく小さな騒動くらいにはなっていたはずです。噛んだ者がだれだかわかるでしょう」


 女官たちとケンカのようなものがあり、その際に噛まれたのだろう。

 ちょっとききこめば、この場で嫌疑がだれにあるのか特定できる。


 しかし桃花は延明の衣をつかんでそれを引きとめた。


「――たぶん、だれも知らないと思います」

「え?」

「……言えなかったのではないかと」


 それこそ言いにくそうに、桃花は視線を伏せた。


「おそらく、あれは……その。情事のときについたものではないか、と」

「……は?」


 ぽかん、とあごが落ちた。


 あまりに予想外の答えで思考が一瞬止まってしまったが、ゆっくりと回りはじめた頭で考えるとおのずと答えは導かれた。


 咬傷、情事。

 これらがあらわすのは、すなわち。


「――宦官との密通、ですか」


 後宮に数千いる女のうち、皇帝の枕席に侍ることができる者はほんのひとにぎりにすぎない。

 大部分の女たちはいちばんの花盛りを、後宮唯一の男である皇帝の顔すら拝むこともなく、たださみしくひとり寝で過ごすのだ。

 そうした彼女たちをひそかに慰めるのが女官どうしの隠れた婚姻であり、宦官との密通だった。


 そしてまた、男を切りとられている宦官が性的に興奮すると、その発散に行いがちなのが咬むという行為だ。


 延明は指先が凍るように冷たくなるのを感じた。

 おぞましい、と嫌悪が湧く。

 同時にそのおぞましい存在に自分もなってしまったのだという、怒りのような、恐怖のような、真っ黒い感情が胸のなかに吹き荒れた。


「い、いや……。待ってください」


 延明は片手で覆うようにして、こわばる表情をそっとほぐす。

 今は自分の過去にとらわれている時ではない。しかも赤の他人のまえではないか。ただ微笑まなくては。


「桃花さん、さすがに決めつけすぎではありませんか? 風毒ふうどくや、感染箇所に関しては納得しましたが、なぜ咬んだのが宦官だとわかるのです?」


 頭を冷静に切り替えて指摘すると、桃花は長いまつげを残念そうに伏せた。


「――それは、彼がこう言ったからです。『三区に死王がいる』と」



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