死王事件⑥





 後宮二区、蓮池のほとりにたたずむ月影殿げつえいでん


 その殿舎に付属する耳房こべやで、姫桃花はつくえにむかっていた。

 殿舎の主は呂傛華ろようかという。後宮において三番目の地位にいる妃賓である。ちなみに亡くなった李美人は、傛華の一段階下にあたる。


 侍女である桃花はこの耳房こべやで寝起きし、女主人に侍るのが仕事だった。

 とはいえ女主人は侍女に無理難題をふっかけるような悪癖もなく、雑務や労働は下級宮女や婢女はしためがおこなうので、特にこれと言ってすることがない、というのが桃花自身の感想である。

 実際はおっとりとした桃花より先に、ほかの侍女がてきぱきと片づけてしまうからではあるのだが、そこに本人はとんと気がついていない。


 のんびりとした性格で、目端の利かない桃花だが、女官どうしの人間関係はおおむね良好である。


 なにせ、もはやだれも鈍くさい桃花にそういった働きを期待していない。

 どうせ無理をさせれば裾をふんで転ぶわ高価な酒杯を割るわ書簡を届け先とはちがうところへ運んでしまうわと、まずいいことなしなのであきらめている。


 それに、桃花に求められているのはそういう働きではない。だれも代わることができない教養である。

 いま筆をすべらせているのも、女主人が皇帝に披露するという詩作だった。もちろんこれは主である呂傛華のとされる。


 ちょうど筆をおいたところで、隣の主室から「桃花」と呼ばれた。


「はい、傛華さま」

「今夜もおまえに夜警をたのんでよいか?」


 転びそうになりながら顔を出すと、女主人は愛おしそうに手摘みの夏花をめでながらそう告げた。


 高く結われたぬばたまの黒髪。耳もとで揺れるのは花紋のほりこまれた黒玉。瞳の色も深く、こうして室内で見ると漆黒に見える。夜の化身のような佳人だ。

 朝からじっとりとした暑さだが、そのたたずまいには暑熱を感じさせない涼やかさがあった。


「だれも行きたがらぬのだ。宮女たちのわがままを通すわけではないが、あまりにも震えてあわれなのでな。桃花なら死王をおそれる様子もないので頼みやすい」


 言ってこちらを見、艶やかに笑む。


「頼むだなんてとんでもないことです。お引き受けいたします」


 桃花としては、べつに毎日夜警当番でもかまわないと思う。眠いが、歩くのは好きだ。

 しかし夜警はほんらい下級女官の仕事である。それを侍女にやらせることにはやはり抵抗を覚えるのか、呂傛華は物憂げにため息をついた。


「しかし騒動は一晩でさらに過熱したな。ついに憑かれ、呪い殺された者が出たのだから当然といえば当然のことではあるのだが」

「まあ、傛華ようかさま。呪いで人を殺せるのなら、とっくに国は無人の荒野になっていることかとぞんじます」

「おまえは桃の花のように愛らしい顔をして、なかなか辛辣なことを言う」


 女主人は笑い、それからわずかに表情を曇らせた。


「しかしな、死んだ侍女は朝な夕な、病床でよだれを垂らしながら歯をむき出しにして笑っていたそうな。たびたび金縛りにもあっていたようだぞ。まさになにかに憑かれているとしか思えなかった、という話だな。おまえもその死に顔を見たのだろう?」

「……はい」


 あのあと掖廷官えきていかんが到着し、そのまま遺体検分となった。本来は日が昇り明るくなってから行うものだが、騒動が大きくなることを恐れたようだった。

 その際、遺体を検分するのに灯ろうを掲げる者が必要だということで、延明とともに桃花がそれを引きうけた。

 冷たい床に下ろされ、全裸にされた碧林へきりんの遺体は痛ましいほどにやせ細り、小さかった。桃花は二十歳だが、それよりずっと若く見えた。実際、二つ三つは年下だと思われた。


「とても気の毒な少女でした」

「だれもが怯えたという死に顔を見て、なおその言葉が出るか。おまえは本当に肝がすわっている」

「そうでしょうか?」


 桃花に言わせれば、彼女のほうがよほど肝がすわっていると思う。

 少なくとも桃花には、後宮で妃賓たちとけんを競い、渡りあうだけの度胸はない。

 だましだまされ、すきあらば足をすくう――そんな綱渡りの毎日などおくれやしないし、おくりたいとも思わない。むしろ、寺にでも入って世を捨てて、ひがな草木を手入れしながら生きていたいと考えるほうだ。後宮へなど、望んで入ったわけではなかった。


 それになにより、怯えるというのがよくわからない。

 碧林の死に顔を前にして、湧くのは憐憫の気持ちだけだ。なぜ人が苦しむ顔を見て、怯えなくてはならないのだろうか?


 内心で首をかしげつつ、桃花は小棚に飾ってあった苔玉を手に取った。


「そろそろこれも水をやらないといけませんね」

「李美人にもらう苔玉も、それが最後になったな。……気に入っていたのだが」


 最後の言葉が苔玉を指して言ったものか、それとも李美人を言ったものか。

 桃花にはよくわからない。

 苔玉を手にし、水を求めて殿舎を出た。



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