死王事件③


 ――だめだな、これは。はじめから置いてこればよかったか……。


 一区の偵察をあきらめるしかないようだ、と延明は判断した。

 小章は目を血走らせ、冷静な状態ではない。このまま行かせても問題をおこすだけだろう。優先すべきは夜警をなにごともなく終わらせることだ。偵察ならば、あしたもできる。


 恐ろしい、恐ろしいと言って震える小章の手を強引に引き、歩く。

 小章が役に立たないことはわかったが、ここでひとり帰すわけにはいかない。帰りしなに騒ぎを起こされでもしたらたまらないからだ。


「……まぁ、たしかに奇妙な話ではありますね。死者が分娩するなど、ありえない。生きた妊婦だって気力体力をふりしぼり、半日から丸一日もかけて分娩するのです。それを死者がどうやっていきむというのか」

「そうです! 話によると、その赤子はへその緒でまちがいなく母胎とつながっていたのだそうです! ですから、どこかから用意した赤子の遺体をそこに置いたなどというような、だれかのいたずらだとは考えられないのです! 尋常ならざることが起きた、つまり――」

「では小章、答えは簡単ですよ」


 足のにぶる小章の体を、なかば引きずるようにして歩く。


「すなわち、根本から偽りであったということです。李美人が棺のなかで出産していたという話自体が、すべて偽り。そうですね……さしずめ父君による、娘をいじめていた梅婕妤しょうよたちに対する意趣返しであるとか」


 そもそも、李美人の死因をしらべ直すための棺の再掘であった。

 しかしそれに関して、つまりは病死を覆す証拠に関して、なにがしかが発見されたという発表はひとつもない。なにもみつからなかったのだろう。


 娘は謀殺されたのだと信じていた父君からしてみれば、納得もいかず、やりきれない結果だったにちがいない。そこでかわりに復讐として死王のうわさを流し、娘をいじめていた妃嬪たちを恐怖に陥れた。――そう考えるのが自然だ。


「――三区です」


 桃花が奥ゆかしいしぐさ、ならぬ、おっくうそうなしぐさで手提げ灯ろうを掲げて門をしめした。


 後宮三区。

 李美人がくらしていた殿舎が建つ区域だ。立派だが古い殿舎が多く、李美人の死後、ここでくらす妃嬪はいない。しかし李美人の世話をしていた宮女や侍女たちがまだのこっていることから、無人というわけではなかった。


 門をくぐろうとすると、これまでにない抵抗が延明の腕にかかる。


「む、無理です、本当に、これ以上は……」

「どうしたのです? ここまでなんとかこれたではないですか。先ほどの一区よりも三区のほうが狭いのですから、あっというまです」

「ここは……李美人の三区です。死王がいます……自分は、怖い……」


 小章は、歯の根もかみ合わぬほどにかたかたと震えていた。どっと脂汗がふきだしているのが見える。


「ですから、死王などいないと。李美人の父君が流したたんなるうわさに過ぎないのだと言ったでしょう」


 なにを言っても、小章はただ震えながら首をふるばかりだ。


「……では訊きますが、万に一つ赤子が後宮を徘徊しているとして、なにができます? 胎のなかで十月にも満たなかった胎児です。そもそも徘徊すらできないでしょう? いたとしてもおぎゃあおぎゃあと泣くばかりですよ」

「死王はふつうの赤子ではありません! 幽鬼です、呪うのです! 憑りついて呪うのですよ!」


 彼が声を荒らげたとき、一陣の風が吹きぬけた。

 深い闇の奥で、なにかがからからと転がった音がする。


「ひいぃっ! ほら、やはり三区は呪われている! 死王は三区にいるんだ!」


 小章は震えあがって小さな悲鳴をあげ、まろぶようにして来た道を逃げて行った。


「……なんと情けない。女性よりさきに逃げ出すとは」


 言ってから、はたと口をつぐむ。苦い思いが湧いた。

 小章は宦官だ。去勢を受けている。もはやあるべきものが欠けた宦官に、『男は女よりも強くあるべき』などという価値観を当てはめて考えるなど、じつに愚かなことだ。

 しかも口ぶりから、まるで自分は男だとでも言いたげではないか。


 ――……なんとばかばかしい。


 己もいまや男でも女でもなく、人ですらないと蔑まれる宦官にちがいはないというのに。


 延明が自嘲していると、桃花がくすりと笑う声がした。

 延明は反射的に身を固くしてふりかえる。

 しかしそこにあったのは宦官への嘲笑ではなく、ふんわりと笑んで小首をかしげる桃花の姿だった。


「……なにが、おかしいのでしょう?」


 恐る恐る聞いてみる。宦官を侮蔑する言葉はこの世にごまんと存在するが、彼女が思い浮かべているのはそのどれでもないような気がした。


「いえ、だって。死王だなんておかしくて。産まれたのが皇子なら、死王ではなく死皇子ではありませんか。だれが勝手に王に冊封さくほうしたのでしょう。変なうわさ話ですね、ふふ」


 ――え、そこ笑うのか……!?


 小章が逃げ出したとき以上にあっけにとられた。


 まじまじと見つめる延明の前で、彼女はくすくすと笑い、最後には大きなあくびをひとつする。やはりどうあっても眠いようだ。

 ここまで来ると、肝がすわっていると言うよりは、変わり者といったほうが正しいような気がしてくる。


「あなたは、死王のうわさが怖くはないのですね」

「? 怖いもなにも、棺でみつかったのはすでに息の絶えた胎児なのでしょう? 怖いよりも不憫だな、とは思いますけれども。なにごともなく誕生されていたなら、四番目の皇子として大切に育てられてたことでしょうに」

「……ええ、そのとおりですよ」


 不憫か、と延明は少し苦く思った。

 そういえば死王騒動のせいで、だれもそこを気にもとめていない。自分もそうであったことに、このときになってはじめて気がついた。


「しかし参りましたね、この死王騒動。しばらくは沈静化しそうにありません」

「そのようですね。死者が赤子を分娩するのは、たんなる自然現象なのですけれども」

「え……」


 それはどういう――。

 詳しくたずねようとした、そのとき。

 三区の奥から女の悲鳴が聞こえた。

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