死王事件②


「なぜ、自分まで……」


 小章しょうしょうと名のった後宮宦官は、大きな背を丸めながら、せわしなくあたりをうかがって歩く。

 見た目とはちがい、よほど肝が小さいのだろう。掲げた灯ろうが周囲の植栽に影をえがき、それがゆれるたびにびくりと肩を跳ねあげた。

 この様子でよく夜警宮女当番などやっていられたものだと思ったが、どうやらぎりぎりになってから担当者に強引に押し付けられたとのことだった。

 普段は八区の雑務を担当しているらしい。


「小章、その台詞はむしろ私が言いたいくらいですよ」

「す、すみませ……ひぃっ!」

「それはカエルです」


 延明よりもよほど大きな体でしがみついてくる小章の手をふりほどく。


桃花とうかさんがこれほど落ち着いているというのに、なさけない」


 延明はもうひとり、手提げ灯ろうを掲げて歩く宮女を見てしみじみとこぼした。

 ほかの宮女たちが顔を青くして震えるなか、のんきに居眠りをしていた娘だ。


 まろみをおびた輪郭に、夢見るような――といえば聞こえはいいが、ようするにおっとりと眠そうな顔立ち。名の通り、桃の花のような愛らしい顔立ちではあるが、ずいぶんと神経の図太い娘である。


 本来、死王のうわさがなくとも、夜警というのは少なからず怖いものだ。

 高い壁に囲われた後宮の闇は深く、そして妃嬪の院子にわに置かれた宮灯は、なんとも芸術的なことに人型を模している。腕のいい職人がつくったものなのだろうが、闇夜で灯りを掲げる青銅製の宮女は正直言って不気味すぎる。

 そして、ここは後宮。寵愛を競う百花咲き乱れる園において、陰謀策謀が絶えたためしはない。正常とはほど遠いかたちで命を落とした女は数知れず、どこの暗がりに怨みが凝っていても不思議とは思えない。延明は幽鬼という存在を信じてはいないが、それでも気味が悪いくらいは思うのだ。


 それを、これほど平然としているのだから、もはや圧巻だ。小章と桃花、性格が逆だったならどれほど楽だっただろうと思わずにはいられない。


「よいですか、小章。私がつきあうのはこの一区をぬけるまでです。そこから先はきちんとふたりで回ってくるのですよ」

「そ、そんなご無体な!」

「ここまでついてきて差しあげただけでもじゅうぶん破格だとは、わかっていますね?」


 延明がほほ笑むと、小章は一瞬なにか言いたげなようすを見せたが、賢明にも口をつぐんだ。当然のことではある。延明は中宮に仕える中宮尚書、秩禄にして六百石の官吏だ。そればかりか、さらに特権を複数有していることで有名である。最下級の宦官である小章が動かせる身分ではない。

 本来であれば、一区すらつき合う必要はないのだ。ただ、あまりにも小章に不安があったため、ここまでついてきた。


 三人は「消灯」「火の用心」の声をかけながら、梅婕妤しょうよをはじめとする高級妃嬪たちがくらす壮麗な殿舎をまわる。

 常夜灯以外が消されたことを確認して次へと進むのだが、高級妃嬪ともなると、すなおに消灯に従う者のほうが少ない。とくに死王におびえる梅婕妤の殿舎は、皓々と明かりが灯されていた。そのへんは黙認である。


 舟を浮かべる蓮池や花園のあいだをぬい、ぬけるころにはずいぶんと夜空の月の位置も変わっていた。


 ――時間をむだに費やしてしまったな。


 一区の門を出たところで、延明はため息をついた。

 ここで小章たちと別れ、後宮の外院そとにわで夜警の終了を待つ――というのは建て前で、延明はこれからひそかに一区へともどらなければならない。

 夜警支援に乗じて梅婕妤周辺の偵察をしてくること、それが皇后から命じられた任務である。

 ちなみに、そこには下っ端の宮女をたぶらかし、よい情報源として手に入れることも含まれている。後者については乗り気ではないのだが、命じられた以上はやらなくてはならない。


「では、私はここで」

「そんなっ!」


 そうだろうとは思っていたが、延明が足を止めてふたりを見送ろうとすると、小章が悲鳴をあげる。


「孫尚書、どうかここで自分も帰らせてください……、これ以上は、無理です……! 足手まといにしかなりません!」

「小章、無理だからやらないなどという選択肢が、あなたに存在するとでもお思いですか?」


 きょうはいい天気ですね、とでもいうような、爽やかな微笑みで切って捨てる。

 皇后からはイヤミな男だとよく言われるが、本当にその通りだと本人も思う。延明は不愉快なときほど笑顔を忘れない男だ。


「それにいもしない幽鬼などより、夜警を怠っておきる火災や懲罰のほうがよほど恐ろしいとは思いませんか? 少しは桃花さんの落ちつきようを見習いなさい」


 延明の視線の先で、桃花が涙をぐっとこらえるようにして月を見あげる。

 なんとも可憐で絵になる風情だが、ここまでの道のりでそれがあくびをかみ殺すしぐさだと理解した。ほんとうに、神経の図太い宮女である。


「いいえ、いいえ、孫尚書、火災は消すことができます! 懲罰はたえることができます! けれど幽鬼は……ひぃいいいいっ!」


 広い通路をなにかの影が横ぎった。動転した小章が灯ろうをふり回すので、延明がこれを取りあげる。夜警当番が火災をおこしたのではたまらない。


「ただの鼠でしたよ」

「鼠……ほ、本当に鼠でしたか? 死王はまだ胎のなかで七つきしか経たぬ赤子なのです……鼠とよくにているやも……っ」

「発見されたとき、すでに赤子は息絶えていたのです。亡くなった赤子がどうやってこんなところを徘徊するのです? 死者は歩きませんよ、当然ですが」

「幽鬼なのですから、生きているはずがありません! 孫尚書はお認めにならないようですが、そもそも、死者からふつうの赤子がどうやって産まれてくるんですか! 尋常じゃない!」



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