第5話 美弥子がごとき女の前で
『今の子供たちやこれから誕生する子供たちが, 成人して社会で活躍する頃には,我が国は厳しい挑戦の時代を迎えていると予想される』
なんともまどろこしい一文です。
まどろこしいというより、まるで、他人事のような物言いで、私はこの手の文章は好きではないのです。
一体、どこの誰が書いた文章かといえば、横書きの文章では「カンマ」を用いる、などというところを見るとお役所の文章であることは一目瞭然ではあります。
そう、これは、文科省の、今度改定される「学習指導要領 国語」の冒頭の一文なのです。
確かに、少子化で生産年齢人口が減少し、グローバル化の進展や絶え間ない技術革新等により、社会構造や雇用環境は大きく、また急速に変化して、予測が困難な時代となっているのですが、実はこの一連の綴られた文も、冒頭の一節に続くものなのです。
予測が困難であるからこそ、政府は、それに対する確固たる対応を図らなくてはならないのに、実に、他人事に過ぎることだと、私など思ってしまうのです。
日本文芸家協会は、このたびの高校国語指導要領の改定を「戦後最大と言ってもいい大改革」と評価、いや、懸念をもって、批判をしているのです。
それもそのはずです。
必修に「現代の国語」「言語文化」。
選択科目として「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探求」が設定され、受験校では、選択科目として「論理国語」「古典探求」が取られるのは確実だからです。
だから、文芸家協会は、自分たちの飯の種である「文学」が、ただでさえ、書店の閉店、出版不況で先細っているのに、次代の若者たちから文学離れが起これば、お先真っ暗だと懸念を表明するのは当然のことなのです。
でも、私、学校現場にいて、いつも思っていたことなんですが、これまでの戦後国語教育が取り上げてきた「文学」なるものが、果たして、あれでよかったのかと、一抹の不安を抱いているのです。
漱石の「こころ」、鴎外の「舞姫」あるいは「高瀬舟」、中島敦の「山月記」、太宰治の『富嶽百景』。
古典では、『源氏物語』の「藤壺巻」、『平家物語』の「木曽の最期」。
大どころとして、かような作品が取り上げられてきましたし、おそらくは、新しい指導要領の元でも、各教科書会社では大きな変更はないと思うのです。
いや、このどれも、私個人としては、好きな作家であり、作品であるのす。
学校で教わり、国語教師として教えてもきたのですから、当然のごとく、愛着があり、教えるということであれば、ちょっとは深く読了をしてきたはずですから、読みの度合いも深いとは思っているのです。
早稲田の文学部にいた頃でした。
教師の免許を取るために、国語科教科法という授業を教育学部に出かけて、受講していた時でした。
一人の教育学部の女子生徒と知り合いになり、語り合ったことがあるのです。
優秀な学生であったとは思いますが、その彼女が、国語はおもしろくないと言ったんです。
それでも、国語の教師になりたいのは、そのおもしろくもない国語をおもしろくしたいからだって、そう言ったのです。
私など「三四郎」ではないですが、この女子学生が「美弥子」に見えてきたのですから、衝撃のほどが、分かる人にはお分かりになるかと思います。
あの時代、女子がジーンズをはき、髪を伸ばし、闊達に動き回り始めた頃です。
ヨーコ・オノがニューヨークでレノンと活動し、ジャニス・ジョップリンがあのかすれ声で女の叫びを歌い上げていたことがそれを象徴しています。
だから、彼女言うんです。
皆、ダメな男の話ばかりだって。
友人Kのこころを裏切る青年の話でしょう、ドイツまで行ってドイツ女に手を出す男でしょう、野心ばかりが溢れて虎に姿を変える話でしょう、それに、意志薄弱で富士には月見草が似合うってそんな話ばかりじゃないって。
私が敬意を表する作家たちの作品をそう酷評するのです。
源氏だって、年端もいかない女子を見初めて、自分に都合のいいような女に育てるなんて、いけ好かないと、木曽に至っては、空気を読めずに、振る舞った田舎武者の成れの果て、とこれまた酷評するのです。
そう言われてみれば、確かに、そうだと、私三四郎は、美弥子がごとき女の強い言葉を、一杯のコーヒーをとっくに飲み終わり、何杯も注がれた水を飲みながら、オルグられていく自分を発見したものです。
男である自分は、確かに、女を争う男の嫉妬心も、絶対に勝ってやるという男の競争心も分かるのです。
異国の姫に憧れたり、偉大なものの前で萎縮する気持ちも、尊大なる自尊心のありようもまた分かるのです。
でも、美弥子からすれば、それは男の思いの、あるいは、願望の、もっといえば、欲望の対象でしかないではないかと、そんなものを教材に取り上げられて、そこから何を学ぶのかというのは当たり前のことなのです。
だから、私、まんざら、立場の弱い男の見解で、彼女のあまりに超越した論調に負けたというのではなく、見事に同調をしたと言った方がいいのです。
これは、女子からすれば真理なのだと。
まして、日本は、「移民」と言っては言い過ぎなのかもしれませんが、大量の外国人が日本に入ってくる時代になるのです。中には、日本に定住し、家族を養う人も出てくるはずです。過去の移民を受け入れてきた国がそうであったように、彼らのための教育は必要不可欠になるのです。
それに、これまでの価値観ではとらえられない時代になります。
これまであった職業の大半が、AIの導入でなくなりますし、男と女の関係も、そればかりで良しとする時代ではなくなっているのです。
価値観は多層性を帯び、多重性をもって、これからの子供たちの眼前にあらわれでてくるのです。そんな時代に、果たして、不朽の名作だと崇め奉ってきた一連の作品が持ちこたえられるのか、そろそろお役御免となり、新時代を生き抜く子供たちに必要な文学作品が求められるのではないかとそう思っているのです。
そんなことを思っていたら、あの美弥子女史、どうしているのかって、妙に懐かしく思ったのです。
どこかで、角が取れて、いいおばさんになっているのではないかって。
いや、先鋭的に、今でも、活動をしているのではないかって。
先だって、テレビで際どい意見を披瀝するどこぞの女性史研究者を見ましたが、あれ、あの彼女に似ていると思ったのは、きっと、気のせいだと思いながらも、ありえるかもしれないと、私の中ではいまだにくすぶっているのです。
だとするなら、大いに結構だと、三四郎にとっての美弥子は健在なりと、私、思ったのです。
寿命を見た男 中川 弘 @nkgwhiro
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