第4話 悪なる姿は憧れの根本にあり


 世の中は、悪役がいてこそ、正義の旗振る者が目立つ、そんな仕組みになっているのです。


 皆が皆、正義の旗振り役であれば、何ら目立つものではなくなるからです。

 そう考えると「悪」は世界に必要なものとなる、そんな論理が働くのです。


 そして、善と悪の、その対比は、私たち人間には非常にわかりやすい判断材料になります。


 例えば、プロレス。

 人気レスラーが、悪役レスラーにこてんぱんにやられます。

 しかも、悪役は反則を繰り返します。

 レフリーが見ていないすきに、しかも、それを行います。

 観戦する者は、しゃかりきになって、それを訴えますが、レフリーはどうも悪役の味方のようだと気づくのです。

 しかし、そのまま試合が終われば、それこそ、暴動に発展し兼ねません。

 人気レスラーは、一瞬の隙をついて、悪役に対して、必殺の空手チョップをぶちかまします。

 ダウンした悪役に対して、レフリーのカウントは遅く、それ故に、一味であることが明らかになります。

 観客はそれを人気レスラーに訴えます。

 人気レスラーが、そのことに気がつき、レフリーにも空手チョップをお見舞いします。

 そうなると、興奮は絶好調となるのです。


 かつて、金曜日のゴールデンタイム。

 日本テレビで放映されていた力道山とデストロイヤーの試合、それを沖レフリーが仕切っている様子です。


 非常にわかりやすいパフォーマンスです。


 日本人にとっては、アメリカ人にしてやられた思いを晴らすには絶好のパフォーマンスでした。

 しかし、そのデストロイヤーが愛すべきレスラーであるとわかる日が来るのです。

 覆面の中に、そのつぶらな瞳を発見した時、彼はお茶の間の人気者になるのです。


 悪役が、正義の味方ではないけれど、悪役ではなくなるのです。

 

 映画が、映画館に人を集め、立ち見まで出していた時代がありました。

 おもちゃのような特撮映画に、夢中になって、手に汗を握った時代です。

 あるいは、ヤクザ映画に、チャンバラ映画にしても、それは同じです。


 ここでも、悪役ゴジラがいつの間にか愛すべき存在になっていきました。

 そして、やくざ映画でも、チャンバラ映画でも、スター以外の名もなき、斬られ役が脚光を浴びる時代がやってくるのです。

 大部屋に詰めるその他大勢の役者が、一躍脚光を浴びて、主役に抜擢されるのです。

 人々は、彼らに個性を見出し、彼らも、スターを気遣いながら、己をアピールしていくのです。

 

 ふと気がつくと、いつの間にか、日本には、悪役なるものが存在しなくなってしまったのです。

 だから、正義の旗を振るものたちも、当然のごとく、消え失せてしまったのです。


 そんなことを思うと、国際社会でも同じではないかと思うのです。

 G20などで、あるいは、サミットで、首脳たちが集い、懇親を深め、おいそれと無謀な戦争に走らなくなった、今はそんな時代なのです。

 

 冷戦の時代、クレムリンのあの壇上に並ぶ位置付けで、ソ連の様相を探る専門家がいました。


 誰それが何番目に立っている、これは権力闘争でのしてきたに違いない、その男は対米強硬派だから、今後、アメリカもまた強くでて、世界は混乱を余儀なくされるなどと、まことしやかにアナウンスしていたのです。


 つまり、ここでは悪はクレムリンの壇上に立つ男であり、アメリカは正義の旗振り役であったのです。

 もちろん、反対側から見れば、その逆もまた真となり得たのです。


 ですから、007の映画も真実味をもって、私たちをハラハラドキドキさせながらその顛末を期待しながら映画館に出かけていったのです。


 悪役もいない、それによって、正義の旗振りもいなくなった世の中にいつの間にかなっていることに気づくと、スパイ映画も、やたら人を斬りまくるチャンバラ映画も、意味をなさなくなってしまってきたのです。


映画の衰退は、映画の魅力がなくなったのではなく、悪と正義のせめぎ合いがなくなったことに起因しているのだと気づくのです。

 

 映画やプロレスの世界がそうであるように、日本社会も毒気を抜かれてしまったのではないかと、ふと気になる時があります。


 日本企業は、コンプライアンスを重視しすぎて、何でもかんでも自らが設定した枠の中で縮こまり、面白みを失ってきているのではないだろうか。

 軍事物資は、アメリカからのライセンス生産で、かつて零戦を作り、大和を作ったような独創的な技術が絶えてしまったのではないだろうか。


 私たちの生活も、何事もないのが何よりと、安定ばかりに執着して、無謀にして、遠大、かつ、馬鹿げた一生を送ることなどなくなり、それこそ、つまらない生を過ごしているのではないかって思ってしまうのです。


 これらが、そうなるにはそうなるだけの理由が、もちろん、あってのことです。


 あまりの企業の横暴が目立つがゆえに、兵器が優秀であればそれを使ってみたくなり、挙句に国土は山河ばかりになってしまったし、人生だって、波乱万丈などより、安泰を望むのは当たり前のことで、何ら、悪いことではないのです。


 でも、どこかに、あのデストロイヤーのごとき悪漢、名もなき憎むべき顔をした斬られ役、得体の知れない国家、破天荒な人生を送る男がいてもいいと思っているのは、どうしてなのだろうかと思うのです。

 きっと、人間の深奥に、悪に対する憧れがあるのかもしれないと、そう思って、悪をやってやろうと、目を怒らせるのですが、どうもままならない自分を発見してしまい、愕然としているのです。

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