第2話 ガラスの心臓(後編)
*
あれから、十年。
今日が約束の日だ。
わたしは十六さいになった。
あの後、わたしは何度も、あのうちに行こうとした。
でも、いつも道に迷って行きつくことができなかった。
まるで、魔女の呪いで隠されたイバラの城のように。
あの城のなかで、あの人は今も眠っているのだろうか?
わたしの魔法使い。
わたしは、あの人のほんとの名前すら知らない。
ただ、今になってわかることもある。
あのころはわからなかったことが、今なら。
彼の屋敷がなんとなく異様だったわけも。
彼のとつぜんの涙の発作も。
別れぎわ、彼がなぜ、あんなことを言ったのか。
——君に魔法をかけた。十六さいになったら、君の心臓はくだけちる。その魔法をとけるのは、僕だけだ。
彼はわたしを待っている。
たとえ、どんな姿になっていようと。
わたしは森に向かった。
今日こそはどんなことをしても、あの屋敷にたどりつく。そう決心して。
すると、思わぬ発見をした。
森のなかの道を進んで、しばらく行くと、彼と出会ったシラカバの木があった。
その枝に白いリボンが結んである。
昨日まではなかったものだ。
その枝の示す方向へ歩いていった。
少し進むと、また別の木の枝にリボンが。
彼が、わたしを招いている。
わたしは夢中で目印をたどっていった。
やがて、あの屋敷についた。
門にカギはかかってなかった。
建物の前まで行くと、老婆が待っていた。
あのときの魔女だと、ひとめでわかった。
「お待ちしておりました。アリサさまですね」
わたしの胸は不安にしめつけられる。
なぜ、ここに彼がいないのだろう?
やっぱり、わたしの想像は当たっていたのか……。
わたしの不安を読みとったように、老婆の目がくもる。
「どうぞ。なかへ」
玄関から招き入れられた。
そこは窓の大きな開放的な造りになっていた。
吹きぬけのホール。
階段がある。
手すりの装飾的な、らせん階段。
わたしが通されたのは、ホールからまっすぐ行ったところにある食堂だ。
豪華なパーティーのしたくがととのっていた。
大きなホールケーキも。
「ぼっちゃんが約束なさっていたそうですね。どうぞ、召しあがってください」
わたしは耐えきれなくなって、口走った。
「そんなことより、あの人に会わせてください!」
老婆は、また悲しげな目になる。
「そうですか。では、これを——」
お盆にのせて、一通の封筒をさしだしてくる。
ああ、ダメだ。
この手紙を受けとったら、わかってしまう。
わたしの想像が正しかったと。
そうじゃないかと思っていた。
エンバーミング。
あのときは知らなかったが、それは死体を美しく保つための防腐技術のこと。
エンバーマーは、エンバーミングの資格を持つ技術者だ。
彼は自分がもうじき死ぬことを知っていた。
だから、あんなに激しく泣いたのだ。
「彼は……今、どこにいるんですか?」
老婆はだまって天井をさした。
二階か。
わたしは、さっき見た、らせん階段を思いうかべ、走りだした。
いやだ。
こんなお別れ、いやだ。
あなたは、わたしに魔法をかけた。
この十年、わたしは一日たりと、あなたのことを忘れたことなんてなかった。
もう一度、会いたかった。会って、話したかった。
いろんなこと。
あなたの好きな花は、なんですか?
あなたの好きな音楽は?
本は何を読むの?
ドラマとか観る?
映画は?
あなたの子どものころの思い出は?
悲しかったことは?
ねえ、あなたが、この世で一番、好きな人は……?
あなたのかけた魔法は完ぺきすぎて、こんなことじゃ解けないよ。わたし、自由になんてなれない。
あなたが抱きよせて、くちづけてくれないと。
わたしの心臓はくだけちってしまう。
この魔法を解けるのは、あなただけ。
わたしは、らせん階段をかけあがった。
とざされた扉をひとつずつ、ひらいて、彼をさがした。
彼は、いた。
貴族の館の一室みたいな豪華な部屋の、豪華な寝台のなかに。エンバーミング処理をほどこされ、眠るようにやすらかに見える。
(彼は時間を止めて待っていた……)
見つめるうちに涙がこぼれた。
ねぇ、魔法使い。
もう一度、目をあけてよ。
わたしの声に応えて。
わたしの魔法をといて。
「こんなの、ひどいよ」
再会のときが別れのときだなんて。
眠る彼の手を、そっと、にぎった。
わたしはおどろいた。
あたたかい……。
「魔法使い……」
彼は長いまつげをゆらして、目をあけた。
「やあ。アリサ。きれいになったね。お姫さまみたいだ」
「どうして……?」
「そんな顔しないで。死んでると思った? 僕だって、おどろいてるよ。余命宣告より、こんなに長く生きられるなんてね」
わたしは泣き笑いだ。
「じゃあ、あのおばあさん。なんで、あんなに悲しそうな顔してたの? あなたの手紙だって」
「手紙はずいぶん前に書いて……書き直す時間がなかった」
彼は言った。
「明日、手術するんだ。今になってドナーが見つかって。成功率は二十パーセントだって」
ドキリとした。
また不安が胸をよぎる。
「そんな……」
「ほんとは、もっと低いのかもね。医者たちは僕を安心させようとしてる。希望的な数値だろう」
「それでも、受けるの?」
「受けるよ。どんなに低くても、生きる望みがあるのなら」
彼はわたしの手をにぎりしめる。
あの日、別れぎわに、わたしの腕をつかんだときのように。強い力で。
「君と、生きたい」
わたしは、ただ、うなずいた。
生きたいという彼を止められない。
「お願いがあるんだ。アリサ」
「なに?」
「君の誕生パーティーは、あと一年、待ってくれないか? 一年後、もう一度、会おう。この屋敷で」
それは、不確かな約束。
守られる保証はどこにもない。
むしろ、確率で言えば、守られない可能性のほうが高い。でも……。
わたしは、また、この人に魔法をかけられた。
この魔法は解けるのだろうか?
来年の今ごろ、わたしは、どうしているだろう。
イバラ姫のように死の眠りにつく彼のくちびるに、泣きながら、くちづけているのか。
それとも、魔法のとけた魔法使いは王子さまになって、わたしと誕生日を祝うのか。
どちらでもいい。
今は奇跡が遅すぎなかったことに感謝しよう。
「何年でも待つよ」
そう言って、わたしは彼の手をにぎりしめた。
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