第93話 猪3

 浮遊感は一瞬だった。


 初の意志とは無関係に、視界がくるくると回転する。青空と山の木々が交互に映り込み、呆気にとられた夜叉丸たちが、明後日の方向へと流れ去る。春の息吹に萌えいずる山肌。小さな草花が視界いっぱいに広が──


「げっ! ぼっ! ぶっ! びょっ!」


 藪に突っ込んだ初は、ごろごろと斜面を下った。

 山肌を跳ねまわり、あちこちにぶつかって、ようやく回転が止まる。


「せ……世界が……」


 激しいめまいに、初はその場でうずくまった。

 胃が空っぽでよかった。何か食べていたら、確実に酷いことになっている。


 いまだに不調を訴える三半規管をなだめつつ、初はゆっくりと上体を起こした。

 身体中が痛むが、耐えられないほどではない。どうやら、何かがクッションになって、衝撃を吸収してくれたらしい。


 初は、辺りに散らばった木材の破片を目にした。倒れていた身体の下にも、同じような木片が転がっている。


「これ……もしかして、祠か?」


 よろよろと立ち上がった初は、散乱した破片を見回して、顔をしかめた。


 節くれ立った木の根元には、見事にぺしゃんことなった小さな祠があった。


 散乱した破片の量から見て、もとは初の腰ほどの大きさだったらしい。かなり古いもののようで、破片には至る所に苔がこびりつき、建材は朽ちる寸前だ。


 初は、残骸となった祠に手を合わせた。

 自分の身を守ってくれたのだ。このまま放置するわけにはいかない。


 せめて御神体を回収しようと、壊れた破片に手を掛けた初は、奇妙な物体を見つけた。


「……ん? なんだ、これ?」


 細長い棒状の物体を手にして、初は眉根を寄せる。


 手触りからして金属だ。針金状に加工されたものが、木の棒に巻き付けられている。よく見ると、破片に混じって、他にも錆びた金属と思しきものが転がっていた。


「姫様! 返事をしてくだされ、初姫様ぁ!?」


 何かの部品らしき物体を検分していた初は、自分を呼ぶ声に、はっと顔を上げた。


「蜘蛛丸さん! こっちだこっち! 俺は、ここにいるぞぉっ!」


 斜面を駆け降りてきた蜘蛛丸は、初の姿を確認するなり、大きく息を吐いた。


「姫様。よくぞご無事で……」

「だ、大丈夫でございますか、姫様!?」

「け、怪我してない……ませんか? こう、どっか打ったりして」

「芋があるけど食べます……ません……ますか?」


 慣れない敬語に、四苦八苦する夜叉丸たち。

 岩太が差し出してきた芋を押し返しながら、初はしどろもどろになる郎党たちに苦笑した。


「私は大丈夫だ。それより、あのでっかい猪はどうなったんだ? 蜘蛛丸さんが仕留めたのか?」

「いえ、それが……」


 蜘蛛丸の表情が曇る。


 初が弾き飛ばされた後。蜘蛛丸はすぐさま、巨大猪に火縄銃を撃ち込んだ。

 玉は、猪の胴体を捉えたが、まったく効いている様子はなかったという。


「あの巨体には、こいつじゃ玉が小さすぎる。もっと大きな鉄砲を持ってくるべきでした」


 蜘蛛丸が撃ち込んだ玉の重さは、二匁(約7.5グラム)ほど。たいていの獣には十分な威力でも、あの巨大猪には通用しなかった。


「……一度、麓まで降りよう。俺たちじゃ、あの猪には対処できな……」


 初が撤退の指示を下そうとしたときだった。背後の斜面から轟音が轟いた。


 まるで土砂崩れだ。周囲の木々をなぎ倒しながら、巨大猪が山を駆け下ってきた。


「うわああああっ!?」


 悲鳴を上げながら、初たちはてんでバラバラに逃げ惑う。

 とっさに横へ飛んだ初の後ろを、猪の巨体が通り過ぎた。


 ゴーーン! と鈍い音。木の幹がメキメキと裂け砕け、老木が根っこから引き千切られる。


 圧倒的な破壊力を見せつけた猪は、ぶるりと頭を震わせた。初たちの頭上に、ばらばらと石や木の破片が降り注ぐ。


 自身がへし折った木の根元を嗅ぎまわっていた猪は、おもむろに顔を上げた。

 唖然としていた初は、猪の意外に可愛らしい瞳に、はっとする。


「いいか。騒ぐなよ、お前ら。ここは冷静に、鯨料理の話でも……」

「う、うわあああぁぁぁぁっ!?」


 恐慌をきたした夜叉丸党の一人が、槍を持って走り出す。

 猪の尻に、槍の穂先が叩き込まれる。刃は硬い剛毛と分厚い皮膚に阻まれるが、わずかな痛みに猪は跳び上がった。

 驚いた猪が突進する。その正面に位置していた初。


 その後に起こった出来事を、初はいやにゆっくりとした視界の中で捉えた。


 巌のような巨体が、真っ直ぐに突っ込んでくる。ひと駆けで岩を越え、倒れた木をまたぎ、ただ前へと。

 避ける余裕はない。

 初はただ呆然と立ち尽くす。


 そのまま踏み潰されるかと思われた瞬間。猪の鼻先が、右へとずれた。


 傾く巨体。地響きを立てながら倒れ込み、猪の身体が岩肌の上を滑っていく。


 初は、そろそろと首を捻った。

 初の身体の真横、一歩ほど踏み出した先に、巨大猪が横たわっている。丸太の如き脚は、だらりと垂れ下がり、大人三人が両腕を広げたほどもありそうな腹は、ぴくりともしない。


 事切れた猪の頭から、ずりずりと槍が引き抜かれる。

 よほど深く刺さったのか、穂先がなかなか抜けない。柄を振り回して肉をこじり、五分ほどかけて、ようやく全体が現れる。


「──、────っ!」


 赤黒い血で汚れた刃を掲げ、その人影は不思議な雄叫びを上げた。何かしら意味のある言葉なのかもしれないが、あいにくと初が知っているどの言語とも違う。


 猪の頭上で槍を振り回す人影に、初は放心して口を半開きにした。


「……物の怪だ」


 ぽつりと、誰かの呟き。

 口を半開きにしたまま、初は隣に立つ伊助に目をやった。

 猪の上で叫び続ける人影に、伊助は目をくぎ付けにしたまま、


「背丈が六尺……墨みたいに真っ黒な身体……あんなの、人間じゃ……」


 背後の茂みが、がさがさと揺れる。

 その音で我に返った蜘蛛丸が、素早く身を翻した。夜叉丸たちも、慌てて槍を構えようとし、獲物がなくなっていることに気付いて、あたふたする。


 がさり、がさりと下草を踏み分け、茂みから何かが出てくる。身構える初たちの前に、二つの人影が現れた。


 真っ黒な顔が、きょろきょろと左右を見回す。いまだ猪の上で叫び続ける人影に安堵し、次いで初たちを見とめて、動きが止まる。


「なんで、こんなとこに黒人が……」


 じっとこちらを観察してくる人影に、初は小さく喉を鳴らした。


 そう、黒人だ。日本人ではありえない真っ黒な肌に、伸び放題で小枝や枯葉を巻き込んだ縮毛。粗末な衣は孔だらけで、いたるところが泥に汚れている。

 二人の背後から、さらに仲間と思しき人影がまろび出てきた。


 現れたのは、黒人が数人。さらに、別の人種も混じっている。ぱっと見はアジア系に似ているが、褐色の肌や堀が深い顔立ちは、人種の隔たりを感じさせる。おそらくだが、南米系の人間ではあるまいか。


 ぞくぞくと出てくる、黒人や南米系の男たち。最後に現れたのは、二人の黒人に担がれた南米系の男だった。

 どこか具合が悪いのか、ぐったりとした男を、周囲の仲間たちが気遣わしげに見つめている。


「姫様」


 蜘蛛丸が、困惑した顔で見つめてくる。夜叉丸たちに至っては、すっかり怯えて、震えあがっていた。

 周囲から向けられる無言の問いかけに、初は虚空を見上げた。

 しばらく考え込み、ゆっくりと顔を戻すと、


「えーっと……とりあえず、飯でも食うか?」


 なんとなく笑ってみる。


 微笑み返す者は、誰一人としていなかった。

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