第37話 教師

 子供たちに手を引かれてきたのは、一人の少女だった。


 ──いや、違った。


 絹糸のような髪、流れるような輪郭、切れ長の目と柳のような眉。一瞬、自分が絵巻物の世界に迷い込んだのかと、疑うほどの美しさ。


 小走りに駆けてきたウヌカルは、子供たちにクッキーを配る初に、会釈した。


 象牙色の肌は、日に当たると、霞んで見えるほどに白い。髪は黒く染めているものの、そのせいで瞳の青さが、怖いくらいに映えている。

 もともと人間離れした容姿をしていたが、最近、また磨きが掛かったのではあるまいか。


 二年前、安宅荘に流れ着いた漂流者の一人、ウヌカルは、蝦夷(現在の北海道)からやってきたアイヌだった。

 本州へ渡る際、うっかり間違えて、奴隷船に乗ってしまったらしい。

 どんなうっかりだと思うが、自分だって、うっかり戦国時代に迷い込んでしまったわけだから、他人のことは言えない。


 初が、余ったクッキーを渡すと、ウヌカルは遠慮するように手を振った。気弱げな表情と相まって、なんだか溶けて消えてしまいそうな儚さがある。

 初が無理矢理クッキーを持たせると、眉をへの字にしながら、端のほうを少しだけ口に含む。

 優美な見た目と違い、栗鼠リスみたいな仕草だった。


(……なんだろう。可愛いんだけど、萌えてはいけないという感情が)


 複雑な葛藤が、初の中で渦巻く。


 領民たちが、天女が落ちてきたと噂するだけのことはある。


 全体的に線が細く、たおやかな姿は、歩くだけで女たちの視線を集める。ウヌカルを一目見ようと、わざわざ遠くの村から出向いてくる娘もいるくらいだ。

 男は男で、ウヌカルを前にすると頬を赤らめたり、もじもじしたり、その魅力には節操がない。寺の修行僧まで、ウヌカルが働いていると覗きに来るので、青峰が毎度、怒鳴りつけていた。


(あれから、もう二年か)


 ウヌカルが、安宅荘へ流れ着いてからの年月を思う。


 海生寺で療養し始めて、数日後。青涯は、ウヌカルを蝦夷へ帰そうとした。


 北陸まで行けば、蝦夷と交易している者たちがいる。そこまでの船を手配しようという青涯の申し出を、ウヌカルは断った。


 どうやら、帰れない事情があるらしい。


 こんな時代だ、脛に傷の一つや二つ抱えている人間は珍しくないし、そうでなくとも災害や流行り病で家族を亡くす者も多い。


 聞けば、ウヌカルの歳は、今年で十四(実は、年上だと知って驚いた)。いくら早熟の傾向がある時代とはいえ、一人で生きていくには、まだ幼い。

 ウヌカルが本州へ渡ろうとしたのも、蝦夷では生活していけないと考えたからだろう。


 幸い、ウヌカルには、猟師としての知識があった。今は、海生寺で、子供たちと共に日本語を学びながら、周辺の山で狩りをして生計を立てている。


(児童相談所も、保護施設もないんだもんなぁ)


 あの年で自立を迫られるなど、現代の日本ならありえない。逆に言えば、それだけ現代の日本は、恵まれた環境にあったのだろう。

 その環境を、一部とはいえ実現して見せた青涯和尚は、その事実だけをとっても、間違いなく偉大な人だ。


 子供たちの相手をしていたウヌカルは、複雑な顔をする初を見て、手を振った。

 なぜだか、頬が熱を持った気がして、初はますます複雑な顔になった。

      







「ああ、いらっしゃったいらっしゃった! ほら、お妙さん。初姫様が、いらっしゃったよ!」


 子供たちと、チャンバラで遊んでいると、門のほうから姦しい声が聞こえてきた。


 恰好からして、周辺の百姓の妻たちだろう。関西のおばちゃんが騒がしいのは、この時代でも一緒だ。


「初姫様、どうかこの人のお腹を、撫でてやってくれないかねぇ?」


 妙齢の女性たちが囲んでいるのは、一人の妊婦だった。


 まだ十代半ばほど。赤く色付いた頬や、くりくりと良く動く黒目がちな瞳が、幼さを感じさせる。

 現代なら、確実に問題視される話だが、この時代はこれくらいの年齢で、結婚、出産することも珍しくない。むしろ、早期の自立が求められる農村部では、推奨されているくらいだ。


「よかったねぇ、お妙さん。これで安心だよ」

鮫姫さめひめ様に撫でてもらったんだ。きっと元気な子が生まれてくるよ」

「そうそう。なんたって、お小夜様の娘だもの。初姫様なら、きっといい御利益を授けてくださるよ」


 女性たちは、口々に初の効用を褒めそやす。


 一昨年、舟比べの途中で海に落ちた初は、襲い掛かってきた鮫を、ロレンチーニ器官を刺激することで大人しくさせたことがある。その話に尾ひれがついて、安宅家の姫が鮫を従わせたとか、魚を自由に操って見せたとか、仕舞いには、初の手には強い霊験が宿っていると噂されるようになった。


 以来、初は鮫姫様と呼ばれて、妊婦の腹を撫でてくれとか、子供を抱いてやってくれという領民が、殺到するようになった。


 さすがに、館まで押しかけて来る者はいないが、こうして外を出歩くと、よく声を掛けられる。近頃は、家臣たちの中にも、剣術が上達するよう腕を擦ってくれと、頼みに来る者が現れていた。


 どうやら、安宅家の人間に霊験があるという話は、初の母親である小夜の時代から続ているらしい。


 熊野三山の一角、那智山の有力者である実方院から嫁いできた小夜には、観音菩薩の加護があると信じられていた(那智山は、観音霊場としても有名である)。本人も、面白がって意味深な態度をとるものだから、一時期、安宅館の周辺には、小夜を一目見ようと、大勢の領民が押しかけていたという。


 初が生まれる前の話だが、今でも小夜を慕う領民は多い。最近は、噂のせいで、初にもその熱が向けられ始めたというわけだ。


 膨らみ始めた少女の腹を撫でながら、初は複雑な心境に陥った。


 変態または人外に属する小夜と違って、初は普通の人間だ。鮫を大人しくさせた一件にしても、事の真相を知っているだけに、霊験などと持ち上げられて、むしろ居たたまれない。

 無邪気に笑う妊婦に、なんだか詐欺を働いているような罪悪感が募った。


(……この人、妹と同じくらいの年頃だよな)


 そんな人間が、子供を産む。なんだか、ひどく現実味の感じられない話だ。

 自分の手のひらの下に、新しい命が宿っているというのが、不思議でならない。


 自分もいつか、こうなるのだろうか?


 嬉しそうに頬を染める少女の姿に、初は未来の自分の姿を思った。

 絶望したい気分になった。

      







 さすがに、いつまでも現実逃避をしているわけにもいかない。


 具体的な方策を探るべく、館に帰った初は、いきなり小夜に捕まった。


「あら、初。いいところに来ましたね」


 考え事をしていたせいで、逃げるのが遅れた。瞬く間に、小夜付きの侍女たちに囲まれて、身動きできなくなる。


 猛獣の檻に閉じ込められた気分になりながら、初は恐る恐る小夜を見上げた。


「な、なんでしょうか母上? 私は、これから稽古が」

「今日のお稽古は、断ったわ。さ、こっちにいらっしゃい」


 いかん、早く脱出せねば。


 そう思い、逃げ道を探すが、周囲は侍女たちによって、がっちりと固められている。


 初が焦る間にも、小夜は静々と歩いていく。その行き先が、どんどん館の奥へ向かっていると気付いて、初の悲壮感は募っていった。


 やがて、離れの一角にたどり着いた小夜は、古びた板戸を押し開いた。


 小夜が部屋へ入り、続いて初も、侍女たちによって押し込まれる。


 狭く、薄暗い部屋の中には、先客がいた。


 てっきり、小夜と二人きりにされると思っていた初は、それだけで救われた気持ちになった。少なくとも、生贄にできる人間が、自分以外にもいると思うだけで、気が楽である。


「初、唐人町の妓楼は知っていますね?」

「は、はい……まあ、話に聞いたことくらいは」


 蛋民たちが、日置川の河口に築いた水上集落は、夜になると、歓楽街としても機能する。


 もともと、大陸のほうでも似たような風習があったらしく、それが安宅荘にも移植された形だ。鍜治場の工人たちが、給料日になると、いそいそと出かけていくのも、見慣れた光景である。

 近頃は、信俊がよく出入りしているという噂も、聞き及んでいた。


「この方は梨花リファ。唐人町で、一番大きな妓楼の、一番の売れっ子だそうよ」

「……は?」


 思わず呆けた初は、小夜が紹介してくれた女性を見る。


 ふくよかな顔つきに、同じく豊満な身体。年の頃は、二十代後半ほどだろうか? 肌の張り艶を見ると、もっと若いようにも見えるし、落ち着いた佇まいは、逆にもっと年かさのようにも思える。


 事態が呑み込めない初に、梨花は流し目を送った。それだけで、初の背筋はぶるりと震える。それほど凄絶な色気だった。


「あの、すみません……話が見えないのですが。この方は、いったい?」

「あなたに、縁談の話が来ていると、殿が申していたでしょう。実際に嫁ぐのは、まだ何年か後のことだけれど、それまでに一通りの修練は済ませておかないと」

「修練って」

「もちろん、閨の技よ」


 楽しげに笑いながら、とんでもないことを口にする。


「ね、閨……」

「男女のむつみごとにも、作法というものがあります。梨花には、その指導を担当してもらおうと思って」


 紅を塗った口元が、ぬるりと動く。


 なんだか、品定めをされている気がして、初は震えた。


「殿方は、移り気ですからね。しっかり捕えておかないと、すぐに他のおんなへ目移りしてしまうわ」

「あの、母上。別に、そのような技を習わなくとも、私は結婚する気は」

「それでは、初。今日から、しっかりと励むのですよ」


 まごついている間に、立ち上がった小夜は、部屋の戸に手をかけていた。


「ち、ちょっと! 母上、置いて行かないで」


 ぴしゃりと、板戸が閉められる。


 薄暗い室内に、微かな香の匂いが漂った。


 何者かが動く気配に、初はゆっくりと背後を振り返る。


 円座わろうだから立ち上がった梨花は、たおやかな笑みを浮かべている。

 巷の男たちが、涎を垂らして食いつくだろう姿が、初にはなぜか獲物を狙う猛獣に見えた。


『初姫様、隣の部屋に褥が用意して御座います』

『い、いえ、まだ昼間ですし眠くないですし褥とかそんな』

『さ、こちらへ』


 一見、細身に見えるのに、凄い力だった。

 抵抗する初は、あれよあれよという間に、褥の上へ投げ出される。


『では、まず殿方に、お召し物を脱がされる時の作法を』

『いや、大丈夫! 自分で脱げるから! あ、待って、帯はダメ帯は、ちょっ、そこから手を入れるのは反則あっ──』


 やがて──


 安宅館の奥、女衆しか存在を知らない離れの一室より、幼い少女の悲鳴が響き渡った。

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