第36話 教育

 縁談──それは古来より続く、人間の営み。


 見知らぬ男女同士を出会わせること。また、出会いの場を提供すること。

 男女が夫婦めおととなり、互いに助け合いながら暮らす生活形態。


 過酷な自然界での生存競争を生き抜き、子孫を残すことを目的として生み出された、種の繁栄ためのシステム──


「──人間など、所詮はシステムに付属するユニットにしか過ぎないんですよ。システムを維持するためには、各ユニットの都合なんて関係ない。本来は、人類種の存続を目的にしていたはずのシステムが、今ではシステムの維持そのものを目的にしているんですから、まさに歴史の皮肉としか……」

「あの……初姫様?」


 青涯は、恐る恐る声をかけた。


 場所は、海生寺の茶室内。


 ぐんにゃりと畳の上に沈み込んだ初は、死んだ魚の如き目で、心配げな顔をする青涯を見上げた。


「まだ縁談の話があるというだけで、具体的な相手は決まっていないのでしょう? ならば、それほど気になさる必要も……」

「まあ、なんておめでたい話でしょうか!」


 茶を運んできたレイハンギュルは、わざとらしいほどに、明るい声を出した。


「祝言は、いつ頃行われるのですか? 安宅家の姫が輿入れするんですもの、きっと花嫁行列は、盛大になるのでしょうね。人手も大勢必要でしょうし、結納の品もたっぷりと用意しないと。それに、衣装も大切ですわ。女の晴れ舞台、一生に一度の機会を飾るのに、相応しい花嫁衣裳を手配いたしましょう。そのためには、今から準備すべきですわ。早速、青海様から御用商人の方々に、声を掛けていただかないと!」

「これ、やめなさいレイハン」


 青涯の静止は、一足遅かった。


 具体的な情景を想像してしまった初は、白無垢姿の己を幻視して、悶絶した。


「ひっひっ、さすがの鮫姫サメヒメ様も、色恋の話となると形無しだねぇ」


 歯の抜けた聖が、気味の悪い声で笑う。


 畳の上で、うねっていた初は、青涯の足に縋り付いた。


「先生……なんとか、なりませんか?」

「何とかと申されましても。私のごとき坊主が、武家の婚姻に口出しするわけには」


 レイハンから虫のような目を向けられるが、今は構っていられない。

 初は、ほとんどべそをかきながら、青涯の足を揺すった。


「頼みますよ、先生ぇ~。先生だけが、頼りなんですから」

「そう言われましても」


 最近、また一段と痩せた感のある青涯は、困り果てた顔になる。


 レイハンの目が、だんだんと細さを増していく。


 聖は、二人のやり取りを、愉快げに眺めながら、


「しかし、あれだねぇ。そんだけ駄々をこねるってことはぁ、姫様にゃ、誰ぞ思い人でもおるのかね?」

「は?」


 何でそうなる。


 嫌そうな顔をする初に、聖は「まあまあ、隠さんでもええ」と、訳知り顔でうなずく。


「姫様も、年頃じゃものなぁ。好いたおのこの一人や二人」


 口元に下卑た笑みを浮かべて笑う。


 レイハンの視線が、危険水域に入ってきた。


 初は、青涯から距離をとりながら、面白がる聖を睨みつける。


「別に、好いた相手がいるわけじゃない。私は純粋に、縁談が嫌なんだ」

「おお、おお。わかっておる、わかっておるとも……それで、相手は誰かの?」


 わしにだけ、こそっと教えてくれ、と耳を近づけてくる聖に、初は茶碗を投げ付けた。

      






「あんのエロじじい、他人事だと思いやがって」


 かさかさと、害虫のような動きで逃げていった聖に毒づく。


 仕事が立て込んでいるという青涯のもとを後にして、初は山道を歩いていた。


 茶室の建てられた尾根は、それほど標高が高いわけではない。それでも、春を間近に控えた山々に、だんだんと緑が芽吹いていく様が見渡せる。


 山肌が萌えいづる風雅な景色にも、初の心は晴れなかった。


「尼寺にでも入ろうかな?」


 たしか、近くに海生寺の子院があったはず。


 出家の可能性について、本気で考え始めた初は、境内へ降りるなり、小さな人影にまとわりつかれた。


「あっ、姫様だ!」

「何してんの、姫様!」

「みんな、姫様が来てるよーっ!?」


 わぁっ、と群がってきた子供たちに対して、初は腰を落とした。

 一人目、二人目を両手で受け止め、三人目が鳩尾付近に突撃して、意識が遠くなる。さらに四人目、五人目と続いた時点で、初は地に倒れ伏した。


「お、お前ら……ちょっとは手加減を」


 潰れたカエルのようになった初を、子供たちは取り囲んだ。


「ねえねえ、姫様。今日のお菓子は!」

「ちょうだい姫様!」

「ちょうだいちょうだい!」

「わかった、わかったから!」


 次々と伸ばされる手に、初は懐から布包みを取り出した。

 中に入っているのは、今朝、厨で焼いてきた塩クッキーだ。


 取り合いにならないよう、順番に並ばせる。子供たちも心得たもので、小さい子から順に列を作った。


「よーし、お前たち宿題はやってきたな? お菓子をもらえるのは、ちゃんと課題をやってきた子だけだぞぉ?」


 初の号令に、子供たちは帳面を掲げた。

 それぞれ年齢ごとに、字の書き取りや計算問題など、様々な宿題の答えが書き付けてある。


 ここにいるのは、周辺の百姓や漁師、町民、杣人などから預かった子供たちだ。


 海生寺は、領民に対する教育機関としても一面も持っている。

 普段は、寺の修行僧たちが授業を行っているのだが、初も青涯から頼まれて、子供たちに数学や理科の知識を教えていた。


 子供にとっては退屈なのか、最初は授業への出席率が悪かった。そこで、授業に出た者には、お菓子を配るようにしたところ、劇的に参加者が増えた。


 この時代、甘味は貴重品だ。味を占めた子供らは、今では初の顔を見るたび、お菓子をねだりに来る。


(ま、何事にもアメとムチは必要だしな)


 一人ひとり、宿題をやってきたか確認しながら、クッキーを渡していく。中には忘れた子もいるが、軽く叱ったら、ちゃんとクッキーを渡してやる。


 仲間外れは良くないし、何よりこれは、授業へ出てもらうための餌だ。多少のことは、大目に見ることにしている。


(みんな、ちょっとずつ、できるようになってるな)


 以前は書けなかった字が上手になった、足し算の問題が解けたと、嬉し気に報告してくる子供たちを、初は一人ひとり褒めていく。


 この時代に来てから、初は教育の大切さを痛感していた。

 簡単な読み書きや計算ができないために、不利益を被る人間が、とてつもなく多いからだ。


 安宅荘では、青涯和尚が子供たちに教育を施すようになってから、作物の取引価格が、倍近くまで上昇した。商人から安く買い叩かれそうになったり、不利な取引を持ち掛けられても、子供たちが利益を計算して反論するからだ。


 他にも、怪しげな呪い師に騙されたり、病気の際に間違った治療をして、命を落とす者も減った。奉公に出ても、教養があるから高い賃金をもらえる仕事ができるし、職人の弟子は周囲よりも技術の吸収が早い傾向にある。


 現代では気付かなかった教育の重要性を、初はまざまざと感じていた。


 学がない人間というのは、つまるところ、考える訓練をしていない人間だ。

 日々の農作業や仕事でも、ちょっと工夫するだけで防げた事故や害を、見過ごしてしまう。ちゃんとした知識さえあれば対処できるような事態でも右往左往し、時に非科学的な方法に走って、より被害を拡大させたりする。何よりも、考える力のない人間は、簡単に他人から搾取されるのだ。


 現代では、貧困の撲滅や世界平和を口にする人間に対して、どことなく斜に構えていた。だが、今ならそういう活動をしていた人たちの気持ちが理解できる。


 貧しい人間は、日々の生活に精一杯で、学問をするような余裕が持てない。そうして何も学ばないまま大人になった人間の子供は、また同じように貧しい生活を送るしかない。


 貧困の再生産を食い止め、人々の生活を安定させるためにも、子供の教育は必要なのだ。


(まあ、ちょっと数が多すぎる気はするけど……)


 小さな子に髪の毛を引っ張られながら、初は境内を見回した。


 それほど広くない海生寺の中に、子供たちがひしめき合っている。


 ほとんどは安宅荘の領民の子供だが、中には他所の土地からやってきた孤児や、元奴隷身分の者たちも多い。

 孤児たちは、寺で雑用として働きながら、読み書きソロバンから行儀作法といった一通りの教育を受けている。


 少子化とは無縁の光景に目を細めていると、法堂の中から小柄な人影が、まろび出てきた。


「ウヌカル、こっちこっち!」

「早くしないと、お菓子なくなっちゃうよ!」


 子供たちに手を引かれてきたのは、一人の少女だった。

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