第25話 悪巧み

 永禄2年(1559年)8月上旬


      

 寝床を抜け出した鶴丸は、障子の隙間から、そっと辺りの様子をうかがった。


 早朝の安宅館は、まだ微睡まどろみの中にある。起きているのは不寝番の者たちと、厨の飯炊きくらいだ。


 音を立てぬよう障子を開き、廊下の雨戸に手をかけた鶴丸は、ぎょっとした。


「初っ! こんなところで、何をっ」

「シーッ!」


 初が唇に指を当てるのを見て、鶴丸は慌てて自分の口を押えた。


 左右に視線を走らせ、ほっと息を吐いてから、急いで雨戸の外へ抜け出す。


「貴様、こんなところで何をしておるか」


 館の庭に立った初は、鶴丸の質問には答えず、素早く塀へ走り寄った。その背には、初の身体が隠れるほど、大きな風呂敷を背負っている。

 まるで、夜逃げのような格好だ。


 無視されたことに苛立ちながらも、鶴丸は初の後を追いかけた。ここで声を荒げたら、館の家臣たちに見つかってしまう。


 庭木の陰から縄梯子を取り出した初は、先が二股になった木の棒で、縄梯子を頭上に差し上げた。


 縄梯子に付いた鉤爪を、塀のふちに引っ掛ける。


 塀に固定された縄梯子を、初は慣れた様子でするすると上っていった。

 呆気に取られていた鶴丸は、塀の上から初に手招きされて我に返る。急いで縄梯子を上り、塀の上に立つと、堀には竹の束が浮かんでいた。


「初姫様、見回りが来ます。早くこちらへっ」


 堀の向こうから、亀次郎が潜めた声で訴える。隣には、はらはらした顔の六郎が、こぶしを握り締めて立っていた。


 縄梯子を庭木の陰へ落した初は、迷うことなく塀から飛び降りた。

 迷った鶴丸も、初たちに急かされて、塀を蹴る。


 竹束の上に降り立った鶴丸は、意外にしっかりとした足元に驚いた。

 どうやら数本の竹を横に並べて縛り、左右に浮きを付けたものらしい。人を二人載せても、ちゃんと水面に浮かんでいる。


 亀次郎と六郎が縄を引き、竹束が堀端へと手繰り寄せられる。


「お前、いつもこうやって抜け出してたのか」


 堀から表通りに這い上がった鶴丸は、初たちの手際に舌を巻いた。

 あれだけ侍女や家臣たちに見張られていながら、どうやって館を抜け出すのかと思っていたが、こんな手筈になっていたとは。


 竹束を堀から引き上げ、手早く物陰に隠した初たちは、武家屋敷が並ぶ通りを駆け抜けていく。


 館の西側に位置する安宅湊まで来たところで、初はやっと足を止めた。


「ここまで来れば、大丈夫だろ。いやあ、いつやってもハラハラするなぁ、これは」

「何をのんきなことを。堀に足場を造ったり、見回りの者たちを誤魔化しているのは、俺たちですよ? 姫様は、館の者たちから逃げるだけで済むんですから、気楽なもんでしょう」

「馬っ鹿、それが一番大変なんだぞ!? 菊の奴が、どれだけしつこいかっ」

「姫様。あまり大声を出しては、他の者に気づかれて……」

「お前ら、館を抜け出して、何をする気だ?」


 鶴丸は、目の前ではしゃぐ初たちに、半眼を向けた。


 先ほどの動きを見る限り、こいつら相当に手馴れている。傅役(もりやく)の三木大八が、よく初が見つからないと嘆いているが、まさかここまで周到な策をめぐらせていたとは。


 初は、まるで今気付いたというように、きょとんとした顔で鶴丸を見上げた。


「兄上こそ、こんな時間に何をなさっているのです?」

「俺は、これから郎党たちと、朝の鍛錬をしようと」

「え、逢引きじゃないんですか?」


 不思議そうな顔をした六郎は、鶴丸の視線に、しまったと口を塞いだ。


「あ、あのっ、えっと……つ、鶴丸様は、達川屋の娘と良い仲だと聞いたので、てっきり、その……」

「あれ、俺は古屋村の名主の娘とできていると聞いたが?」

「はい、ですからそちらとも継続したまま」


 目線で黙らせるが、遅かった。


 鶴丸は、にやにやとこちらを見つめてくる初に、ほぞを噛んだ。


「ほー、兄上も隅に置けませんなぁ。勉学を差し置いて、逢引きですか。しかも、その年で二股とは、大胆な」

「俺は本当に、鍛錬をしに行くんだ!」

「でも、逢引きはするんですよね?」

「違うっ! あいつらが勝手に来るだけで、俺は別に」


 笑みを深める初に、鶴丸は舌打ちした。


(こいつには、余計なことを教えるなと言われてたのにっ)


 直定の顔を思い出して、鶴丸は身震いした。初を溺愛している直定に知られたら、どんな罰を与えられるか、わかったものではない。


「へー、ほー、ふーん?」と、うざったく絡みついてくる初を睨みつけ「それよりも」と、鶴丸は三人を問い質した。


「お前たちこそ、こんな刻限に何をしている。また悪さでもするつもりか?」


 ここしばらく、初がこそこそと何かをやっているのには、気付いていた。

 どうやら唐人町や、安居にある青海の屋敷に出入りしているらしいが、何が目的なのか。


「それは」と、答えかけた初は、川面を見て大きく手を振った。


「おーい、シュエさん! こっちだこっち!」


 見ると、一艘の小舟が川をさかのぼって、湊へと近づいてくる。


 多くの舟の間を縫うようにして、桟橋に着けた小舟は、船尾に大柄な人影を乗せていた。

 唐人たちが着ているような、蘇芳染めの上衣と下衣をまとった人影は、駆け寄る初たちに視線を向ける。


 傘の下から覗いた切れ長の瞳に、鶴丸は、はっとした。


 妙に暗い目をした女は、桟橋に立った初と言葉を交わす。整った白い顔立ちの中、赤い唇が一言、二言と動き、うなずいた初たちが小舟に乗り込んだ。


「おい、どこへ行く気だ?」


 呼び止めた鶴丸に、初は「兄上も来ますか?」と訊ねた。


「来れば、面白いものが見られますよ」

「面白いもの?」

「ええ」


 初はうなずくと、満面の笑みで言った。


「人の叡智が生み出した奇跡の数々を御覧に入れましょう」




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 子墨ズモーは、早朝の鍜治場を歩いていた。

 誰よりも早く起きて仕事場を点検するのは、幼い頃からの習慣だ。


 目と腕は職人の武器であり、炉は戦場である。


 製鉄職人だった父が、ことあるごとに子墨に言い聞かせた言葉だ。

 戦場では、ほんのわずかな気の緩み、陥穽の見落としが生死を分ける。職人もまた、些細な違和感を見逃さず、わずかな手抜きも許さぬ者だけが、高みへと至れるのだ。


 父の仕事を手伝うようになり、長じて鍛冶職人の道を選んでからも、父の言葉は子墨の人生の指標としてあり続けた。


 父のようになりたい。他の職人たちから認められたい。


 その一心から鍛錬に鍛錬を重ね、三十を過ぎるころには、自他ともに認める一流の職人となっていた。そんな子墨が日本へやってきたのは、運命のいたずらとしか言いようがない。


 明では、鉄の製造は国家事業である。国に認められた工廠でしか、製鉄も鍛冶仕事もできない。密造や密売が見つかれば、重罪である。


 あるとき、子墨が働く工廠で、一人の職人が役人に捕らえられた。工廠で作った製品を、商人に横流ししていたのである。


 こういった悪事に手を染め、私腹を肥やす者が出るのは、間々あることだった。元来潔癖な子墨は、そうした者たちを嫌悪こそすれ、決してそのような悪事に手を染めようとは思わなかった。

 しかしである。その職人はあろうことか、鉄を横流ししていた一味の一人として、子墨の名をあげたのだ。


 寝耳に水の話であり、子墨は無実を訴えた。工廠の仲間たちも、子墨の潔白を証言してくれた。

 だが、多くの人々の努力にもかかわらず、子墨は罪人として捕らえられた。


 この時代、明の皇帝であった嘉靖帝かせいていは、自分に反対する廷臣たちを、次々と処罰していた。その中に、子墨の遠い親戚がいたのである。


 顔を見たこともない男のせいで、あわや斬首となりかけた子墨を救ったのは、弟子たちだった。子墨が投獄された獄舎に火事を装って火を放ち、混乱に紛れて子墨とその家族を逃がしたのである。


 その後、知り合いの伝手を頼った子墨は、在野の職人となった。


 あれほど嫌悪していた密造業者として生きるしかなくなった子墨が、青涯和尚と出会ったのは、まさに運命のいたずらだった。

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