第22話 絵師
「ああ、青海様! お戻りになられたんですね」
跳び上がるようにして駆け寄ってきたのは、十代後半ほどの若い男だった。
良く日に焼けた肌に、枯草色の髪。洗いざらしの着物に継ぎを当て、栄養が足りていないのか、全体的に細っこい姿は、竹箒を連想させた。
「いやぁ、帰りが遅いんで、てっきり唐人町のほうへ行かれたのかと」
男は、へこへこと頭を下げながら、青海に会釈する。
気の抜けた顔といい、にぎにぎと揉み手をする姿といい、どことなく滑稽な男だった。
「その予定だったが、仕事が少々立て込んでおってな。今夜は、こちらの屋敷に泊まることになった」
「それは行幸! あ、いや。あくまで俺っちにとっては、ですがね」
へへっ、と笑う姿も、やけに卑屈だ。
初が眉根を寄せていると、青海は男を示して、
「これは、
「真似事とは酷いなあ。これでも一応、都で絵を学んでたこともあるんですぜ?」
口先を尖らせた鹿野だが、すぐに破顔すると、初たちに興味深げな顔を向けてくる。
「それで、こちらの別嬪さん方は、どちら様で? 青海様のお客人ですかい?」
「こちらは安宅家の姫、初姫様じゃ。後ろにおられるのは、小山家の菊殿。どちらも、わしの大事な客人ゆえ、粗相のないようにな」
「なんと! これはこれは、知らなんだとはいえ無粋な口をっ」
ばっ、としゃがみ込むなり、鹿野は地に額を擦り付けた。
かしこまって、ぷるぷると震える姿に、初は口元を歪める。
身分制度のある時代だから、ある程度は仕方ない。はじめは抵抗があった初も、時間が経つにつれて徐々に慣れていった。だが、ここまであからさまに平伏されると、逆に馬鹿にされているような気がしてくる。
苛立ちを自覚した初は、つとめて己の感情を抑えながら、
「こんな往来で、座り込むな。まわりの迷惑になる」
「へえ、ではお言葉に甘えて」
跳ねるようにして立ち上がった鹿野は、今度はしげしげと初たちを観察し始めた。
なんだこいつ、と半眼になる初に、鹿野はにやにやと笑いながら、
「いや、すいません。あんまりきれいな華だったんで、つい。なにせ、本物のお
「申し訳ありません、姫様。この者、別に悪気があるわけではないのです。ただ、絵師だったころの癖が抜けないらしく。こうして見目麗しい娘を目にすると、その姿を瞼に焼き付けずにはおられぬ性分でして」
「いやいや、今でも絵師ですから! だった、なんて過去の話にしないでくださいよ」
「これ、控えぬか鹿野!」
初は、何とも言えない面持ちで、二人のやり取りを見つめていた。
この身体になってからというもの、やたらと賛辞を贈られるのだが、初としては複雑な心境である。
(ガワは女でも、中身は男のままなんだけどなぁ……)
こういうふうにちやほやされると、なんだか本当に女になったみたいで、微妙な気分になる。世の中には、己の性自認?と身体の違いに苦しむ人間もいるが、大崎慶一郎にそういう感覚は皆無だった。
「あのぅ……別にからかっているわけではなくてですね? 俺っちは、世の中の女性は、みんな華だと思ってるっていうか。こう、絵師としては美しい華を見つけたら、やっぱり描かずにはいられないというか。でも紙も筆もないんで、今は目に焼き付けておいて、後で描こうと思ったっていうか……」
黙り込んだ初たちに、鹿野が若干慌てた様子でまくし立てる。
初と菊がなおも口を噤んでいると、せわしげに視線を動かし始め、
「あ、そうそう! 青海さん、俺っちにいつものやつを!」
助け舟を求められた青海は「おお、そうであったな」と、屋敷の中へ声をかけた。
「これ、誰ぞ油を持ってまいれ! 厨で使こうた油じゃ。間違えるでないぞ!」
脇門から、桶を抱えた使用人が出てきた。
鹿野は、いそいそと使用人から桶を受け取り、代金の代わりか、一枚の紙を青海に手渡した。
「いつもどおり、大豆油でございますかい?」
「今日は荏胡麻と菜種、あと豚の脂も混じっておる。まあ、お主の使い道ならば問題はあるまい」
「へい。それじゃあ、俺っちはこれで」
「待て」
そそくさと、その場を立ち去ろうとする鹿野を、初は呼び止めた。
「その油、いったい何に使うんだ?」
ちょっとした好奇心である。
初の問いかけに、鹿野は困惑した様子を見せながら、
「へ、へえ。これは、石鹸を作るのに使うもんでして」
「石鹸?」
「こやつは、この辺りの屋敷を回って、古い油を集めておるのですよ」
安宅荘には、明からやってきた人間も多い。その影響で、油を使った料理をする家が多く、廃油が手に入りやすいと青海は言った。
「絵だけじゃ食えないもんで。何かいい食い扶持はないかなぁと考えていたところ、石鹸が油から出来てるって聞きましてね。それなら、使い古した油からでも出来るのではと」
鹿野は、各屋敷から集めた廃油を使い、安価な石鹸を作っているという。
「これが、いい商売になりましてね。まあ、その日の飯代を稼ぐくらいですが、青海様にはいつも助けられて」
初は、鹿野の手から桶を奪い取った。蓋を開き、中の油を検める。
ぷん、と異臭が鼻を突く。黒く濁った油の表面には、何かが焦げたカスや野菜クズなどが浮かんでいた。
「この油、料理に使った後ですか?」
「ええ。我が家には、鍜治場の工人や唐人町の者もよく来ますので。昨夜は、明から来た商人をもてなすために、唐料理を用意しましてな」
青海の屋敷では、料理に良く油を使うという。
はじめは客に振舞うためだったが、近頃は青海自身も、唐料理にはまっているらしい。
「油で炒めたり、揚げたりした料理というのは、なかなか美味なものでしてな。すっかり癖になってしまって」
菊の眉が、小さく動いた。
油っこい料理が苦手なので、今日の夕飯が心配になったのだろう。
菊は全体的に細身だから、もう少し脂肪を付けたほうが良いとは思うが。
「なにか仰いましたか、姫様?」
「いや、なにも」
冷ややかな視線を送る菊に背を向け、初は桶を振って中の油を回転させた。
「……だいぶ汚れてんなぁ」
おそらく、二、三回は使った後だろう。聞けば屋敷の使用人たちが、自分たちの料理を作るために、油を使いまわしているという。
「あの、姫様? そろそろ返してもらっても……」
「見せてみろ」
「はい?」
「お前が売ってる石鹸。今、持ってないのか?」
「えーっと、ちょっと待ってくださいよ」と、鹿野は懐をあさり始める。
差し出された石鹸を手に取り、初は鼻を近づけた。褐色の石鹸からは、先ほどの油と同じ臭いがした。
「……お前、まさか廃油を、そのまま石鹸にしてないだろうな?」
初の視線に、鹿野はうろたえだした。せわしなく視線を左右に走らせ「いや、あの……ええと」などと、口ごもる。
「どうなんだ?」
「は、はい! そのまま石鹸にしておりますです、はいっ」
初は、鹿野の頭を殴りつけた。思いっきり、グーでいった。
「痛った! ちょっと姫様、いきなり何する……」
「この、たわけがっ! 廃油をそのまま石鹸にする奴があるか!」
道端に倒れた鹿野を怒鳴りつける。
初は、涙目になる鹿野をもう一発殴りつけてから、廃油の入った桶を指し示す。
「この中には、食べ物のカスやら汚れやらが、いっしょくたになってるんだぞ! それを石鹸にしたら、身体中に汚れを塗りたくるようなもんだろうが!」
「い、いや、でもこいつは貧乏人が買うような代物でして。あいつらはそんなの気にしない……」
「馬鹿野郎!」
「あいたっ!」
顔面に蹴りをかました初は、ふんっと鼻から息を吐き出した。
「貧乏人だろうが、なんだろうが、客は客だ。身体に害が出たら、お前の責任だぞ。わかってんのか!」
「ひ、ひいっ! か、勘弁してください。ほんの出来心だったんです!」
鹿野が、頭を抱えてうずくまる。
初は、呆気にとられる青海を見上げて「石灰か貝殻はありますか?」と訊ねた。
「できば、海藻も分けてほしいんですが」
「蔵に行けば、いくらでもあると思いますが」
「よし。ちょっと来い、お前!」
「ああ、お手打ちだけは! お手打ちだけは、勘弁を!」
泣きわめく鹿野を引きずり、初は青海の屋敷にある蔵を目指して歩き出した。
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