第14話 兄
凛の世話を菊に任せ、初たちは関船に乗り込んだ。
水主の手を借りて、縄梯子から降りる。
多くの人々が立ち働く甲板では、なぜか猶重が、直定の前で正座させられていた。
「兄上。猶重は、どうしたのです?」
初は、隣に立った人影を見上げた。
頼定は、糸のように細い目をいっそう細めながら、
「まあ、猶重は少々、考えなしなところがあるでな。それで」
「それで?」
「先ほど、いきなり飛び降りたであろう。それで、お前の乗った舟が揺れたから」
だから、なんだというのか。
直定は、水主たちが興味深そうに見守る前で、正座している猶重の頭上に顔を寄せた。
筋肉に覆われた猶重の身体が、小刻みに震える。それに合わせて、背中に負ぶった沙希の首まで前後に揺れた。
「あれは、何を?」
「いろいろあるのだ。いろいろ」
どうにも歯切れが悪い。
普段から寡黙なほうだが、頼定は決して口下手なわけではない。
むしろ周囲をよく観察して、物事を論理的にとらえ、的確な発言をする。それ故の無口なのである。口数が少ないのは、少ない言葉で全てを伝えられるからだ。
実家の工場にも、こういうタイプの職人がいたので、よくわかる。
いつもはむっつりと押し黙り、黙々と仕事をこなしているのに、若い社員が質問をしに行くと、的確な答えを返してくれる。
相手がどこで躓いているのか、どこを理解できていないのか。
これまでの仕事ぶりを観察して推測し、そろそろこの知識が必要になるだろうというタイミングで、すっと手を差し伸べる。
そういう人間がいる組織は、驚くほど効率的に回るものだ。
若手社員は、この人に頼れば助けてもらえるという安心感で委縮しなくなり、のびのびと仕事ができる。さらに、確実な成功体験を積み重ねることで自信をつけ、どんどん技術と知識を吸収していく。
若手が戦力になれば、それだけベテランの負担は減るし、余った時間で自分の技術を磨くこともできる。そうすれば会社の業績が上がり、給料も増える。
自分の仕事や、人を育てることの意味が分かっている、実に有能な人だった。
(一郎さん、今頃どうしてるかなぁ。ここんとこ体調が悪そうだったから、病院に連れてこうと思ってたのに)
よく遊んでくれた職人の顔を思い浮かべていると「それよりも」と、頼定は糸目を初に向けた。
「こんな場所で何をしておる? 今日は、手習いの日のはずぞ」
「手習いなら、一通り終えました」
亀次郎がおかしそうな顔をしたので、肩を小突いて黙らせる。
「寄舟が流れ着いたと聞きましたので。これは安宅家の者として、事の次第を確かめるべきだと思い、こうして駆け付けた次第です」
「何をぬけぬけと」
船の屋形から出てきた鶴丸は、初を見るなり、疑わしそうな顔で言った。
「どうせ、物見遊山のつもりじゃろう。お前が寄舟の見聞になど来て、何の役に立つというんじゃ?」
「あれは、明の交易船でしょう? ならば、今後建造する船の参考になるかもしれません」
これでも技術屋の端くれだ。船舶については門外漢でも、中に使われている技術は他の分野と共通する部分があるかもしれない。船の内装や外観を見れば、どんな技術が使われているのか、ある程度推測できる可能性はある。
外国の船を調べれば、そこから安宅荘で作る船に生かせるアイディアが、見つかるかもしれない。
初が訴えると、鶴丸はいかにも胡散臭そうな顔で、
「お前の知恵など、役に立つものかよ。女ならば大人しく、館の中でかるた遊びにでも興じておればよいのだ」
よし、締めよう。
「この船は、初が考えた構造を取り入れておる」
初が、助走の準備を始めた時だった。
頼定は、初に笑いかけると、落ち着いた声音で鶴丸に話しかけた。
「光定叔父上から聞いた。数年前、初が乗り込んだ船の問題を指摘し、その際に受けた提案を取り入れたと。わしは何度かこの船に乗ったが、大波が来てもびくともせん。実に頑丈な船に仕上がっておる」
頼定は、足の裏で甲板を叩いた。
「初の知恵は、安宅家の役に立っておる。そう邪険にするものではない」
驚く鶴丸に、初はふふんと胸を張った。
どうだ、とばかりに仰け反る初を、鶴丸は忌々しそうに見つめた。
「見聞を広めるのも良いが、兄としては、もう少しお淑やかになってほしいものだな」
ぽん、と背後から頭を叩かれる。
直定は、憂いを帯びた顔で初を見下ろした。剣ダコで硬くなった掌が、ゆっくりと髪を梳いていく。
「私は、心配でならんよ。お前は、ちょっと浮世離れしたところがあるから。いつかどこかへ、勝手に羽ばたいていくんじゃないかと、不安になる」
頭をなでる優しい手つきに、初はぞわぞわと、下腹のあたりがくすぐったくなる感覚を覚えた。
こんなふうに扱われた経験がないので、どうにも面映ゆい。
むずがる初を見て微笑んだ直定は「まあ、それはそれとして」と呟いた。
「父上の言いつけを破ったのだ。それなりの罰は、受けてもらおうかな?」
うぐっ、と身構える初に、直定は意地の悪い笑みを浮かべた。
「そう難しいことではない。そうだな、舞でも舞ってもらおうか。今夜の夕餉にでも、披露してくれ」
「こ、今夜ですか?」
気安くのたまう直定に、初は渋面を作った。
安宅家の夕餉は、基本的に家族だけで膳を囲む。多少作法にはうるさいが、小料理屋でバイトしていた経験があるので、それほど難しくはない。
だが、今日は別だ。今夜は月に一度、家臣たちを招いて宴会が催される日なのである。
初は、何十人もの家臣たちが居並ぶ前で、舞を踊る自分を想像した。
間違いなく晒し者だ。考えただけで、胃が痛くなる。
「亀次郎には……そうだな。頼定と一緒に、艪を漕いでもらおうか」
「わたくしもですか!?」
頓狂な声を上げた亀次郎は、なぜか急に震えだした。
直定が、にこにこと笑いながら亀次郎に詰め寄る。
間近から亀次郎の顔を覗き込んだ直定は、ゆっくりとした口調で語りかけた。
「お前には、初が危ないことをせぬよう、気を付けておけと命じたはず。それを果たせなかったのだ。罰を受けるのは、当然であろう?」
「し、しかし……この船の艪を漕ぐというのは、あまりにも」
大型の関船を動かすには、かなりの力がいる。
この船には、四十丁の艪が備えられており、艪一つにつき二人の水主が操作に当たる。
大人でも重労働な関船の艪漕ぎを、やれと言われたのだ。亀次郎が困惑するのも当然である。
「安心せい。お前の兄も、一緒に漕ぐと言うておる。──のう、猶重?」
「はい! 誠心誠意、漕がせていただきます!」
振り返った直定に、直立不動となった猶重が大きく頭を下げる。まだ背負われたままだった沙希の身体も、一緒になって上下する。
「なに、心配せずともよい」
後退る亀次郎の背後から、直定が両肩に手を置く。
固まった亀次郎の耳元に唇を寄せ、直定はしごく優し気な口調で囁いた。
「このあたりの海を、二刻ばかり走り回るだけだ。海賊衆ならば、できて当然の話よ。そうだろう、亀次郎?」
さわやかな笑みに、亀次郎の背筋がぶるりと震えた。
「おや、亀次郎様も船を漕ぎなさるべか」
「この船の漕ぎ手、大変ね。みな、
「熊野海賊衆でも、一、二を争うほどの手練れじゃ。亀次郎様が、ついて来れますかな?」
はやし立てる水主たちに「これ、お前たち。持ち場に戻れ。亀次郎たちも一緒にな!」直定が手を叩くと、全員きびきびとした動作で、船内を駆けていく。
「初。お主は、私の隣へ」
「
矢倉の上から、水主の声が上がる。
何事かと振り返った初たちに、水主は血相を変えて叫んだ。
「漂流者じゃ! 海に、人が浮かんでおる!」
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