No.4-16

 私の現状について、これを完全に把握出来ている人間は私の他に存在しないであろう。私は今、私の人生の七割ぐらいを生きている。端的に言えば私の意識は実験を開始するその瞬間に途切れ、実験を終えて数十分して意識を取り戻す。そういう状態になっている。

私の意識が途絶している間も、何者とも分からぬ『私』が実験を行っているらしいということは、あの薄笑いの男の言いぶりからも察することが出来る。

その何者とも知れぬ『私』が実験を執り行う間、本来の精神であるはずの、私の意識は今は遠きあの薄暗い戦場へと旅立っている。不思議なことだと私も思うが、私の意識が旅立つその先に想起される戦場はいつも薄暗くて、明るいことは一度もなかった。私は夜や、或いは薄暗い塹壕の中だけではなく、昼間の明るい時に戦闘をすることも多々あったはずであるのに、私の記憶には薄暗い時のものばかりが残されているようだった。

そうして、私以外の何者かが私の身体で実験を終えた後に、私はいつも彼女の元へと出向いていった。

『……やあどうも。君はご機嫌なようだね?』

 この、私の内側から響いてくる言葉。声はもしかしたら、私に変わって実験を執り行っている何者かが発する言葉であるかもしれない。けれども私はこれを単なる自問自答と区別することができないし、その何者かが私の意識を奪い去る瞬間というのを認識していたわけでもないので、断定することも出来なかった。もっともそれを認めたところで、私がどうこうするということも出来ないのであるが。

『君はいつもその調子だね。薄々感づいている癖に、それを認めようとしない』

 認めたところで何になると言うのでしょうね。

『科学とは何千年も積み重ねられた事実の、結実そのものではないのかね。君が他者として私を認識しているというのは明確であると言うのに、それを認めないでいてどうする……ああ無論。無論理解しているとも。その方が君にとって都合が良いから、だよなぁ? そうだろう。愛しのイレーヌ』

 その呼び方はやめて。不愉快だから。

『ならば退散するとしよう! どうせ君は私を必要としているのだから』

 いくらでも言えばいい。この幻覚め……。

私は、この会話を自問自答であると繰り返し自分に言い聞かせながら、彼女が居るあの部屋へ向かう。

今度の実験は、実験室を使用しない。

兵器として使用される可能性のある細菌兵器の注入と、その抗生剤が実際に効くかどうかをテストする。既に動物実験を通っているこの試験は、想定外な何かが起こらない限りは、実験体である彼女が死ぬことはない。

部屋の中では、多数のチューブに繋がれた彼女が居る。心音は安定している。良かった……彼女は、生きている。

私が部屋に入ると、彼女はか細い声で言った。

「なあ、イレーヌ」

 その切ない響きは、私の身体のうちにある何かを、ぎゅっと握り締めてくる。

「……エダ」

 私は彼女を前にして、ただただ立ち尽くす。彼女は胡乱な目つきで何もない天上を見つめ、言う。

「物凄く苦しいんだ。何度もお腹を下していて、食べても吐いてしまって、頭の裏で何かがぞわぞわと蠢いているんだ……なあ、イレーヌ」

「……まだです」

 私が一言そう言うと、彼女は微笑する。彼女の顔を見慣れていなければ、それはただたんに口元が少し歪んでいるようにしか見えないだろう。だが、私には理解出来る。彼女は、微笑んだ。

「そうか……いやはや、楽じゃないね」

 そう言って彼女は手を動かそうとするが、指先しか動かせないようで、それさえも動かすだけで痛むらしく、彼女は苦痛で顔を歪めた。

「なあ、イレーヌ。手を、握ってくれないか?」

 そう言われて私は、彼女のすぐ横まで行って、その手を握る。その手は冷たく、まるで死体のようだった。

「私、ね。こういう状態になっても、それでも、嬉しいと思えることが、いくつかあったんだ……聞いて、くれないか?」

「私なんかで良ければ」

「まず君とこうやって話せる。それが嬉しい」

 その言葉を聞いて、私は思わず息を呑んだ。何かがこみ上げてくるのを、じっと抑えていた。彼女は続ける。

「それに……今は、髪を伸ばせるんだ。信じられるか? 兵士だった私が、髪を伸ばせるんだよ、イレーヌ……君なら分かるだろう。その意味が」

「……はい」

 私はそれだけ返して、手を握った。彼女が痛まないように、弱く、その手を握った。

彼女はやがて眠りについた。苦痛から逃れるたった数時間の眠りに。

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