第706話 根本にあるもの
「未来を決める権利、のう……。くっくっくっ、笑わせてくれる。そんなことは元より知っておるわい」
ルヴァンが去った地下室の牢獄の中でマファルダ・スカルパは皺だらけのその顔に狂気を宿し、孤独に嗤う。
誰からも返事はなかった。
ルヴァンによって深い眠りへと誘われた看守たちは未だに目覚めることなく、冷たい床の上でいびきをかいている。
脱獄するには、まさにこれ以上ないほどの好機。
しかし、マファルダにとって今の状況は何一つ自身の行く末を左右するには至らなかった。
むしろ
――コツ、コツ、コツ。
突如として地下室に靴の音が響き、徐々にその音がマファルダのもとに近付いてくる。
時刻は朝の五時ちょうど。
日の光がラビリントを照らし、夜に終わりを告げる時刻。
「……ふぅ、ようやく迎えが来てくれたかのう」
枯れ枝のように細くなった両足に力を入れ、硬いベッドの上から立ち上がる。
そして、蝋燭の炎によって仄かに照らされた地下室に、もう一つ影が増えた。
「お迎えに参りました、お祖母様」
感情の起伏をまるで見せない、妙にくぐもった若い男の声がマファルダに生きる希望を与える。
待ち侘びていた子の声を訊くや否や、マファルダは顔に貼り付けていた狂気を引っ込め、情愛に満ちた表情で愛する子を鉄格子越しに出迎えた。
「ちと、先客が来ていたのでな。予定外の状況になっておって驚かせてしまったか? 我が子――アマートよ。いや……今は《
――《白仮面》。
マファルダが発掘し、育て上げた精鋭中の精鋭である暗殺者兼諜報員たちを一括して《白仮面》と呼ぶ。
その称号を与えられている者は数千にも及ぶマファルダの手駒の中でも僅か十名のみ。
魔武道会に出場し、爆死したルキーノも、アマートと呼ばれたこの若い男も《白仮面》の称号を与えられたうちの一人であった。
マファルダは《白仮面》を『我が子』と度々呼ぶことがあるが、決して血が繋がっているわけではない。
孤児やスカルパ公爵家が持つ過酷な南方の領地からマファルダが極上の素材を選出し、そして磨き上げた珠玉の逸品であった。
当然のことながら、簡単に替えが効くモノではない。
とりわけ、ルキーノとアマートの力は《白仮面》の中でも戦闘能力に特化しており、ずば抜けていた。
「ご自由にお呼び下さい、お祖母様」
アマートはその顔に被せていた白い仮面を外さず、マファルダの身を自由にするためにさっそく作業へと取り掛かる。
作業と言っても大したものではない。
どこからともなく鍵が連なった輪を取り出し、順々に鍵穴に挿し込むだけの単純な作業でしかなかった。
数秒とかからず錠が開き、落ちた衝撃で高い金属音を奏でる。
そしてアマートは牢の中に足を踏み入れると、足腰が弱っているマファルダに手を貸し、牢の外へと共に出た。
「苦労を掛けた。ついでに床に転がっているそこの看守も回収してはくれぬか? あれも私の子飼いの者なのでな」
「承知致しました。他の者は如何致しましょう」
「無意味に殺す必要はない。放っておけ」
「はい」
マファルダを投獄したウーゴ・バルトローネ公爵が用意した看守の中にも当然のようにマファルダの配下の者が紛れ込んでいたのだ。
それほどまでにマファルダの――スカルパ公爵家の影響力はブルチャーレ公国全体に行き渡っていた。
憲兵隊にも軍部にも政治の場にも、そして国外にもマファルダの配下の者たちは隠れ潜み、影でスカルパ公爵家の影響力をより強固なものにしていたのである。
地上へと続く螺旋階段をアマートの手を借り、マファルダは階段をのぼり続けていく。
アマートの肩の上には看守の男が一人、だらりとぶら下がっている。
「表の様子はどうじゃ?」
「問題ございません、お祖母様。これからどちらへ参りましょう」
「そうじゃのう……」
頭の中でこの後のビジョンを描いていく。
国外に脱出するつもりは初めから完全に除外していた。
マファルダの根本にある目的はただ一つ。
竜族の恐ろしさを知らしめることに集束されていく。
知識だけの安いものでは事足りぬ。
人々の記憶に、本能に、竜族への恐怖を植え付け、決して忘れさせぬようにしなければならない。
故に、目に焼き付けさせ、肌で感じさせ、脳に叩き込む必要があった。
――地竜族を抱え込んだシュタルク帝国と矛を交えないために。
そのためには愛する祖国を売っても構わない。
国の存続よりも愛し守るべき国民の命をより多く救うことをマファルダは選択したのである。
シュタルク帝国に滅ぼされるくらいなら占領下に置かれ、貧困に喘ぎながら泥水を啜ってでも生きていく。
マファルダと他の公爵家の違いは方向性が異なっていただけだったのだ。
早々に敗北を受け入れ、民の命を優先したマファルダと、最後まで戦い抜き、国を守ることを選んだ三つの公爵家。
マファルダは世界各国に目と耳を持っているが故に、シュタルク帝国と戦うことの無謀さと浅はかさを知り、ルヴァンが指摘した通りに諦めの境地へと至っていたのである。
自分に今できる最善は何かをマファルダは考え、脳内にシナリオを描いていく。
「……炎竜族と風竜族。この二つをこちらに引き込めれば、全てが丸く……フッ、馬鹿馬鹿しい」
「お祖母様?」
「いや、何でもないよ」
消え入りそうな声で夢物語を無意識下で紡いでいたことに途中で気付かされ、自嘲する。
魔武道会でルヴァンと邂逅してからというもの、何度も同じ夢物語を描き、破り捨ててきた。
もし炎竜族と風竜族をラバール王国とブルチャーレ公国で囲うことができれば、と。
好都合なことに
しかし、だ。
マファルダが持つ情報網を持ってしても、今現在確認できる炎竜族はたったの三名のみ。風竜族に限ればルヴァンしか確認できていない。
対してシュタルク帝国が囲っている地竜王率いる地竜族はどうか。
正確な数こそ把握できていなかったが、確認できただけでもその数は十を超えている。
無論、数だけで戦力を比べることはできないが、倍以上ともなれば、希望よりも先に絶望を抱いてしまう。
何より、炎竜王であるフラムを筆頭に炎竜族が人族の国家のために動く意思がないという確度の高い情報を得ている以上、期待すること自体が間違っている。
一体で一国を滅ぼすと伝えられている竜族がシュタルク帝国には十以上。
今よりも文明も人間の戦闘力も劣っていた時代の御伽話に近い伝承でしかないが、そんな神にも等しい力を竜族が持っているのだとしたら、多くの地竜族を手に入れたシュタルク帝国に勝つ術などどこにもありはしない。
(私があれほど可愛がってきたあのルキーノでさえも、炎竜王フラムの実力を測るための物差しにもなりはしなかった。まったく……竜族というのは伝承通り天災のような存在なのかのう……)
マファルダは妄想の中から抜け出し、現実に戻ってくる。
「ラビリントの屋敷に一度帰るぞい。夜に向けて色々と準備を整えておきたいからのう」
「お隠れにならなくてよろしいのでしょうか? お祖母様が脱獄した事実を隠し切るのは不可能かと」
「構わん構わん。魔武道会は終わったとはいえ、向こう一週間はラビリント中が観光客でお祭り騒ぎじゃ。そんな中で私を捕まえるために無茶をすれば国の威信にかかわる。そのような真似をするほどの度胸をダミアーノは持ち合わせておらん。ちと私のいる場所を教えてやれば、強硬手段に出ることはまずないはずじゃ」
螺旋階段を上り終えると、眩しい朝日がマファルダの目の奥を刺激する。
「アマートよ、竜族の王は私たち人族の王と同じじゃと思うか?」
「それはどういう意味でしょうか?」
「血を重んじ王となったのか、強さを重んじ王になったのかという意味じゃよ。なあに、ふと気になっただけじゃ」
マファルダは自身が持つ情報に絶対の自信を持っている。
だが、それはあくまでも人の世に限られたものでしかないことをこの時のマファルダは全く自覚していなかった――。
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