第536話 軍靴の音

 オルソン侯爵領最南端の都市ステンガまで一週間を切った道半ば、二万の軍勢を引き連れたクリストフ・フレーデンのもとにとある一報が届く。


「――報告致します! エーヴェルト・ヘドマン子爵が約一万五千の兵を率いて出立したのとこと!」


 一足先にステンガまで向かわせていたクリストフの私兵が馬から降りるや否や膝をつき、馬に跨がるクリストフに報告をした。


「何だと!? ヘドマンめ、私を差し置いて先陣を切るなど一体どういうつもりだッ!」


 クリストフの怒号が響き渡る。

 それもそのはず、クリストフはこの戦に全てを賭けていた。

 名誉や功績などは不要。先陣を駆け、愛娘の仇を討つためだけに莫大な私財を投じて二万という大軍勢を揃えていたのだ。

 兵たちの装備も他の貴族のものとは一線を画す。

 公爵家として持つ財力と権力を惜しみ無く発揮し、末端の兵士に至るまで一級品の装備を揃えさせていたのである。

 他にもフレーデン公爵家に先陣を任せてくれるよう、他の貴族への根回しも行っていた。

 それらの努力を踏みにじったエーヴェルトにクリストフが怒りを覚えるのも当然だと言えるだろう。


「して、ヘドマンは如何様な手段で一万五千もの兵を揃えたというのだ」


 ヘドマン家は所詮、子爵家に過ぎない。公爵家であるフレーデンでさえ二万が限界だったというのに、子爵であるヘドマン家が一万五千もの兵を揃えられるとはクリストフには到底思えなかったのだ。


「はっ! オルソン侯爵家から九千の兵を預かったとの情報が」


「ラーシュ・オルソン侯爵は内務大臣として王都に戻らなければならない。故にヘドマン子爵家に兵を貸し付けたといったところか……。実に気に食わんやり口だ。兵を貸し付けることでヘドマン子爵には貸しを作り、それでいながら自身は安全な場所で観戦者を気取る。九千もの兵を投じただけでも貴族としての責務は果たしたと言えるだろうが、それでも気に食わん」


 クリストフは顔を歪め、手綱を握る両手に力を込めた。

 オルソン侯爵家のやり口にも不満はあるが、それよりもヘドマン子爵家に抜け駆けされたことがどうしても許せなかったのである。


「……ふざけるでない」


 たった今、もたらされた情報の鮮度はだいぶ古くなっている。早馬で駆けてきたとはいえ、情報の誤差は四日前後といったところ。

 となると、エーヴェルト率いる一万五千の兵は今頃レド山脈にいるであろうことは容易に想像がつく。

 クリストフたちが今いる場所から最南端の都市ステンガまで約一週間。そこからレド山脈を越え、シュタルク帝国領に足を踏み入れるまで更に一週間は掛かってしまう計算だ。


 どう足掻いても先陣を切ることはできない。

 だが、それでもクリストフは諦められなかった。


「――全軍に告ぐ! 行軍を速めよ! 四日だ! 何としてでも四日でステンガにたどり着くぞ!」


 無理難題、無茶苦茶な命令であったにもかかわらず、兵たちから文句の声が上がることはなかった。それはひとえに領主であり雇い主でもあるクリストフの胸中に燃え盛る怒りを皆が知っていたからに他ならない。


(何としてでも……何としてでもこの手でマルティナの無念を晴らしてみせる……!)


――――――――――


 時同じくして、エーヴェルト・ヘドマン率いる約一万五千の軍勢はマギア王国領に位置するレド山脈の中腹に差し掛かっていた。

 当初の行軍予定では今頃レド山脈の頂上付近に到達しているはずだったのだが、予定に大幅な遅れが生じていたのである。


 その主たる原因はレド山脈の険しさと膨れ上がった軍の数だ。

 雪解け間もない時期にエーヴェルトが少数を引き連れシュタルク帝国に最後通牒を行った時とは訳が違った。

 あの時は少人数が通れるだけの道を魔法で切り開いていくだけで済んだ。その時に切り開いた道は今も尚残っていたが、一万五千もの数に膨れ上がった今となっては、その道は全くと言っていいほど機能せず、また新たに道を切り開かなければならなかったのである。


 とはいえ、エーヴェルトはこうなるであろうことをある程度は予期していた。

 軍を細かく分けることで以前切り開いた細道を使うという手もあるにはあったが、エーヴェルトは軍が間延びすることを嫌い、新たに道を切り開くことにしたのだ。


 道を切り開くための魔法師の数は足りていた。

 火系統魔法で雪を溶かし、土系統魔法でぬかるんだ地面を舗装していく。

 この一連の流れを代わる代わるこなしていける程度の数の魔法師は確保できていた。


 しかし、問題は別にあったのだ。

 ヘドマン子爵家が抱える私兵の多くは軍事畑出身のエーヴェルトが自ら訓練メニュー等を考案し、徹底的に鍛え上げていたこともあり、険しいレド山脈を然程苦もなく行軍し続けることができていた。


 そう……問題はオルソン侯爵家から兵士たち。

 無論、全員が全員無能だったわけではない。

 一部の兵士を生業にしている者たちはヘドマン子爵家の私兵と同様……あるいはそれ以上の高い身体能力を有し、悠々と行軍についてこれていた。

 だが、オルソン侯爵家から預かった九千の兵の内、六千の兵たちは募兵だったのだ。

 金で集めたのか強制的に徴兵したのかエーヴェルトの知るところではないが、その者たちの存在が全軍の足を引っ張り、行軍を遅らせてしまっていたのである。


「ヘドマン様、後方が遅れております。暫し待たれた方がよろしいかと」


「ああ、そう伝えよ」


「――はっ!」


 エーヴェルトの身辺を守る近衛兵の一人から先頭を進む集団に伝令が届けられ、足を止めることに。


停止命令が出たな」


「まったく……いい加減にしてほしいものだな。こう何度も止まってばかりでは逆に疲れてきてしまう」


「ちっ、足ばっかり引っ張りやがって……」


「おい、やめておけ。あちらさんは侯爵家の兵なんだ。陰口を聞かれでもしたら面倒なことになるぞ」


 先頭を歩くヘドマン子爵家の兵たちから不満が漏れ出る。

 もう何度目かわからないほど見飽きた光景だ。

 当然、そのような不満の声が出ていることはエーヴェルトの耳にも届いていた。


「ヘドマン様、僭越ながら自分が口を封じるよう言い聞かせて参りましょうか?」


 自慢の近衛兵たちの視線が、その主人であるエーヴェルトに集まる。


「いや、やめておけ。不満を溜め過ぎるのも考え物だ。多少は目を瞑ってやらねば先が持たん。とはいえ、このまま放置を続ければ全軍の士気の低下にも繋がりかねんな……。しかし遅れているのはオルソン侯爵から預かった者たちだ。歯痒いが、無下にすることはできん」


「……承知致しました」


 明らかに納得がいかないといった声が返ってくるが、今のエーヴェルトには訊かなかったことにするしかできなかった。




 それから一日、二日と時が経つにつれ、ヘドマン子爵家の兵たちには不満が、オルソン侯爵家の兵たちには疲労が確実に溜まっていっていた。


 当然、士気も悪化の一途を辿っている。

 山頂に着く直前にはヘドマン子爵家とオルソン侯爵家の混成軍は半ば二分化してしまっており、両家の兵士たちの関係は最悪の一歩手前まで来てしまっていた。


 だが、山頂に到達してすぐのことだった。

 そんな険悪な雰囲気を吹き飛ばすほどの一報が届く。


 望遠の魔道具を片手に持った近衛兵の一人が血相を変えてエーヴェルトのもとに駆け寄り、こう告げたのだ。


「ほっ、報告致します! レド山脈の麓にて、シュタルク帝国に動きあり! 繰り返します! レド山脈の麓にてシュタルク帝国に動きあり!」


「何……だと……?」


 望遠の魔道具を近衛から奪い取り、麓を確認したエーヴェルトは、レンズ越しに広がる光景を見て絶句した――。

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