第286話 決行日

 遠征日当日の早朝。

 この日の天気は、空に雲一つない快晴。山の天気は変わりやすいとはいえ、遠くの空を見上げても、その心配は不要と思われるほど、遠征日和と呼べる天候となった。


 そして、フルフトバーカイト教会の広い庭園では、五百人にも及ぶ兵士が整列し、出発の時を待っている。

 兵士たちの士気は非常に高い。普段、事務や国内の警備・治安維持を主な業務としているため、今回のような実戦訓練が行える機会はそうそう無く、皆が皆、やる気に満ちていた。

 だが、兵士たちの士気が高い理由はそれだけではない。

 昨日、とある吉報を耳にしたことが、何よりも兵士たちの士気を高めていた。


 その吉報とは、病に伏せっていた法皇の快復。

 とはいえ、全快とまでは至っていない。意識すら未だにない。ただ指先がピクリと一度だけ動いたのみ。だがそれでも、指先すら動くことがなかった以前の状態と比較すれば、それは大きな進展であった。『法皇様が目覚めるかもしれない』という希望がほんの僅かに覗き見えただけで、兵士たちの士気は上がっていた。


「――傾注ッ!」


 此度の遠征の指揮官を任された男が全兵士に力強い声で呼び掛ける。

 元より、騒ぎ立てていたり、雑談を交わしていた者は誰一人としていなかった。あくまでも慣習的な台詞に過ぎない。


「これより我らは、不足しつつあるドルミール草を採取すべく、レド山脈へ向かう! 期間は三日間と短いが、道中では多くの魔物と剣を交えることになるだろう! 皆、心してかかるように!」


「「――はっ!!」」


 威勢の良い返答を耳にした指揮官は、満足げに一度大きく頷いた後、次々と指示を飛ばしていく。

 五百の兵を十に分け、五十人からなる隊を編成。合計十隊で、それぞれ別々の採取場へと向かう予定となっている。加えて、各隊には聖ラ・フィーラ教所属の治癒魔法師が数名ずつ配置され、万全の準備が整っていた。


「出陣せよ!」


 戦場に向かうわけではないにもかかわらず、指揮官は『出陣』という言葉を用いた。そこに深い意味はない。ただ単に、高揚感から出てしまった台詞だった。


 出兵と共に、教会の鐘が鳴らされる。

 兵士たちの無事を祈るため、そして兵士たちの士気をさらに向上させるため、教会の粋な計らいで鐘は鳴らされた。




 北の国門に向かう兵の姿を、ライマンは最上階にある法皇が眠る部屋の窓越しから眺めていた。


「行ったか」


「ライマン様、我々が配置につくのは日が沈んでからとのことですが……よろしいのでしょうか?」


 法皇が眠る部屋にはライマンと法皇以外に、衣服こそ質が良い物を身に纏っているものの、容姿はパッとしない男がもう一人いた。シュタルク帝国最高の治療魔法師という偽の肩書きを持った男が。


「構わん。民が賑わう夕刻までは仕掛けてこないであろう。それにレーガーの予定も把握している。奴が介入してくるにしても、夜に違いあるまい」


 確固たる自信がライマンにはあった。

 勘が告げている……などといった曖昧なものから来るものではない。

 ライマンは当然のようにレーガーに監視をつけていた。だからこその自信。レーガーが外出しようものなら、すぐさま報告が上がってくるよう命令を下していた。


「今は夜に備え、身体を休めるよう伝えておけ。眠気で戦えないなどという事にでもなったら笑えんからな」


「かしこまりました」


 法皇の部屋を出る前に、再度ライマンは窓から外を眺めた。外を眺めるその瞳の奥は、静かに燃えていた。


―――――――――――――


「行ったみたいだ」


 俺の『気配完知』が、北の国門を出ていく兵士たちの反応を告げる。


「……よかった。予定通りだね」


 ホッと胸を撫で下ろすディア。

 遠征日が今日であるとは聞いていたが、こうして自分たちでしっかりとその様子を確認出来たことで安堵したのだろう。

 かく言う俺もディアと同じ気持ちだった。

 聞くのと見るとでは全く違う。もし遠征がブラフ――ハッタリだったらと思うと、気が気ではなかったからだ。


「主よ、遠征が決行されたということは、今晩仕掛けるのだな?」


「日付では明日になるけど、そのつもりだよ。宿に戻ったら、夜に備えて寝ておいた方がいいかもしれないね」


「私としては、睡眠よりも腹ごしらえが必要だと思うが?」


 睡眠欲よりも食欲を優先するあたり、フラムらしいと言えばフラムらしい。

 いつも通りのフラムの姿を見て、高まりつつあった緊張が解れていく。


「とりあえず、朝食でも食べに行こうか」


「うん」「うむっ!」


 フラムの要望に応え、景気づけにちょっとお高い朝食をとった後、俺たちは宿に戻って夜に備えたのであった。




 日付が変わる五分前に、俺たち『紅』は『比翼連理』が泊まっている宿に到着した。

 待ち合わせしていた時刻は午後十一時五十五分ジャスト。十二時ちょうどという時間を何故かエルミールが嫌ったために、この時間に待ち合わせることになっていた。


「時間をちゃんと守れる人は好きよ」


 宿に入るなり、ウインクをしたエルミールからそんな冗談が飛んで来る。

 緊張を紛らわすための冗談なのだろうが、どこかエルミールらしくないように感じる。もしかしたらこの中にいる人の中で一番緊張しているのはエルミールなのかもしれない。


「別にお前に好かれても、なにも嬉しくはないのだが……」


 フラムもエルミールの雰囲気の違いに気付いたからなのだろうか。エルミールの冗談に対し、喧嘩にならない程度の軽いツッコミ?を入れていた。


「まずは飲み物でも……と言いたいところだけれど、今はやめておきましょう。悠長にしている暇はないもの。それに、もうすぐレーガー枢機卿も到着なさるはずだし」


 レーガー枢機卿を全員で出迎えるためだけに、わざわざ日付が変わる五分前に待ち合わせ時刻を設定してきたのか、と察する。


「噂をすれば……じゃないけど、到着したみたいだ」


 俺の『気配完知』にレーガー枢機卿の反応が引っ掛かる。

 レーガー枢機卿のすぐ近くに人の反応がないことから、どうやら護衛も連れずに一人で歩いてきたようだ。少し不用心が過ぎる気がしないでもないが、俺が口を出すことではないだろう。


 入り口の扉が開かれ、フードを深く被ったレーガー枢機卿が神妙な面持ちをしながら、中へと入ってきた。


「すまない、待たせてしまったようだ」


「いえ、時間ぴったりですわよ。それより顔色が優れないご様子。どうかされたのですか……?」


 レーガー枢機卿の顔を覗き見たエルミールは、恐る恐るといった声音でそう尋ねた。


「いきなりこんなことを言うのは申し訳ないが、良くない話を持ってきた」


「良くない話、ですか?」


「ああ。もしかしたら知っているかもしれないが、シュタルク帝国の兵が教会に滞在している。確信はない……だがおそらく、ライマン枢機卿の差し金だと私はみている」


 その話を聞き、『やっぱりか』という思いと『仕方がないか』という思いが頭の中に浮かんできていた。

 あの豪奢な馬車の上に掲げられた旗を見てからというもの、ある程度の覚悟はしていた。その甲斐もあってか、然程動揺はない。

 そしてそれは『比翼連理』の二人も同じようだ。


「その事でしたら、存じ上げてましたわ。油断は出来ませんが、心配はいりません。コースケたちはどうかしら?」


「俺たちも知ってたし、そんなに問題はないと思って……ん?」


 返事をしている最中に、ふと俺はあるモノに気付く。


「ふむ。どうやら主も気付いたようだな。――曲者の存在に」


 そう。フラムの言葉通り、俺の『気配完知』は不自然な場所にいる人の反応――俺たちを監視しているであろう曲者の反応を捕捉したのだった。

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