第185話 南の戦いの終結
「たった二人だけ、だと? 使者か何かか……?」
シプリアン・ギグー男爵が率いる兵は約二千。
二千の軍勢に対して、たったの二人だけで攻め込んで来るなど、常識的に考えられない。
例え、近づいて来る二人が凄腕のSランク冒険者であっても無謀だと言える戦力差があるのだ。シプリアンが使者だと考えてしまうのも無理のない話であった。
シプリアンは二つのシルエットを自身で視認するため、猛烈に吹雪く中で目を細める。それは他の兵士たちも同様であった。
徐々にシルエットの輪郭がはっきりとしていき、謎に包まれた二人の装いから騎士の類いではないことが判明し、兵士たちの警戒心は緩められていくかと思いきや、むしろ警戒心は高められていく。
理由は二人の格好にある。
シルエットの正体は男女の二人組だった。
それだけであれば、殊更警戒心を高めることはなかっただろう。
女性の方は真夏だとしても露出の高い薄手の格好をしており、氷点下にもなる気温の中で出歩けるような服装ではないにもかかわらず、平然とした様子で歩いていた。
男性の方も戦場に似つかわしくない執事服を着用していたため、シプリアンを含むその姿を目にした兵士たちは警戒心を引き上げたのだ。
そして何より、最も警戒すべくは両名ともに顔を仮面で隠していた点である。
仮面を着けている時点で、自らを不審人物だと相手に告げているようなもの。そんな怪しげな姿を見て、警戒しない者などどの世界にも居ようはずがない。
そしてついに仮面を着けた男女が声の届く距離まで接近する。
「そ、そこで止まれ! 貴様らは一体何者だ!」
軍団の最前列にいた歩兵部隊の隊長が仮面を着けた男女の二人に若干上ずった声で制止を呼び掛けた。
その呼び掛けに呼応し、周囲にいた兵士たちはそれぞれ武器を構え、戦闘に備える。しかし、寒さのあまり身体が冷えきっていたこともあってか、武器を構えるその動きはぎこちないものとなってしまう。
「ふむ。どうやら相当寒さに参っているみたいだぞ? これならわざわざ私たちが出向く必要はなかったかもしれないな。イグニ――コホンッ。イ、イグナールはどう思う?」
「ラム様の仰る通りかと。この場にいる人間程度であれば、無理をして攻めた挙げ句に凍死するか、尻尾を巻いて逃げることしか出来ないでしょう」
ラムとイグナールこと、フラムとイグニスの二人には緊張した様子はない。二千の兵士を前にしたにもかかわらず、堂々としながら余裕を持った態度を見せる。さらには兵士の制止の言葉さえ無視し、その歩みを止めることはなかった。
ちなみにイグナールという仮称はフラムが咄嗟に捻り出した名である。
「止まれと言っている! 死にたいのか!」
一向に歩みを止めようとしない二人に対し、歩兵部隊の隊長は焦りを滲ませた声色で声を張り上げる。だが、それでも二人が止まることはない。
ついには、シプリアンの軍勢と二人の距離は十メートルを残すのみとなる。
それほどまでの近距離となり、歩兵部隊の隊長はある異常に気づく。
そのことに気づいたのは全くの偶然。仮面の二人組の一挙一動を見逃さんと注視していたおかげであるとも言えよう。
ある異常――それは、ここにいる誰もが猛吹雪に曝され、頭や肩に雪を被ってしまっている中、二人の身体には一切雪が付着していないことだ。
一見、どうでも良いことのように思えるが、そうではない。
多少なりとも、そこから読み取れる情報があるからだ。
仮に、寒さに耐性を持っているだけであるなら、雪は身体や衣服に付着するため、二人がただ単純に耐性を持っているだけではないことがわかる。
では何故、二人の身体には雪が付着していないのか。
その答えは簡単だ。
耐性とはまた違うスキルを使用しているからに他ならない。
そのことに歩兵隊長は気づいたのである。
(雪が二人の身体に触れた途端に蒸発……しているのか? これは火系統魔法の応用……? いや、そのような真似が出来るなんて聞いたことがない)
歩兵隊長の持っている知識だけでは、そのからくりを知る術はなかった。だからこそ、二人が只者ではないと警戒し、意識を切り替える。
「決して警戒を怠るな! こいつらは只者ではないぞ!」
目の前の二人組を警戒するあまり、歩兵隊長は寒さを忘れ、一心不乱に剣の柄を強く握りしめる。
あかぎれによってひび割れを起こし、強く握りしめた手のひらからはポタポタと血が溢れるが、気にしている余裕は歩兵隊長にはない。
歩兵隊長の指示の声に返答したのは部下たちではなく、仮面の女――フラムだった。
「警戒するのは勝手だが、貴様ら程度の実力では無意味だぞ? 悪いことは言わない。無駄に命を散らしたくなければ、道を開けろ」
「ば、馬鹿を言うな! こちらは二千の兵がいるんだぞ! 二人だけで何が出来ると言うんだ!」
歩兵隊長は軍を、兵を鼓舞するために虚勢を張る。
本能的に目の前にいる二人には勝てないと思いながらも、だ。
矢面に立たされる損な役回りではあるが、歩兵隊を任されているという矜持だけが歩兵隊長を突き動かしていた。
だが、その虚勢も矜持も一瞬で砕かれることになる。
「ラム様、いかが致しましょう? 面倒であれば、私めが全て処理させていただきますが」
イグニスの提案にフラムは顎に手を当て、悩む仕草を見せる。
「……うーむ。殺し過ぎても主が良く思わないだろうし、やめておこう。どうせ私たちに傷を負わせられる者なんていないだろうしな。取り敢えずは死なない程度に
フラムはそう口にすると共に、十メートルの距離を一息で詰め、軍の最前列で剣を構えていた歩兵隊長の首を掴み取り、持ち上げた。
「――かはッ! は……なせッ……」
常人では有り得ない握力で首を掴まれた歩兵隊長は足をばたつかせ、僅かばかりの抵抗を見せる。だが、その程度の抵抗でフラムから逃れることは叶うはずもない。
周囲にいた兵士たちは咄嗟の出来事で動くことが出来ず、ただ呆然とその光景を見つめるだけとなってしまう。
そして、歩兵隊長はさながら野球ボールを投げるかのように軽々とフラムによって投げ飛ばされる。
「あああああーッ!!」
投げ飛ばされた恐怖で歩兵隊長は叫び声を上げながら、高々と宙を舞い、数百メートル先の雪が降り積もった場所に落下した。
雪が緩衝材の代わりとなったおかげで死ぬことはなかったが、落下した衝撃で意識は途絶え、ピクリとも動かなくなる。
「ふむ。こんな感じでいいだろう。イグ……ニール? ん? あ、そうそう。イグナールも私を習い、なるべく殺さないようにな」
自分がつけた仮称だと言うのに、フラムはイグニスの呼び名を一度間違えてしまうが、反省する様子も気にする様子もなく、満足げな声音でイグニスにそう教授する。
そして、そんなフラムに対してイグニスが注意をすることはない。イグニスは己の王であるフラムにかなり甘いのだ。
「流石はラム様でございます。では、私めもその通りに致しましょう」
それからのシプリアン軍の状況は目も当てられないほど、悲惨なものとなった。
フラムとイグニスが掴んでは投げ、掴んでは投げを繰り返し、次々と兵士たちは宙を舞っていく。
無論、シプリアン軍の兵士たちも無抵抗でいるはずもない。
剣を、槍を、魔法を、と様々な攻撃を放ち、フラムとイグニスを倒そうと試みたが、何一つとして傷を与えることが出来なかったのだ。
剣や槍などの武器は二人の身体に触れた途端に溶けたり、折れたりとまるで意味をなさない。
それなら魔法では、といえば、火系統魔法は勿論のこと、風系統も水系統も土系統も扱う者の程度が低すぎるが故に、二人は対処する必要性を感じず、無抵抗のまま受け止め、兵たちを驚愕させていったのだった。
そして、二人が数百人を投げ飛ばしたところで、一人の兵士が泣き言を叫び始める。
「――もう嫌だ! 剣も魔法も何も効かない奴らに勝てるわけがねぇ! 俺はこの戦いから降りさせてもらう!」
その兵士は武器を投げ捨て、南へと走り去っていってしまう。
通常、敵前逃亡ともなれば何らかの処罰は免れない。
逃げる者は追われ、捕らえられてしまうのがオチだろう。
しかし、その兵士を止めようとする者は、指揮官であるシプリアンを除くと誰一人として現れなかった。
それどころか、後に続けとばかりに続々と兵士たちは武器を捨て南へと逃げ込んでいく始末。
そんな状況に陥った原因はフラムとイグニスの圧倒的な強さを目の当たりにしたからに他ならない。
『勝てるわけがない』――そう兵士たちに思わせた時点で、南の戦場は指揮官の首を取る前に決着がついてしまったのだ。
もし仮に、指揮官がシプリアンではなく、ジェレミー・マルク公爵やパスカル・バランド辺境伯であったのなら、状況は違ったものになったかもしれない。
しかし、現在指揮を取っているのは兵士たちからの信頼を、信用を勝ち取れていないシプリアンなのだ。
シプリアンのために命を投げ捨てる覚悟を持つ者はこの場にはいなかったが故に、勝てる見込みのない強敵を前にした兵士たちの戦意は失われ、敵前逃亡に繋がったのである。
「私は……私は何を間違えたというのだ……。どうしてこんなことに……」
シプリアンは敵前逃亡をしていく兵士たちをぼんやりと眺めながら、ポツリとそう溢す。
既にシプリアンが率いる軍は崩壊していた。
ざっと兵の数を数えてみても三百人いるかどうか。とはいっても、その三百人に戦う意思は残されている様子は一切ない。
そんな絶望的な状況のシプリアンに追い討ちを掛けるように死神が訪れる。
「貴様が指揮官か?」
「……」
シプリアンには仮面を着けた女性の問いかけに答える気力は残されていなかった。
「……ん? こいつは寒さで頭がおかしくなったのか?」
「いえ、ラム様。元々頭がおかしかったのではないかと私めは愚考致します。賢き者であれば、ラム様に歯向かおうなどとは考えるはずがありませんので」
好き放題馬鹿にしたような発言をされているが、シプリアンはそれでも反論しようともせずに黙ったまま茫然自失していた。
「どうやら殺す価値もなさそうだな。イグナール、こいつを捕らえて連れていくぞ」
「かしこまりました、ラム様」
幸か不幸か、シプリアンは茫然自失していたおかげで、この場で殺されることなく、捕らえらることになった。
こうして、南の戦場は怪我人こそ多数出たものの、死亡者数0で終わりを迎えたのであった。
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