第52話 三人目のあや乃
二人とは違って、あや乃は常識を知っているし、それこそ今までの生活の延長でしかなく、馴染むのに時間はかからなかった。
むしろ、本人としては拍子抜けだ。
自宅の環境が少し変わっただけで、あとはほぼ同じ。親の仕事の手伝いがなくなったぶん、自分がしたいことをするだけ。
その上、自宅でやることも、ほとんどなかった。
料理や掃除はゼーレが率先して片付けるし、暇がある時は美里もそれを手伝う。それこそ、心配になって、手伝おうかと口にするくらい、家事は全て任せっきりだ。
それはそれで、役立たずみたいだと思っていたのを悟られたのか、ゼーレが一言。
「なら、ネミエラの勉強を見てやってくれ」
「ええねんけど……」
どのくらいのレベルかもわからないし、そもそも本人がどう言うか。プライドが邪魔をするなら、自分でやると言うだろうし――と、思っていたら。
「マジで!? ちょっと待ってろ、今すぐ教材を持ってくっから」
四日目になるが、あれからのネミエラはそう態度が変わらなかった。元の性格が、遠慮をするようなものじゃないのだろう。それはそれで、あや乃も遠慮しないで済むので楽だ。
教材を持ってきたネミエラの勉強は、おおよそ中等部の中盤くらいのものだった。
「よく卒業できたなあ……」
「おう、俺もそう思う」
「思ったらあかんやろ。したらまずは、ネミエラ」
「……なんで俺だけ名前で呼ぶんだ?」
「ええやろ、年齢も変わらへんし」
「妹なのに!」
「それはそれでええから。あと、妹に勉強教わる兄ってどうなん?」
「どうって、何が?」
「ああもうええわ」
本当に気にしないんだなあと、苦笑する。
「リビングでええの?」
「部屋だと二人になるだろ、さすがにまだ、その状況だと吐きそうだ」
「その感覚も、ようわからへんねん」
「なんつーか、やっぱ違うんだよな」
「人なんて、大なり小なり、違うやろ」
「程度の差ってのがあるだろ……兄貴ほどじゃないにせよ、俺だって殺したことはあるし、屍体だって見慣れてる。常時じゃないにせよ、ふいに、そんな汚れた手で触るもんじゃねえって思うんだよ」
「触ってもええやん」
「んー、行為そのものっつーより、そう思うことが
会話をしながらも、要点を抜き取って書き込みをしながら、間に質問が挟まれる。聞いていれば、理解力はあるし、物覚えも悪くない。
「……なんで勉強嫌いなん?」
「あ?」
「ようできてるやん」
「この段階はな。物事には順序があるだろ? 俺、そういう順序は知ってるんだよ。けど今の授業は、もっと先じゃねえか。それを椅子に座ったまま聞かされりゃ、嫌になるぜ。間違いなく、こういう仕事はしたくねえ……」
「そんな心配はいらんやろ。そもそも、授業と同じペースで進めば、追いつけんのは当然や」
「家だとやる気にならねえ」
「言い訳やん」
「トレーニング器具が増える理由になるだろ」
「そんなに鍛えとるようには見えへんなあ」
「そりゃ誉め言葉だ。筋肉もつけすぎると重くなる。最低限、最小限、それでいて最大効率、まあ理想だけどな。兄貴みたいな特化型でもねえし」
「殺し屋言うとったけど、それも特化型なん? ああでも、お兄は確か、殺すためだけで身を守るなんてのは知らん言うとったっけ」
「躰の方もそうらしいぜ。まあ、兄貴の場合は薬による身体増幅がメインだったらしいけど」
「そんなん、物語の中でしか知らんかったわ……」
「だろうな。その方がいいだろうと、思えるくらいにはなった。実際こっちに来てからは、気が楽だ」
「スラムで生活しとったんやて?」
「まあな。実際には、麻薬売買をメインに据えた組織の一部として、だ」
「南米やろ」
「知ってるのか?」
「情報だけや」
「ふうん? まあ実際にそうだし、俺ら末端は最初から都合の良い尻尾みたいなもんだ。上からきた命令を、それこそはした金でやるだけ。代わりに刑務所へ入ったり、犯罪の肩代わりでしこたま殴られたり……」
「――断れへんのやな?」
「殺されるよりはマシだ。それでも最初の頃は、五人で一緒に行動してて、それなりに上手くやってはいたんだよ――けど、そのうちの一人が裏切って、三人が殺された。残った俺らは捕まって」
一息、詰まらなそうに手元から少し、窓側へ視線を投げて。
「生かしてやるから殺せと、そう言われて俺が殺した。そのあと、裏切った野郎は上に殺されたよ。一度でも裏切りを働いたやつは、次も簡単に裏切るってな」
「……、理解はできへん」
「ん?」
「わかった気にもならん言うとんねん」
「なんでお前が不機嫌になってんだよ? あや乃にゃ関係ねえだろ、俺だって昔の話だ」
「ええねん、わからんから気に入らん、そう思っとき」
「いいけどな……」
「その流れで、どうやっておとんに拾われたん?」
「組織の壊滅が親父の仕事だったんだと。実際にはもっと細かくて、いくつかの資料と情報の流れなんかが重要で、壊滅はついでとか言ってたな。実際、一つ潰したって、その勢力を飲み込んでほかの組織が強くなるだけだし」
「おとん、ランクBとか言ってたやん。そんくらいできるんとちゃうん?」
「親父への理解度はまだ低いな、ははは。姉貴に言わせりゃ、親父を当たり前の
「狩人のことやろ? まあ、当たり前のことと、実際に見たこともあるねんけど」
「ランクBまで一直線――で、わかるか?」
「――はあ!?」
「あ、やっぱわかるんだな。俺は説明してもらったけど」
「年二回の昇級試験を毎年突破してん!?」
「おう」
「あほやろ! どんな狩人でも年一度がせいぜいや!」
「親父の同期は、だいたい似たようなもんらしいぞ。親父なんか四つくらい仕事を抱えてても、普段の生活とそう変わらんとか言ってた――これは兄貴に聞いたんだけどな。つーか、親父と直通で連絡取れるの、兄貴だけだし」
「そもそもランクCからランクBになるのに三年はかかる言われてんねん……」
「らしいな」
「いやに若作り思うとったけど、ほんまに若いんか」
「兄貴とそう変わらねえらしい」
「おかしいやろ……」
そこで言葉が途切れ、しばらくは勉強へ。あや乃も予習復習くらいしておこうと、教材を持ってきてやっていたのだが。
「あー運動してえー」
「おい、まだ三十分しか経ってへんやろ」
「……つまりノルマ終了?」
「二時間くらい我慢せえ!」
「えー? 我慢してる時点で勉強できなくね?」
「そりゃあかんやろ……あ」
「ん?」
扉の開く音に顔を向ければ、自室から
「あ、勉強?」
「もう終わったとこ」
「終わってへんやろ……」
「んー、えらいえらい」
ひょいと、隣に座られて頭を撫でられた。ああこのパターンかと思えば、しかし。
「あー、あや乃も手伝ってた? いいこいいこ」
「え? なん……ちょ、お姉? どないしてん?」
「んー可愛い! やっぱ妹可愛い!」
「ちょっ! なんで抱き着くねん!」
助かった。どうやら面倒は妹が引き受けてくれるらしい。
「ネミエラ! 助けたってや!」
「おう。――兄貴! 兄貴ー!」
自分ではどうでもできないと知っているネミエラは、すぐにゼーレを呼んだ。
「おう」
「兄貴、また姉貴が寝てないぞ? これ、どうせ三日目くらいだろ?」
「ああ……美里」
「だいじょぶ、だいじょぶ、なんか黄色いけど、蛍光灯変えたっけ?」
「美里、いいから寝ろ」
「いや!」
「うちを掴まんといてや」
「や!」
「風呂はもう沸かしてあるから、あや乃と一緒に入って来い」
「あーそれならいいかもー」
「姉貴は頼んだぞ、あや乃」
「しゃーないなあ……ほら、行くよお姉」
「んー」
二人が揃って風呂場へ行くのを見送り、
「――姉貴が徹夜ってことは、俺らのことだろ」
「ああ、あや乃がメインだ。死んだことになってるが、実際に探りを入れられれば発見される。電子上に残された写真の映像改変と、発見された場合にトラブルが発生しないようにする事前対処。簡単に言えば、あや乃の両親がやっていた問題を、きちんと終わらせる作業だ」
「なるほどな」
「あや乃には言うなよ?」
「わかってるさ。本当なら俺も、何か手伝えれば良かったんだけど……」
「それは俺も同じだ。ただ親父は、できることしか残さない。心配することはねえよ」
「ほんと、親父はすげえな」
「憧れるか?」
「いや、そりゃどうだろうな。強けりゃそれでいいってわけじゃない」
「へえ……成長したな」
「視野が狭かったのは事実だ。つーか、親父レベルだと、肉体も精神も保てねえよ……」
「だろうな。ただ……まあ、こいつは親父の台詞だが、俺からお前にも言っておく。いいか、恩を感じる必要はない。――俺たちは家族だ」
「……おう」
今なら、それを素直に受け入れられる。
自分たちは家族だから。
信用や信頼なんて、そもそも考える必要がない。――当たり前なのだ。
恩もない。
現実に、ありがとうとその場で応えれば良いだけで、それで終わりだ。
「お前は珈琲でいいか?」
「あや乃と同じのでいいよ。もう二十二時か……」
そもそも娯楽のあるリビングではない。テレビはあるが、ほとんど使われていないし、落ち着きがないと言われているネミエラも、何もしない時間は好きだ。
「お前から見て、あや乃はどうだ?」
「生活自体に馴染む必要がねえってのは、利点だな。そんなに遠慮してる感じもない。俺としては戸惑うこともあったけど、まあ、日本人ってのはこういう感じなんだろ」
「恵まれてる、そう思うか?」
「いや、比較したことはないな。そもそも、親父に拾われた俺だって、充分に恵まれてる」
「そうだな」
珈琲がカウンターに置かれたので立ち上がれば、風呂から二人が出てきた。それほど広い湯船でもなし、二人で入れば狭いだろうし、そう長湯はできなかったようだ。
「美里、ホットミルク」
「ありがとー」
「あや乃は珈琲だ」
「うん、まだ寝るには早い時間やし、ありがとな」
寝かしてくる、と言ったゼーレは、ホットミルクのカップを片手に、あや乃の自室へ行った。
「もうなんなん……? 三日も徹夜とか、なにしてん」
「そりゃ仕事だろ。電子戦の爵位持ちと漫画家は、徹夜慣れしてるって聞くけどな」
「仕事なあ」
「あや乃は商売の関係か?」
「せやな」
「んー……これ俺が言っていいのかどうかわからんが、ちょっと問題あるよな?」
「うちが死んどることやろ。同姓同名である以上、起業なんかはできへんやろ。ただ、せやったら何ができるんかは、まだわからん」
「ちゃんと考えてて偉いなあ」
「ネミエラはどないやねん」
「さあ? 親父の手伝いでもしたいところだが、必要ねえだろうし、あちこち走り回ってた方が俺は気楽でいいな」
「まだ学業優先やろ」
「あや乃。現実を教えるのが正解とは言わないぞ?」
「目ぇ反らしてるだけやん」
「そうとも言う。――さて、躰動かしてから風呂入るって、兄貴に言っておいてくれ」
「わかった」
すれ違う時、軽く頭に触れられた。
軽くだ。
たぶんそれが、今のネミエラにとっての精一杯。
だからあや乃も、文句は言わなかった。
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