僕の選択
いよいよ明日の日の出とともに戻るという日になると、あのときの肩掛けかばんくらいしか持ち帰る荷物などはないのに、部屋の中で忘れ物がないかどうかそわそわしてしまう。
あの私設図書館に行って帰り方を聞いた日、家に戻ると、おばあさんや美夏さんたちに、もとの世界へ戻ると決めたことを伝えた。おばあさんは、ええと思うと言ってくれた。美夏さんは、そうなんやとだけ言った。
せっかくなので、かなたんや圭様や斎藤さんにも挨拶をしてお礼を言った。美夏さんに連れていってもらったのだが、かなたんは
「そうなんやー。寂しなるなー」
と美夏さんを見て言った。ちなみに斎藤さんは玄関から少し顔を出しただけだったが、おばあさんが出てきてくれて、「よかったよかった。身体には気ぃつけるんやで」と言ってくれた。
最後の夜は、美夏さんのおばあさんがご馳走を作ってくれてみんなでご飯を食べた。とてもおいしかった。久しぶりに桃以外のものを食べたので、感動して涙がでそうになった。いや、たくさんの人と一緒に楽しくご飯を食べたからかもしれない。確かにこれは、この世界の住人になってしまいそうだった。卵焼きがあったので、卵焼きおいしいですと言ったら美夏さんが口に卵焼きを突っ込んできた。どうやら美夏さんが作ったらしかった。ちなみに、最後の風呂は、おばあさんたちが一番風呂を譲ってくれようとしたのだが、粘りに粘って交渉し、なんとか最後に入り、ついでにお風呂の水を一口飲んだ。おいしかったので、もう一口飲んだ。
その日の夜明け前、僕は起きると、荷物を持って、一人で鴨川デルタへと向かった。全裸で踊るんだから、ほかの人には見られたくないし、ほかの人も見たくもないだろう。いろんな人が見送りに行くでと言ってくれたが、全裸で踊るので、とさすがに断ってしまった。みんな苦笑いしていて、こちらも苦笑いするしかなかった。
鴨川デルタの先まで行き、そこで準備運動をした。あたりはまだ暗く、川端通りの街灯でそのあたりが明るく見えるくらいである。
5時40分ごろになると、僕は携帯電話を取り出して、ダウンロードしてある曲のリストを見て踊る曲を選ぶ。踊ることのできる曲なんてそんなになくて、中学生のころの文化祭で踊ったことを思い出し、そのアニソンをとりあえず選んだ。踊るのは、日本舞踊とかじゃないとダメとかないよな。今になって心配になってきた。館長にもっとよく確認しておくんだったと後悔した。これで裸で踊ったのに帰れなかったら、なにをやっていたんだというアホらしさを感じるばかりだし、どんな顔をして美夏さんの家に帰っていったらいいか分からない。それはそれで古都大生っぽいが。
すべての服を脱いできれいにたたみ、自分のわきに置く。周りには人がいなかった。暗くても、鴨川にはたいてい誰かがいるものだが。誰も見る人がいなさそうで安心した。そもそも誰かに見られていたら警察に捕まりそうだ。
しかし、全裸とは、すがすがしい気持ちにさせるものだ。僕は、なぜか解放感に満ちあふれ、うおおおと叫んだ。そして曲を小さめの音で再生し、嬉々として踊り始めた。踊っているうちに、誰かに見られているかもなんてことは気にならなくなってきた。
何度も繰り返し踊っていると、東山の方が明るくなり始め、赤の光が差し込んでくる。東山は赤に包まれて神々しく、町全体が赤く染まるようだ。
そのときふと、後ろから声がした。振り向いてみると、あのデルタのベンチのあるところに、パジャマ姿の美夏さんがいた。
「楽しかった。ありがとう」
彼女が口に手をメガホンのようにしてあてて、叫んでいるのが聞こえた。僕もそれに応えるようにして叫ぶ。
「僕も楽しかった。ありがとう」
そう僕が言い終わらないうちに、後ろで地響きのような大地を揺るがすような、重く力強く激しい音がした。と思うと、鴨川の合流するあたりの空中にドアが現れていて、その扉がゆっくり開いていた。そして真っ暗なその扉の中から、全く音を立てずに何かがでてきた。それは、赤く、大きさが僕の身長ほどある大きな手で、その指には長く鋭い爪があって、その手が僕の身体をつかんだと思うと、その真っ暗な扉の中へ僕を引き込んでいった。
そのとき、僕は確かに見たのだった。扉の中にいる大きな鬼の姿を。どこかに書かれていたように、赤い顔で、目はどんぐりのようにぎょろっとし、頭には角が生え、口が耳元まで裂けているというあの鬼の姿を。
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