ある人物の日記

 地下には、一つの部屋があるだけだった。重い鎖のようなカギを外し、中を覗くと、そこは、床や壁が灰色のコンクリートで形作られていて、無機質な感じの部屋だった。本棚も机も質素で、部屋の天井、机、本棚あらゆるところにクモの巣がはられている。そして少し埃っぽい。その時間だけが閉じ込められた感じが、不気味ですらある。

「え~と、どこだったかなぁ~」

 そう言いながら潮見さんは部屋の中に入っていき、机の上に散らかっている本をどけながら何かを探しているようだった。

「これだこれだ」

 そう言って取り出したのは、一冊の古そうな本だった。革のカバーがついているのだと思うが、とじ具もついている。埃をはらいながら、どうぞと手渡され、受け取って中を見ると、紙は黄ばんでいて、しかも、こちらにもところどころに黒い痕がついている。内容はというと、日付けとその下にその日にあった出来事が書いてあって、どうやら本ではなく、日記のようだった。

「これは……」

「それはね。前この世界に来た人が書いてた日記なのです。私もその人に直接会ったことがあるわけじゃないんですけどね。私の父が彼から受け取ったものです。その人はここで、いろいろ調べものをしていたみたいでね。同じような人が来たらぜひこれを読んでもらってほしいと遺されたと聞いています。きっと君にとっても参考になるから、一度読んでみなさい」

「一度持ち帰ってじっくり読んでもいいですか」

「もちろん」

 潮見さんは優しい笑顔のままだった。


 私設図書館の階に上がると、本を読んでいた美夏さんに声をかけて、帰ることにした。潮見さんは受付けのところまで僕たちを送ってくれた。

「2人ともお金はいらないよ。特別だからね」

「ありがとうございます。これも借りてしまって……」

「いいんだよ。じっくり考えなさい」

 僕たちは、頭を下げて、私設図書館を出た。


「すごいええとこ見つけた気ぃするわ。誰も人おらんし、休みなくやってんねんて。ここで勉強とかできそうや。笠井くんは、何をしてたん」

 帰り道、美夏さんが問いかけていた。

「地下に行って、よくわからん部屋にあるこの日記を借りてきた」

「なんなんそれ」

そう言って、美夏さんは日記に手を伸ばそうとしたが、すぐに手を引っ込めた。

「なんか触ったらあかん気ぃするわ」



 家に着くと、部屋に戻ってすぐに日記を読み始めた。ほかの人が書いた日記を勝手に読んでいいのかと思ったけれど、そういえば、書いた本人が読んでくれって言ったんだったか。


9月14日

少しずつこの世界に慣れてきた気がする。ジュンさんのおかげでなんとかやっていけている気がする。それにしてもジュンさんは小さくてかわいい。


9月15日

私設図書館があるというので銀閣付近まで行った。館長は優しそうな人で、事情を話したら地下の部屋を使ってよいと言ってくれた。マコさんのご飯は今日もおいしい。


9月16日

なにも手掛かりがない。どうやったら帰ることができるのだろう。この世界に来てもうすぐ1週間が経つ。


9月17日

図書館で缶詰めしている僕に、ジュンさんがお弁当を持ってきてくれたので一緒に食べた。卵焼きがおいしいと言ったら、彼女が箸でつかんでいた卵焼きを口に突っこまれた。


9月18日

手掛かりになりそうな話を見つけた。古事記で、イザナミが帰れないと言っているあたりのところが参考になりそう。でも、僕はすでにこちらでおいしいご飯をごちそうになってしまっているが。


9月19日

「日本の神話」という本を見つけた。獣化の穢れを浄化するということは、そこの水で洗えば僕も獣化を防ぐことができるということか?


9月20日

何も進展がなかった。それと、今日もジュンさんがお弁当を持ってきてくれた。卵焼きがおいしいと言ったら、また口に卵焼きを突っ込んできた。そういえばジュンさん、学校は?


9月21日

分からない。この世界の人たちは優しいし、僕は人間でほかの人とは違うけど、できるなら、いっそのことこの世界に住んでもいいかも。


9月22日

ようやくオオクニヌシノミコトが傷を洗った場所を見つけた。きっとここだ。こんな仕掛けがあるなんて気づかなかった。オオクニヌシノミコトだからそこなのか。とりあえずそこで身体を洗った。少しひんやりしている。


9月23日

調べものをしていると、大学でレポートを作成していたときのことを思いだす。そういやもうすぐ大学が始まるな。ジュンさんご飯を食べている姿がかわいい。


9月24日

朝食をジュンさんと二人で並んで食べていたら、マコさんは笑ってて、栄さんがむっとした顔をしていた。栄さん、いい人なんだけど、怖い


9月25日

近所で鬼が出たらしい。そんなものいるわけない。それよりも、帰る方法とかが全く分からなくて困る


9月26日

こぶとりじいさんの話を読んだことがあったけど、人間が、混合種?というか、この世界の人みたいになる昔話もあるんだなぁ。鬼が猫耳と猫のしっぽをくっつけて、この世界の人みたいにしたらしい。その話では、逆に、鬼に耳とかをとられてる人もいたが。僕もそんな方法で、この世界の住人になってみる?


9月27日

ジュンさんと一緒に、動物の耳と尾っぽを買いに行った。もちろんジュンさんの分。どうやら若い女性の間では、いま別の動物のやつを頭につけるのが流行ってるらしい。うまいこと耳とかにかぶせて使うんだとか。キツネのものがかわいかったので、とてもよく似合ってるねと言ったら、腕をびしびしたたいてきた。


9月28日

昨日買ったキツネのものをもうつけているらしい。よく似合ってるねと言ったら、卵焼きを口に突っこんできた。


9月29日

帰る方法が分かった。でもこれは……。


9月30日

帰る方法は分かったけれど、どうしようか悩む。方法もそうだけど、この世界もすごく楽しい。それに、ジュンさんがかわいいし


10月1日

今日、鴨川でぼけっとしていたら横にジュンさんが来て、何考えてはんのって聞くから、帰る方法が見つかったんだよ、でもこの世界も楽しいから帰るかどうしようか迷ってるって言ったら、帰ってしまうのって服を少しつかんで上目遣いで聞いてくるもんだから、心に雑念が生じてしまった。


10月2日

僕は、この世界に残ることを決めた。マコさんも栄さんもそれがええと言ってくれた。ジュンさんもうれしそうにしてくれた。


10月3日

若い女性の間で流行っている例のものを買ってみた。これをつけると猫耳と尾っぽがついたことになるだろうか。ジュンさんが選んでくれたので、たぶんいいやつだろう。いろんな人が、自分たちと一緒だと言ってくれた


10月4日

そろそろ自分の家と仕事を探さなければ。いつまでもマコさん栄さんのところにお世話になっているわけにはいかない。


10月5日

このまえ書いたことを撤回したい。昨日の夜、僕も鬼を見た。町を歩いていた。というより、すーっと通っていた感じか? とにかく、夜中にふと目が覚めて、窓の外を見たら見えた。今日の朝、それをジュンさんに話したら、「そんなに怖いんだったら、一緒に寝てあげたのに」と言って笑われた。


10月6日

四六時中猫耳と尾っぽをつけているせいだろうか、たまに身体と一体化したしたように感じるときがある。


10月7日

ある会社で人手が足りないという話を聞いたので、今度その会社で働けないか聞きに行くことになった。


10月8日

夜中にジュンさんが鬼を見たようで、枕を抱えて僕の部屋へ来て、一緒に寝てくれと言ってきた。かわいかったので、一緒に布団に入り、彼女は、僕の顔を見ると、安心したのかぐっすり眠った。今朝、布団をとられて少し寒かった。


10月9日

ふと猫耳や尾っぽをとろうとしたら、とれなくなっていた。訳は分からないけれど、これでこの社会の一員になったような気分だ。


10月10日

今日、会社に行き、そこで働くことが決まった。ジュンさんも喜んでくれてよかった。明日で、ここに来て一か月だけど、長かったような短かったような。


10月11日

もう、今日から働きにいってきた。この社会の一員になっている。


10月12日

今日のお弁当は、ジュンさんが作ってくれていた。朝、その姿を見たときに、その卵焼きおいしそうだねって言ったら、卵焼きを口に突っこまれた。



 日記はこれで終わりのようだった。まだ使われてないページが20数頁ほど残っているが、この後に書かれるであろう内容はだいたいどんなものか予想できる。僕はもうおなか一杯だ。しかし、不意に最後のページを見たとき、僕は、ゾッとした。思わず辺りを見渡し、ひとまず明かりをつけた。そこには、殴り書きで、次のようなことが書かれていた。


 鬼だ。鬼にやられた。僕と同じような人がいるならこれだけは伝えたい。どの世界にも鬼はいる。見えていないだけだ。あるいは理解できていないだけだ。僕はその鬼を乗り越えられなかった。飲み込まれてしまった。でも倒す方法はきっとある。僕はこの選択を悔やんではないが、あなたには乗り越えてほしい


 このページについている黒い指紋はきっと彼のものだろう。じゃあ、この黒は? インクをこぼしたとかではないような。彼は、この日記でいったい何を伝えたかったのだろうか。僕は、いったいどうするべきなのか。鬼とはいったい何なのか。何もかもが分からなくなった僕は、あの癒しの風呂に入り、それでも癒されぬ不安を抱えたまま布団に入った。

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