天狗のじいさん

 次の日、朝起きてお尻のあたりに違和感を覚えたので触ってみると、昨日の朝のように巻尾がついていた。頭に手をやると、耳もついていた。昨日まであの湧き水で洗った桃しか食べていないし、その水しか飲んでいない。どうしてこうなってしまったのか。同じ空気を吸っているから? 体内に取り入れるという意味では同じだが……。しかし、こちらの人たちと同じようになっていくことに、あまり絶望感はなかった。前の人もこの世界の人たちに認められたようだし、僕にも美夏さんたちがいて仲良くしてもらっていて、一人ではないのだ。大きく息を吐くと、布団から出て、桃を食べに、あの湧き水のところへ向かった。家を出るときには、僕から耳としっぽは消えていた。

 家に戻ってくると、すでに起きて仲良く朝ごはんを食べていた美夏さんと秋ちゃんがこちらに気づいた。

「おかえ……んん? 」

 美夏さんは僕の方へパタパタと駆け寄ってくると、僕の頭の上をじっと見つめていた。下から見上げられると、やはりかわいいというか、僕の目をじっと見つめているようにも見えるのですこしドキドキする。頭を見ると、その次に僕の後ろを見ようとした。そして後ろに回ると、おそるおそる手を出して僕についているしっぽをそっと触り始めたのだった。

「触ってもええ?」

 もう触ってますがなと思いながらうんと一つうなずくと、片手ですりすりとしっぽを撫で始めた。自分のとは違って、人のものは触りたくなるのだろうか。それにしても、この感覚はいったい何なのだろう。肌を直接触れられなでられているのとは違う。ピタッと肌がくっついたときのような興奮がない。くすぐったいようで気持ちいいようなこの感じ。頭をなでられたときのようなものだろうか。いや違う。あれは上からぽんぽんされるという状態もあいまって幸せな気持ちになるのだろう。自分の下で、しかもよりによってお尻の近くで撫でられるという奇妙な体験。これは今後味わうことのできそうにない、言葉にすることのできないとても革新的な体験だった。これはぜひとも言語化できるようにならなければならない。きっとこの世界にはこの気持ちを表すことばがあるのだろう。

 秋ちゃんが向こうでこちらをじっと見ているのが見えて、途端に恥ずかしくなった。

「お姉ちゃん、なにしとん」

 そう言いながらこちらへ来ると、もうすでに美夏さんが何をしていたのか分かっていたかのように後ろに回り、しゃがんでこちらをじっと見つめてきた。しっぽを左右に振っている。

「よろしければ、どうぞ……」

 僕がそういうと秋ちゃんは、ぱっと顔を明るくしてうれしそうにしっぽを撫で始めた。姉妹に自分のしっぽを撫でられるというのは、いったいどういうことなのか。これを表すことばもこの世界にはあるはずだが、しかし、そんなことはどうでもよくなった。

 次第に、秋ちゃんがしっぽに関して独占し始めると、美夏さんは、僕の横に立って、手でしゃがめと合図をしてきた。犬じゃないんだからなと思いながらも、後ろにいる秋ちゃんに気を使いつつ、慎重にしゃがむと、美夏さんは僕の頭の上にある耳を触り始めた。下と上からくる、くすぐったさと気持ちよさに僕は、顔がにやけ、恥ずかしく、とても苦しい思いをし、こんなところを真紀さんに見られでもしたら、今すぐにでもあの地下に行ってお祭り騒ぎが始まるまで入り口を閉ざしてしまおうと決意したのだった。

 その決意はあっけなく崩壊した。髪を1つにまとめ、肩の前に垂らした真紀さんが2階から階段を下りてきて、僕をみて一言「あら、かわええやん」と、うふと笑って去っていったのだった。その瞬間、僕の脳はとろけてしまい、へたへたとその場に座り込み、手で顔を覆って廊下に倒れこんだ。


 この日は、天狗のじいさんのいる私設図書館に行く予定だった。今日は、特に美夏さんの友人のお宅に行くわけではないので、一人で行こうかと思っていたが、私も行ってみたいとの強い希望があり、2人で行くことになった。

 鴨川デルタまで南下し、東に進んで、百万遍まで出ると、あとは今出川通りを東に進んでいけばよい。緩やかな坂が長く続いており、歩くのも少々つらい。白川通りにでると、あるパインジュースの店があって、妙に飲みたくなったが、我慢しなければならないと思い、ぐっとこらえた。耳としっぽは、ついているとはいえ、それはいつのまにか発生したり消滅したりしているようで、どっちつかずの状態にあるようだった。

 慈照寺の前にある出店の前を通り抜けていき、左折すると、天狗のじいさんの図書館があった。木造の荘厳な大きな門をくぐると、砂利が敷き詰められ、飛び石が並んでいて、その先に倉庫のような外観をした大きな図書館があった。

 中に入ってみると、受付けには、大学生と思われるきれいな女性が座っていて、ちらっと確認したところ、どうやらスカートの下にタイツを履いているようだった。ここが天国であると確信した瞬間である。脚がすけてみえるのが、色気があって素敵だ。この人と会うために毎日でもこの図書館に通って勉強したい。

 とりあえず来館の手続をすませ、天狗のじいさんと呼ばれている方に会えないかと聞くと、誰だよそいつはと言いたげに顔を一瞬しかめたけれど、何かを理解したのか、それともとりあえずなのか、潮見という館長を呼んでくれた。館長は、倉庫の奥の方から出てきた。

 潮見という館長は、背は僕よりも少し低そうだったけれど、年の割には身体はがっちりしてそうで、それ以上に、威厳があった。優しそうにほほえんではいるけれど、そのオーラに圧倒されてどうしても近づけないような感じがあった。

「きみは?」

「笠井文人と申します」

 いきなり「君は?」と尋ねられて困惑しながらそう答えると、潮見さんは不満そうな顔をした。

「違う。私が聞いているのは、君は何なのかということだ」

「かつてこの世界に来ていた人について、あるいはこの世界から抜け出す方法についてうかがいに来ました」

 何なのかって、さっき名前を答えたのに、その質問こそ一体なんなのか。潮見さんは、もちろん今回の答えにも少し不満そうな顔をしたが、まぁよしとしましょうと言って、よく来たね、こちらへついておいでと僕を案内した。そして、一緒についていこうとする美夏さんを見て、

「あっ、お嬢さんは、申し訳ないけど、そこで本か何かを読んで待っていてね」

 と読書スペースとして机といすが並んでいるところを指して言った。

 図書館には、私設とは思えないほどの量の本が所せましと並んでいて、本棚も3メートルくらいありそうなものがずらっと並んでいて、ところどころに脚立が置いてあり、それを使って本を取るらしかった。僕と館長はその本棚の並ぶ真ん中の空間を進んでいき、「関係者以外立入禁止」と書かれた札のついている柵を越えて、地下へ続く階段を下っていった。

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