音声記録4-5:『夢というのは不思議なもの……』

 夢というのは不思議なものです――現実感も意味もなく、前後の文脈はめちゃくちゃながら、それを奇異とも思わずに、感じる想いだけは生々しい。

 子供の頃はむやみに心楽しい夢や、逆に怪物に追われる悪夢も見ましたが、齢も重なり興味も薄れると、起床後には記憶に残らなくなりました。

 それでも私は、夢が嫌いになったのではありません。科学的には記憶の整理や、脳回路効率化の副産物であるらしいそれを、久々に明晰すぎるほどに見た、その夜。私は夢と気づきながらも、子供のように喜んでいました。

 ――いいえ、子供、ではありません。私は子供でした。いや、子供の存在か……。

 夢の底で、私はやわらかな波に揺蕩たゆたっていました――じんわり暖かい、なめらかな流れに抱かれて。

 意識は半ばとろけていました。周囲の色は見えません。視覚器官は未熟で、しかしその流れの色が青藤色だと、知識としてすでに知っているのを私は思い出しました。

 穏やかな流れのほかに、青く逆巻く速い流れもあります。けれどそちらは冷たくて重く、そういう危険な潮流に賢い母たちはけして近寄ろうとはしませんでした。

 そうです――母親たち。あるいは父親たち。

 彼らは深い、もっと荒れた底流から逃げてきたものたちでした。長い放浪のあと、やっと安住の流れを見つけ、安心して糸網いとあみを吐き出し始めたところでした。

 薄金色の極細の糸は、やがてまとまって太い束になり帯になり――時おり気泡を絡めながら、複雑なレース飾りを編み込んでゆきます。流れの淀みに織りこまれた住居は、真珠光沢の網を広げて、空間には幾本もの輝く支柱が伸びてゆきました。

 壮麗に編み上がった三次元の迷宮は、まるで雪蜘蛛の女王の城館か、冷たい陽炎かげろうさながらの都市。薄いレースの織り旗をあちこちに吹き流しながら、多くの住民が和やかな生活を営みはじめていました。

 ――繭室は、都市のもっとも暖かで流れのゆるむ最奥に保護されていました。その薄金色の内側で、私は透きとおった卵殻を溶かしてこの世に産まれ出たのです。

 誕生と同時に味わったのは芳醇な潮流の匂い。心ときめかせて繭の薄壁を透かし見れば、青藤色の薄暮めいた風景にほんのりした幻想灯がいくつもにじんでいます。

 生まれたてのこの身は骨もなく、皮膚は透きとおって華奢でした。その身体をくすぐるように、心地よい密やかなさざめきが押し寄せてきました。

 私への、私たちへの祝いの呟き――子らの誕生を待ち望んでいた親たちの歓迎の歌。

 幸福感に満ち、私は甘い繭室の壁を食べにかかりました。外へ抜け出ると周囲には、他の繭から生まれた多くの兄弟姉妹たちも無邪気に泳ぎ回っていました。

 そうです。私たちは、望まれて産まれてきたのです。

 青藤色の世界はこのうえなく美しく、心からの親しみに満ちていました……。



 時計のアラーム。けたたましい音に、私は全身びくつかせました。

 目玉に突き刺さる自動照明の明るさは、暴力的なほど。呻きながら硬いベッドに起き上がると、まず視界に入ったのは無骨な室内壁です。配線剥き出しで装飾もなく、暗色の鋼でできた面白みのない建築……。

 数秒間、私は己に眼球が二つあるという事実の認識に手間取りました。奇妙な混乱があり――手足の形、肺呼吸についてのひどい違和感も。その瞬間、人間ヒトとして当然の形や運動が、なぜか不快に感じられたのです。

 ぎくしゃく起床し、私は頭を振って意識をはっきりさせました。かすかな頭痛を名残にやがて感覚は戻りましたが、かわりに夢の多幸感も薄らいでしまいました。

 ひとつだけ、もっとも胸に沁みた感情を別にしては――それは、深い安堵感とでもいうべきもの。

 放浪と孤独を身上とする輸送船団出身の私が、ついぞ抱いたことのない不思議な心強さでした。自分よりも偉大なもの、はるかに長命で誇らしいものに属しているという、肯定感とでもいうのか……。

 夢が恐ろしいものであったなら、私も警戒できたでしょう。けれどその日を皮切りに始まった変化のほとんどは、些細か好ましいものだったのです。

「やあ、今日はずいぶんと楽しげだったねえ」

 そう仲間に肩を叩かれたのは、夢から数日のお喋り会後のことでした。

 最初の夢見のあと、私はいつもの談話会の最中、妙に気分が安まるのを感じていました。この日はとうとう我慢しきれず、話に積極的に加わっていました。

 それまでの自分といえば、相槌や返答はするものの、内心無関心なのがほの見えた態度だったはず。けれど私の変化にも同僚はからかいもせず、より親しみを持って接してくれるようになりました。

 他には、基地環境に妙に気を遣うようにもなりました。廊下に塵が落ちていれば拾い、汚れていれば掃除する。生来、私は宇宙生活者として、設備の不調や老朽化には人一倍神経質です。しかしこの胸に突如根ざした意識は、危機管理というよりも、生活の場を大切にしたいという愛着に似た気分でした。

 一方、その反動のように薄れていったのが仕事への気力でした。

 私は職にこだわりがなく、野心家でもありません。ただプロとしての責任感はあり、仕事は必要充分にこなすタイプでした。ところがあの夢以降、私は業務中に、正体不明の嫌悪感や抵抗感に悩まされるようになりました。

 なんとなく起床がおっくうになる。作業場へ向かう足が進まない。計器を確かめる頻度が落ちて、点検がおざなりになる……。特に気分の落ち込みが酷いのは、整備完了した収集機を再度ガス採取へ送り出すときでした。

 なにか取り返しのつかない罪でも犯しているような焦燥。明日にも大惨事が起こりそうな、漠然とした馬鹿馬鹿しい不安。

 いくら理性的に考えても原因のない感情は、日に日に浸漬しんせきするようでした。ただその重さは、勤務後の仲間たちとの会話でいくらか和らげることができました。

 それから、あの夢も――安心と幸福を約束してくれるあの奇妙な夢も、見るたび私の動揺を癒やしてくれたのです。

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