三章 3
「さ……寒い……なぁ、おれ……寒いんだけど。どうなってる? は……はすいけ、おれ残して逃げる……ヒドイよ。ここ、スウスウするんだけど……どうなってる、かな?」
拓也は片手を胸にあてる。
その手の下から赤黒い液体が、ドロッと流れ落ちてきた。
と同時に、拓也の顔が溶けだした。
ドロッ。ドロッ。ドロロ……。
全身に硫酸をあびたように皮膚がはがれ、肉が溶ける。
火のついたロウソクのように頭のてっぺんから溶けくずれ、血まみれの骨がバラバラとくずれる。
やがて、原形をとどめなくなり消えた。
蒼嵐はもうガマンできなかった。ろうかの片すみにひざをつき、嘔吐の衝動に身をゆだねる。
そのあいだ、吐きはしなかったが、往人は放心していたようだ。
しばらくしてから、往人が蒼嵐の肩をたたいた。
「大丈夫か?」
「う、うん。なんとか……」
そのときには、どこにも拓也の存在していた証しはなくなっていた。わずかに血なまぐさいような匂いがするだけだ。蒼嵐の吐いた胃液のすっぱい匂いとまざって気分が悪くなる。
「ちょっと、保健室、帰ろう」と、往人が言った。
蒼嵐はただ、往人についていった。
一階の保健室へ帰ると、往人はそこにある流し台の蛇口をひねった。奇跡的に水が流れた。蛇口の流れ水を飲んだあと、蒼嵐に場所をゆずる。蒼嵐は口をゆすいで胃液を洗い流した。
「よかった。飲み水があれば、なんとかなるよ」
こんなときに飲み水のことを考えるなんて、往人はしっかりしてるなと蒼嵐は思った。蒼嵐はさっき見た異様な拓也の姿が脳裏から離れない。
「さっきの……なんだったと思う?」
蒼嵐がたずねても、往人はすぐには答えない。
「な? おれの言ったとおりだろ? 若奈は溶けなかったけど……あれ? ゾンビかな?」
いや、若奈のときは死体が動いたから、単純にゾンビだと思った。でも、拓也のアレは、何か違う。ゾンビより、もっと、おぞましいものに思えた。
往人はベッドの一つにすわり、考えこむ。
「そら、ゾンビって何か知ってる?」
「え? 動く死人だろ? ゾンビウィルスとかでさ、細胞が活性化して生きてるときみたいに動くんだ。で、かみつかれると、ウィルスに感染して、その人もゾンビになる」
往人はかわいた声で笑う。
「それ、映画やゲームの作ったゾンビ像だよ。もともとはブードゥー教の呪術で奴隷にされた死体のこと。呪術師が腐る前の死体を墓からほりおこして名前を呼ぶと、その死体は呪術師の言いなりに働く奴隷になるんだってさ」
「働く? 襲ってくるんじゃないの?」
「襲ってくるとしたら、呪術師がそうさせてるんだ」
「じゃあ、若奈や拓也の死体をあやつった呪術師がいるってこと?」
「そうは言ってない。おまえがゾンビ、ゾンビって言うから、ちょっと思いだしただけ。でも、さっきのはゾンビっていうより、怨霊なんじゃないの?」
「……」
怨霊……イヤな響きだ。
「春木さんはおれたちが悪霊になるって言ってたけど」
往人は、さらに思案深い顔つきになる。
「たぶん、なんか、そのへんが、おれたちが殺されることと関係してるんだ。親父たちがいっせいに変になって、わけもなく殺してるんじゃないんだとしたらさ」
「柊木さんや拓也くんのお父さんたちは、ほんとは自分の子どもを殺したくはなかったみたいだよ。往人んとこのおばさんも、泣いてたんだよね?」
「そうだな」
大人が蒼嵐たちを殺さなければならない理由とは、いったい、なんだろう?
「それ、つきとめないと、解決しないんじゃないの?」
「そうだな。理由がわかれば、解決法が見つかるかも」と言いつつ、往人は気乗りしない表情だ。
「とにかく、いったん町から出よう。マスコミにたのんで調べてもらったほうがいいよ。おれたちは見つかれば、その場で殺される」
「うん」
夜が明けてきた。
窓から見える空が薄桃色に輝いている。
正直、もう一度、朝を迎えられると思っていなかった。
この美しい朝焼けを、あと何回、見ることができるだろうか……。
*
保健室のベッドによこになって、目をとじてはみたものの、あたりが明るいせいか、なかなか寝られない。
うまく町から逃げだせればいいが、見つかれば殺される。
不安でしかたない。
中学校はすでに冬休みに入っていた。
だから、旧校舎も新校舎も校庭にも人影はない。
ベッドにもぐりこんだまま、ガラス窓のむこうをながめていたが、いつのまにか、うたたねしていた。
たくさんの意味不明な夢を見たような気がした。
鏡の割れる音。雪の夜に走る母。
ずっと聞こえていたのは、誰かの悲鳴だ。
大勢の人間が殺された。
女の子が泣きじゃくっていた。
(泣かないで。ねえ、君が泣くと、おれも悲しいよ)
女の子は背中をむけていて顔は見えない。
でも、ずっと前から知っている人だという気がした。
目がさめたのは、たぶん正午すぎだ。
食欲はないのに、空腹で目がさめたのだ。
となりのベッドを見ると、往人はまだ寝ている。
蒼嵐はベッドからおりて、薬棚のなかをのぞいた。薬だけじゃなく本なども入っているが、食べ物は見あたらない。
ガッカリしつつ、デスクまわりを調べる。
引き出しをあけると、少量の輪ゴムやマスクなどといっしょに、小包装されたノド飴の袋が入っていた。賞味期限は切れていたが、このさい、気にしてはいられない。
ノド飴をなめながら、薬棚のなかの本をながめていると、外から話し声が近づいてきた。蒼嵐はあわてて、しゃがみこむ。ベッドの下まで這っていった。
冬休みの学校に誰が来たのだろうか?
ただの見まわりだろうか?
窓からちょっとだけ顔を出してのぞくと、大人の男が五、六人で新校舎へむかっている。
風が強いのか、とぎれとぎれに話し声も聞こえる。
「ほんとにいるのか?」
「いるかいないかじゃなく、いるかもしれないってことが大事なんだろ」
「まあな」
「見つけたら、すぐに殺すんだ」
「わかってる」
蒼嵐たちを探しに来たのだ。
蒼嵐や往人、薔子も逃げだしているし、ほかにも昨夜、殺されずに逃亡した子どもがいるのかもしれない。
「往人。往人。大変だよ。起きて」
あわてて往人をゆり起す。
往人はぼんやりしながら起きてきた。メガネをかけて、蒼嵐を見る。
「何?」
「大人がここを調べにきた。おれたちが隠れそうなとこをしらみつぶしにしてるんだと思う」
往人も窓の外をのぞく。
大人たちはそれぞれ手に猟銃や刃物を持っている。
ちょうど、蒼嵐たちのいる旧校舎に背をむけて、新校舎のなかへ入っていくところだった。
「新校舎から探すんだ。まだ逃げだす時間はある」
「でも、町の人がみんなで探してるんじゃないの?」
「たぶん、そうだろうな。さっきの感じだと。近所の田村さんや津野さんがいた」
「うん」
実家の近くの人のいいおじさんたちだ。その善良な市民が、銃なんて物騒なものを手に、逃げだした子どもを探している。まるで町に人食い熊でも出没したみたいに。
「やっぱり、町ぐるみのことなんだね」
「蒼嵐の言うとおり、学校のまわりも大勢の人が歩きまわってるんだろうな。とびだしていくより、このなかで、やりすごすことができたほうがいいんだけどな」
「そんな場所あったっけ?」
「うーん」
「トイレの個室でカギかけとけば?」
「そんなの、なかに人がいるって教えてるようなもんだろ」
「まあ、そうだね」
「さっき、教頭先生もいた。カギは持ってるはずだ。カギのかかるとこは、あけられてしまうよ」
「だけど、早くしないと……」
「新校舎、調べるのに三十分はかかる。そのあいだに隠れられそうなとこ」
蒼嵐には、いい場所が思いつかない。
ロッカーのなかや机の下など、かくれんぼするのに適した場所はたくさんあるが、どれも扉をあけられたり、下までのぞきこまれれば、そこに人間がいることは一目瞭然だ。
こっちは命がかかっている。「あれ? 見つかっちゃった」では、すまない。
「どうしよう。どうしよう」
保健室のなかをむやみとウロついているうちに、刻一刻と時間がすぎていく。
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