第84話 差異

 

 時刻は23時を過ぎた頃だ。

 カチャリ、と重々しい物音を立てながら静かに玄関の扉が開かれる。ぼんやりと照らす月光が差し込むなか、隙間から現われたのは沙耶であった。極力、物音を立てぬように細心の注意を払いながら足を踏み入れて玄関の扉を閉める。


 何故、沙耶がここまで物音を立てないように慎重に動いているのか。

 それはやはり純一郎に気づかれぬためだろう。帰宅した際にリビングの窓から照明が灯っているのが確認できた。玄関に置いてある革靴と照らし合わせても純一郎が今、この家にいるのは明白であった。


(……何故、私はこうまで気を使っているのでしょうかね)


 純一郎に帰宅を気づかれ、向こうから接触してくるのを避けるためとはいえ、自分からここまで気を使っているのが何だか嫌気がさす。


 純一郎などどうでもいい。

 今となっては父とも思ってはいない。

 にも拘らず、自分はこうも慎重に行動して、純一郎に気づかれまいとしている。

 ある意味で自分の行動はまったくの矛盾である。

 本当に関心がないのであれば、ここまで気にする必要はないのだから。


 これ以上、このことを考えれば、自分は自己嫌悪にまで陥るだろう。

 思考を切り替え、足早に自分の部屋に向かおうとリビングを横切って、階段へ向かおうとした時であった。


 ふと開きっぱなしの扉からリビングを見やれば、ソファーで寝息を立てて転(うたた)寝している純一郎がいたではないか。彼の前のテーブルには簡単な料理が置かれており、見積もってもそれは沙耶と自分の分を考えての量であった。


 沙耶もすぐにそのことは察したのだろう。

 僅かに視線を伏せると、すぐに顔をあげてリビングに入っていくのであった。


 ・・・


「む、ぅ……?」


 純一郎は漸くその重い瞼を開く。

 ぼんやりとする頭で周囲を見渡す。

 どうやら時刻はついに日付を跨いでしまったようだ。


 だが、それよりもふと自身の体に眠る前にはなかった違和感を感じた。

 それは自身の体にかけられたブランケットであった。

 料理を作ったは良いが、肝心の沙耶がいつの間にいなくなっていたのだ。それから暫く沙耶を待ってはいたのだが、いつの間にか眠ってしまった。だからこそ自分はブランケットなど持ち込んではいない。テーブルの上に目を向ければ、料理はおいておらず、冷蔵庫を確認してみればラップがかけられた料理があった。であれば、この自分の体温によって温まったブランケットをかけてくれたのも、冷蔵庫に料理をしまってくれたのも一人しかいないだろう。


 純一郎は腰を上げて、階段へ昇って沙耶の部屋を目指す。


(なんと言って良いものか……)


 いざ沙耶の部屋の前に立った時、足を止めてしまった。

 沙耶が自分を嫌悪のレベルで嫌っていることは分かっているし、そうなっても仕方がないというのは分かっているつもりだ。だが、ブランケットをかけてくれたことや片付けをしてくれたことへの礼ぐらいは伝えたい。


 しかし問題なのはそれをどういった言葉で伝えるかであった。愚かにも沙耶と接する時間が仕事をしているよりも短かったため、久方ぶりに会った親戚のように、そもそも距離感が上手く掴めず、接し方も分からなかった。


 結局、こうやって悩んでいるから以前、朝食のことを伝えに行こうとした時も起床した彼女と鉢合わせしてしまった。ただ簡単に礼を言うだけで良い。そう考えてノックをしようとした時であった。


「……む」


 ふと扉越しに沙耶の声が聞こえてくる。

 誰かと電話でもしているのか、話し込んでいる様子だ。


 ・・・


「夏祭り……ですか」


 室内では椅子に腰掛けた沙耶がつい先程かかってきた美奈からの電話で夏祭りについて丁度、知らされていた。


『うん、明々後日辺りに沙耶ちゃんと行けないかなって』

「別に構いませんよ。予定は空いています」


 沙耶は知る由もないが、美奈は明後日に未希と玲奈と共に夏祭りに参加する。

 何の気兼ねもなく沙耶と周るためにその次の日を選んだのだろう。


 チラリと沙耶は室内の壁に張られている今月のカレンダーの日付を見やる。

 私事での予定はあっても、特に友人と出かけるような予定はない。

 そもそも友人と呼べるだけの存在がいない沙耶は淡々と答える。


『やったぁっ。えへへ、昔は沙耶ちゃんとよく言ったよね!』

「ええ、覚えてます」


 沙耶からの了承を得て、途端に美奈は電話越しでも分かるくらいに声を弾ませている。その様子についつい沙耶も頬が緩んでしまうのを自覚してしまうが、美奈が相手なのだ。それも致し方がないことだろう。


『昔は沙耶ちゃんの手を引いて、お祭りを周ってたなぁ』

「それではしゃぎ回って足を躓いた挙句、そこに私も巻き込んで転んだのも……ええ、覚えてます」

『ご、ごめんなさい……』


 幼き頃の沙耶との夏祭りでの出来事を振り返っては感慨深そうに思い出に浸っている美奈。

 大分、その思い出も美化しているようだが、姉ぶっていたその時の美奈を事細かに覚えていたのか、沙耶の淡々とした物言いに思わず電話越しにも分かるくらい萎縮してしまっている。とはいえ二人とも今のやり取りの後にすぐに耐え切れなくなったのかどちらからという訳でもなく笑い出していた。


『沙耶ちゃんって浴衣、持ってるのかな? 沙耶ちゃんの浴衣姿、見たいなー』

「生憎ですが、その類は持っていませんね。正直、幼い時に着て最後ではないでしょうか。美奈ちゃんはどうですか?」


 和やかな会話をしながら、二人の口元には無意識のうちに笑みが浮かんでいる。

 電話越しの相手は自分の最愛の人なのだ。

 表情は嘘をつくことはなく、ただありのまま相手への想いを表していた。


 ・・・


「……」


 僅かに開いた扉の隙間から沙耶の様子を見ていた純一郎は沙耶に気づかれないように静かに扉を閉める。覗き見をしていたなどと知られたら、何と言われるかも分からない。幸いなことに電話相手とのやり取りに夢中になっているお陰で気づかれることはなかった。


(余程の相手なのだろうな……)


 そのまま沙耶になるべく悟られないようにゆっくりと階段を降りながら、先程の沙耶について振り返る。

 口元に穏やかな笑みを浮かべて物静かながら年頃の少女のように声を弾ませているあんな沙耶を初めて見たのだ。


 沙耶は元々、自身の感情を前面に出すようなタイプの人間ではない。

 彼女が感情を露にして接するような相手は余程の好意か、嫌悪感を抱いているかのどちらかであろう。自分には決して向けられないであろうあの沙耶の姿に純一郎はついつい電話越しの相手が気になってしまう。


「確か……美奈……だったか?」


 沙耶が電話の最中に口にしていた名前を思い出す。

 電話のやり取りから察するにその名前の人物が電話の相手なのだろう。確かその名前は沙耶が海に遊びに行って、帰りが遅くなった時に言っていた名前だと記憶している。あの時もそうだが、美奈という名前に具体的に思い出せなくとも覚えその物はあるのだ。


「覚えがある気がするのだが……どのような人物だったか……」


 リビングに到着した純一郎は棚に飾ってある10年以上前の寺内家の家族写真を手に取る。

 二郷に引っ越す前で、沙耶の母である自分の妻だった彼女がまだ健在であった時だ。

 写真に写るまだ幼い沙耶の無邪気な笑顔を見つめながら、純一郎は目尻の辺りに人差し指を添えながら、美奈についての朧げな記憶を何とか引き出そうと記憶の断片を探るのであった。

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