第57話 心からの言葉
「おー起きたか」
時刻は後少しで日付が変わる頃となってしまった。
リビングでソファーにもたれて眠っていた昌弘がピクリと震えると、呻き声に似た声をあげながら眉間に皺を寄せて漸く目を覚ます。頭は醒め切っておらず、まだ寝ぼけているのか、ぼーっとしている昌弘に気づいた嘉穂が声をかけた。
「いつの間に寝ちまってたみたいだな……」
「私もさっき目ェ覚ましたばっかだよ」
声をかけられた昌弘は欠伸をしながらまだ重い瞼を何とか開いて周囲を見渡す。
テーブルの近くでは先程まで一緒に酒を飲んで騒いでいた嘉穂がポリ袋を片手に空き缶などの片付けをテキパキと行っていた。来客である嘉穂に片付けをしてもらっているのは申し訳ない為、頭を振って意識をはっきりさせようとする。ふと背後に人の気配を感じて振り返れば自分がもたれていたソファーの上には准が寝息をたてて眠っており、嘉穂の言葉からどうやら酒を飲んでいた最中で雑魚寝をしてしまったようだ。
「おーい、准、起きろー?」
ソファーに手をついて何とか立ち上がった昌弘はいまだこちらに背を向ける形で眠っている准の体を揺すりながら彼を起こそうとするのだが……。
「……なんやねん、まあくん……。ねかせてぇな……」
「昔のあだ名で呼ぶんじゃねえよ、ったく……」
体を揺すっていると漸く准が反応し、重たい動きで声がする方向である昌弘を見やる。だがまだ寝ぼけているようで、どこか舌足らずな喋り方でそのまま、また眠ってしまう。口をもごもごと動かし、再び背を向けて眠ってしまった准に昌弘は嘆息してしまう。
「わりぃな……。もう遅いし今日はお前も泊まってってくれよ」
こうなったら起きないだろうと准を起こすのを諦めた昌弘は振り返れば、もう嘉穂も後少しで片付けを終わらせてしまうだろう。片付けを最後までやらせてしまったことを詫びながら、嘉穂に泊まるように勧める。
「……い、良いのか?」
「構いやしねえよ。ちょっと顔洗ってくる……」
まさか昌弘が泊まって良いなんて言ってくれるとは思わず、嘉穂はほんのり頬を紅潮させどこか上擦った声を上げる。心なしか布巾でテーブルを拭いている嘉穂の手に妙に力が籠っているくらいだ。とはいえそんな嘉穂を見ても、まだ酒が抜けていないせいで顔が赤くなってる、とだけで片付けてしまった。
それよりも流石にもう深夜にもなりそうな時間帯の為、こんな時間に帰らせるのも気が引けた昌弘は寝起きの低いテンションでそう言い残し、洗面所に向かっていってしまった。
・・・
バシャッと打ち付ける水音が洗面所に響き、蛇口を捻って流れるままだった水を止めると、手元にあったハンドタオルで顔を拭いた昌弘はゆっくりと顔を起こして正面の鏡を見やる。
これだけ騒いだのもあんなに酒を飲んだのも久しぶりだ。
少し羽目を外し過ぎてしまったかもしれない。洗面所から廊下に出た昌弘はふと二階へと続く階段を見やると、何を思ったのか階段を昇り始める。
啓基も和葉ももう眠ってしまっているのか、二階の廊下は照明が落とされて人の気配が感じられない。薄暗いなか、慣れ親しんだ我が家の廊下を感覚で歩く昌弘はまず啓基の部屋の前に立つと軽くノックをする。ノックをしても扉の奥から反応はなく昌弘は入るぞ、と静かに前置きをして扉を開く。
扉を開いた先には廊下同様に照明が落とされており、ベッドの上では寝間着姿の啓基が目を瞑っていた。眠っているのだろう、とそんな啓基の姿を見た昌弘はなるべく音を立てないように啓基のベッドの近くまで歩み寄ると、そのまま腰掛ける。
「啓基、お前は本当に繊細な奴だよな……」
眠る啓基の前髪を軽く撫でるようにして掻き分けると露わになった啓基の寝顔を見つめながら、昌弘は一人語りかけるように呟く。
「でもお前はそれ以上に優しい奴だ。繊細なほど優しいから傷ついて……」
美奈との一件で一時期に啓基は荒んでしまっていた。
その時は啓基を何とかしてやりたいとは思うものの最善策は分からず、ただ自分なりに接する事しか出来なかった。
啓基は繊細で一歩引いてしまうタイプの人間だ。だがそんな彼の中にある優しさを自分はよく知っている。言葉に出せば薄っぺらいかもしれない。だが弟の長所として胸を張って言える事だ。
「その優しさは俺や和葉にもないお前だけのもんだ。だからこそずっとその優しさを持ち続けてくれ。これからさっきどんなことが待ってようと」
啓基の優しさは啓基だけにしか持てないものだ。
だからこそその優しさをこれから先も持ち続けてほしい。これから先の未来、例えどんなに心踏み躙られる出来事があったとしても失わないでほしい。話し終えた昌弘は最後にまた啓基の寝顔を見て、一人微笑むと静かに立ち上がり部屋から出て行く。
次に訪れたのは和葉の部屋の前だった。
啓基同様に軽くノックして反応を伺うも、返事はなくまた同じく入るぞ、と前置きしてから室内に入る。
和葉も啓基同様にベッドの上で結んでいた髪を解いた状態で眠っていた。
「和葉、お前は本当にワンパクな奴だよ」
そしてまたベッドの近くに歩み寄ると、そのまましゃがんでベッドの上の和葉に目線を合わせると啓基の時と同じく静かに話しかけながら、その小さな頭を優しく撫でる。
「でもそんなお前だからこそ一緒にいて、スッゲー楽しかったし、疲れてても悩んでても……そんな事が馬鹿らしく思えるようになれた」
やはり家族の中で何だかんだで一番多く接しているのは和葉だろう。
気づけば当たり前のように部屋にいる彼女と一緒にいれば静かになる事はなく、いつも賑やかな空間になる。そんな空間を作り出してくれる彼女との時間はいつだって笑顔になれたのだ。
「お前も啓基もいてくれたから……俺は幸せでいれた。お前達二人は俺にとって何よりも幸せになって欲しい存在なんだ」
こんな事は面と向かっては気恥ずかしくて言えない。
こうやって寝ている人間に本心を吐露するのはとても卑怯な気がするがどうかそんな不器用な兄を許してほしい。
「俺の兄弟になってくれてありがとな。だからこそ離れていたって俺はこれからもお前達の兄貴であり続けるから」
これまで兄弟で過ごしてきた日々を思い出しているのだろう。
何かを堪えるように顔を上げ、潤んだ瞳を閉じて無理に唾を飲み込む。暫くして落ち着いたのか、最後に慈しむように目を細めて微笑むと和葉の頬に手を添えてゆっくりと撫でてからズレている布団をかけ直して部屋を出て行く。
「───……だったら寂しがらせる真似、しないでよ……バカっ……」
昌弘が部屋を出て、階段を下りていく足音が遠巻きに響く。
そんな中、静寂が包み込む空間でパチリと和葉が瞼を開くと、先程の昌弘の言葉に目尻に涙を浮かべて恨めしそうに呟く。
我儘だって分かっている。
こんな事言えば昌弘だって困ると言う事も。
だからこそ今こうして一人だけの空間で呟くのは許してほしい。昌弘だって人が寝ていると思い込んで語り掛けて来たのだから。
最初にノックをして部屋に入った時は酔っぱらって絡みに来たと思って寝たふりをしたが実際は本心を話していた。昌弘の心からの言葉を思い出しながら目尻の涙をさっと拭うと和葉は兄がかけ直してくれた布団を頭からかぶるのであった。
「──……優しさ、か」
そして隣の啓基の部屋でもベットから上体を起こした啓基は先程、昌弘が触れた自分の髪を撫でていた。
「俺に優しさがあるのならそれは兄さんがくれたものだよ」
啓基にとって昌弘はいつだって頼りになる兄という存在だった。
その姿はいつだって啓基の目には大きく見えた。自分が荒んでいた時も親身になってくれた。
だからこそ憧れた。
兄のような存在になりたくて、兄を近くで見て来たからこそ自分は今の自分であれたのだから。
昌弘からの言葉はいずれ来る別れを強く意識してしまう。寂し気に笑った啓基は窓から映る夜空を眺めていた。
・・・
「随分と長かったな」
リビングに戻ってきた昌弘に片付けを終え、テーブルで頬杖をついていた嘉穂が声をかける。
片付けも済んだようで、先程まで酒を飲んで騒いでいたとは思えないくらい綺麗になっていた。
だが声をかけられた昌弘は何でもないっと言葉短めにそのまま窓辺に座る。それはまるで今の自分の表情を見られたくはないとばかりに嘉穂に背を向けていたのだ。
そんな昌弘の後ろ姿を見つめていた嘉穂は静かに立ち上がるとそのまま昌弘に歩み寄って彼の背中に身を預けるようにして座り込む。
「……なんだよ」
「別に」
背中に僅かにのしかかる体重を感じながら、ポツリと呟くよに尋ねる昌弘に嘉穂はそっぽを向きながら答える。
「……ありがとな」
しばらく無言の空間が広がるなか、昌弘はポツリと呟く。
その声はどこか震えていた。
嘉穂から伝わる体温は背中越しに自分を包み込んでくれるようだ。
あえて何も聞かず、何も言わずにこうやってただ傍にいてくれる嘉穂に心から感謝する。昌弘の感謝の言葉に嘉穂は静かに微笑むと、背中合わせになる昌弘も微笑み、静かで温かな優しい時間が流れるのであった……。
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