第693話 ピクニックとは

オレは少し目を見開いて、咄嗟にその頭をかき抱いた。

声もなく見つめる紅玉の瞳が、ゆるりと大きく揺らいだ気がしたから。

だけど大丈夫、何にも見えなくなった。

「久しぶりだね! エルベル様、疲れてるんでしょう。こんなところで寝ちゃうなんて」

何も言わない頭を撫でていると、オレの方がお兄さんみたいだ。されるがままの大きな弟は、何も言わないし、身動きもしない。

大丈夫かと身を引こうとすると、片手がぐっとオレの背中にまわった。

どうやら、まだダメらしい。


「あのね、ちょっとご無沙汰だったから、お話することがいっぱいあるんだよ! ええと――」

そう言って、言葉を切った。

さて、一体何から話そう。どうしてだろうね、普通に日常生活を送っているはずなのに、語り尽くせないほどの物語が溢れているのは。

『普通に?』

『日常、生活?』

チャトと蘇芳が、オレの中で揃ってオウム返しで首を傾げている。

オレ、何も間違ったことは言っていないけど。普通に学校に行って、普通に冒険者として活動して、時々旅行に行っただけ。

『主のはさ、きっと非日常生活って言うんだぜ!』

『ひりちちょうちぇいたつなんらぜ!』

ちゃんと言えた! と言わんばかりの得意げなアゲハが可笑しい。


くすくす笑っていると、ごそりと腕の中で身じろぎして、エルベル様はゆっくりと顔を上げた。

「……で、話はどうした」

ふて腐れた顔は、ほんのり赤いだけで、いつもと変わりない。王様でも子どもでもない、危ういバランスの上にある、いつものエルベル様の顔。

どうやら、オレが話を切り出すのを律儀に待っていたんだろうか。

「だって、いっぱいあるんだよ! お話だけで今日が終わっちゃう! エルベル様、何が聞きたい?」

オレは、ぱあっと顔いっぱいに笑みを浮かべて、お話の片鱗を身体から溢れさせた。

「何がと言われても。お前がどんな話を持っているか、俺は知らん」

「そうだけど! あっ、じゃあエルベル様お腹空いてない?」

「何が『じゃあ』なんだ……。腹は別に――」

空いてない、と続けそうな雰囲気で、突如エルベル様が腹を押さえた。同時に、ささやかな腹の虫が返事をした気がする。


「ち、違う。そう言えば今日は昼を断っていて! いや、最近食わないことが多かったから、これは普段通りで……!」

「普段からお腹空いてるの? ならお昼を食べれば良いのに……」

なぜ敢えて昼を抜くのか理解に苦しむ。だってエルベル様はダイエットが必要な体型では全くない。

「違う! だから、普段は腹が減らないからで……!! それで、お前は何が言いたかったんだ!」

みるみる染まる白皙の面を眺めつつ、そうだったと笑みを浮かべた。

「ふふ、お腹空いてるならちょうど良かった!」

聞くなりキラリと光った瞳を見つめ、勿体ぶった仕草で収納からお皿を取り出してみせる。

「これは……?」

キョトン、と首を傾げて見つめる皿の上。そこに鎮座しているのは、いつもの王様スペシャルな美しい見目のお料理じゃない。


「串焼きだよ! 王様はあんまり外でこういうの食べないでしょう?」

タクトが食べるような、握り拳大の塊肉じゃなく、バーベキューなんかでありそうなサイズの串焼き。

「ここで串焼きを食うのか?!」

言いつつも、しっかりと視線が串焼きに張り付いている。

「そう、ここで! こっそり食べよ!」

にんまり悪い笑みを浮かべ、素早く扉に駆け寄って鍵をかけた。

一旦お皿をエルベル様に押しつけ、ふかふかの絨毯に敷き布を敷いた。ミニテーブルを設置して、コップと飲み物、お手ふき、一口サイズのサンドウィッチ。傍らには小さな焼き網台を置いて。

エルベル様がお昼を食べているかなと思って、お料理はあまり用意してなかったけれど、大丈夫。オレにはエルベル様100人とピクニックしても問題ないくらいのストックがある。


「座って! ピクニックだよ!」

ぺたんと敷物の上へ座り込み、満面の笑みで見上げた。面食らった顔は、どこか心細そうに見える。

「いいの! 大丈夫! もし怒られたら、オレも一緒に怒られるから!」

「……それは何も大丈夫じゃあないな」

咳払いしたエルベル様は、しょうがない、とでも言いたそうな顔でオレの前へあぐらをかいて座った。

少し気まずげにそわそわして、窮屈そうな上着を放り出してオレを見る。

「しかし、ピクニック……? ままごとの間違いだろう」

ふふんと笑う顔が柔らかくて、オレは唇を尖らせながら笑った。

「ピクニックだよ! だって、これからいっぱいお話をするから。そしたら、エルベル様もきっとあちこちに行った気分になるよ!」

「残念ながら、俺はそんなに単純じゃない。それに、俺だって転移できるからな」

フン、と腕組みして顎を逸らすエルベル様に、オレだって余裕の笑みを浮かべる。


ふふ、そんなこと言ってられるのも今のうち。

だってその串焼き、ウーバルセットのつけ焼きと、一口大のタコ唐揚げ、レッドモアの焼き鳥なんだよ。

カリカリチーズのおつまみに、お腹が落ち着いたらココアにしよう。

いっぱいお話するからね、しっかり味わって。

オレを見て、声を聞いて、感じて。その感触を、味を、香りを。

オレが見た世界は、オレにしか見ることができないんだよ。きっとエルベル様が見た世界と違うから。だから、オレの見た世界を教えてあげる。

オレの世界を旅するピクニックだよ!


皿に盛っていた串焼きをいそいそと網に並べ直し、不審げな顔をするエルベル様を見上げてにやりと笑う。小さな手をかざし――

「お前っ! 室内だぞ?!」

「大丈夫! シールドがあるから!」

強め火力でジュウッと炙れば、一気に刺激的な香りが立ちこめた。たれと、スパイスと、いろんな香りが入り交じって屋台の一角みたい。やっぱり串焼きには、この臨場感が必要だよね!

見る間にお肉の端っこがカリリと焦げて、じわじわと沸き立つ油がぽたりと受け皿へ落ちる頃、オレは手を止めて紅玉の瞳を見上げた。

「さあ、食べよっか!」

「お前……滅茶苦茶だ」

串焼きを手にとってふうふうやっていると、慌てたエルベル様も手に取った。見よう見まねでかぶりつくと、あとはもう、欲望のままに。


その衣装とこの部屋、そしてその綺麗な顔! すごく不釣り合い、とっても似合わない。

「王様が部屋で串焼きだって!」

つい大笑いすると、彼はオレを睨んで串焼きを咥えると、カロルス様みたいに衣装を着崩した。

「王様は昼寝中だ。お前、なんで顔にたれを塗る必要がある」

「塗ってないよ! 串焼きを食べると、ほら付いちゃうでしょう! エルベル様だって……」

「付かないが?」

なんで?! がぶっとやったはずなのに! オレのお手ふきは、すぐに替えが必要な状態になるっていうのに。


「ところで、これは何の肉だ? 美味いな」

王様は適応能力も高いらしい。すっかり串焼きを頬ばる姿も、だらしない格好も様になってきた。

「そうだ、これはウーバルセットっていう生き物でね、オレがこの間――」

お話したいことはちょっとやそっとで終わらないから、ひとまずは、今味わえるお話だけ。だって次はエルベル様がお話する番だよ。エルベル様の世界を、今度はオレが聞く番。

だけど、エルベル様はお話するのが下手くそだからなあ。

くすっと笑ったところで、じとりと睨まれた。

「今、笑うような話だったか?」

「……オレは笑うところだったの!」

そ知らぬ顔で咳払いして、話の続きを促す視線を見つめ返した。


「オレも話すから、エルベル様の世界のことだって、いっぱい話してね」

「俺の話など、特に言うべきことなどない」

ほら、そうやってちっとも話してくれないんだから。

ちょっとむくれてタコの唐揚げを頬ばると、焼き鳥にかぶりついていたエルベル様がふと視線を彷徨わせた。

「話はないが……俺の世界なら一緒に見て回れば早い」

「一緒に? 見て回る?」

どういうことだと首を傾げて見つめると、彼はそっぽを向いて一気に焼き鳥を詰め込んだ。

「里を、案内してやってもいいぞ」

もごもごと呟くように言われた台詞は、絶対に聞き間違いじゃない。

「隠れ里を?! やったあ!」

オレはテーブルをひっくり返す勢いで、とんぼを切ったのだった。


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