第19話知りたくなかった諸事情

 ――その惨憺たる光景は、意図も容易く寝惚けていた意識を覚醒させた。

 白いシーツに一夜にして出来上がった赤い痕跡を見て、何処か怪我をしたのかと身体を調べてみれば、その出処は直ぐに判明した。

 しかし、場所が場所だけに理解が及ばず、途端に思考が混乱して自分がどうなってしまったのかと考えるも、その答えは出てこない。

 荒くなる呼吸と苦しさを訴える胸を弱々しい力しか出ない手で抑えて、少しずつでも冷静さを取り戻そうと精神を宥める。

 酷く気持ちが悪いし、吐き気も少々。

 下腹部にはこれまで感じたことの無い痛みがひっきりなしに襲っていて、もう一度眠ることは不可能だろう。

 身体の怠さが半端ではなく、明らかに非常事態だと言うのに、まるで動く気力が湧いてこない。

 深夜に襲われた原因不明のソレは、朝になっても部屋から出てこない俺を心配した伊織によって全容が暴かれることになる。


 それ即ち――女の子の日……と。



「うぅぅ…………」


 ベッドの上で泣き腫らした目元を拭いながら、形容出来ない感情を唸り声として発散する。

 ソレが来てしまったという事実に精神が着いてこなかった結果、伊織の前で泣き喚いてしまったのである。

 気を抜けば溢れそうになる弱音を飲み込みながら、依然として痛みを訴える下腹部を優しく摩りながら、はぁと深く溜息をつく。


「元気だして、梓姉」

「とてもじゃないけど、これは直ぐには無理だ……」


 話には聞いていたし、いつか来る可能性というのも理解していた……つもりだった。

 しかし、現実というものは時に想定を置き去りにするのである。

 身をもって知ったというか、知りたくなかったというか。


「多分梓姉は女の子じゃなかったし、何もわからないよね?」

「わかるわけないだろ……」

「じゃあ、ちょっと待っててね」


 そう言って伊織が部屋を出て少しすると、何冊かの本を抱えて戻ってきた。


「突然の事で不安だろうけど、まずは知識を付ければそれも薄れると思うから。というわけで、これ読んでみる?」

「えっと、『女の子の初めて』?」


 タイトルにさっと目を通して読んでみたソレは、きっとそういうことなんだろうと静かに理解した。

 騒ぎ立てたところでどうにもならない問題だし、これからを考えると自分で知っておかなければならない。

 毎回妹に世話を焼かれるのは恥ずかしさで死ぬ。


「まあ、何かわかんないことがあったら言ってね。でも、先に痛み止めを飲んでおいた方が楽になると思うよ」

「わかった。なんか、ごめん」

「いいのいいの。妹が出来たみたいで楽しいから」


 にこやかに微笑んで、伊織は薬を取りに行った。


「俺が妹って……」


 若干のショックを受けつつも帰ってきた伊織から薬を受け取り、ぬるめの水と共に飲み込んだ。

 それからの午前中は某書物を読み、知識と理解を深めながら自分の心を整理していたが、途中で眠気に襲われていつの間にか意識を失っていた。



「……あれ、寝ちゃってたのか」


 腹部への違和感で目を覚まし、時計を見てみるとお昼過ぎのようだった。

 窓から射し込む日光はすっかり強くなっているものの、空調が効いた部屋の中は程よい温度に保たれていた。

 個人的にはもう少し温度を下げてもいいと思うのだが、冷やすのは良くないらしく伊織に却下された。


「あ、起きたの?」

「ん? その声は……凛華?」


 ベッドで仰向けになったままの状態から声が聞こえた方向へ首を傾けると、さも当然のように凛華が椅子に座っていた。

 パタンと読んでいた本を閉じて、伊織が整頓したらしい机の上に置いた。


「具合はどう?」

「うーん……朝よりはマシだけど、あんまり起きていたくはないかも。というか、なんで凛華がいるの?」

「午前中に伊織ちゃんから連絡が来てね。『遂に梓姉が女の子になりました!』なんて書いてあったから様子見がてら来てみたの。お赤飯も買ってきたよ?」

「……なるほどね」


 色々と言いたいことはあるが、理由は大体把握した。

『女の子になった』はこの際置いておくとしても、お赤飯を買ってくるのは要らない気遣いだ。

 それがどういう意味を示すのかを知った今となっては、微妙な気分である。


「そうだ、お昼まだでしょ。何か食べたいのとかある?」

「うーん……そんなに食べれる気はしないけど、あったかいのがいいかも」


 少し考えてから答えると、今度は凛華が顎に手を当ててから立ち上がった。

 そして自信満々な笑みを浮かべながら俺を見て、


「しょうがないから私がお粥を作ってあげる」

「……んえ? 凛華が?」

「その『本当に作れるのか』みたいな顔が心底嫌だけど、私が作るって言ってるの。伊織ちゃんだって忙しいんだから」


 それは確かにと思った。

 夏休みで家にいるのですっかり忘れていたが、伊織はこれでも高校受験を控える中学生なのだ。

 とはいえ成績優秀なので進学自体は心配していない。

 その上で家事も万能とくれば出来すぎた妹だと常々思っている。


「伊織はどっかに行ってるの?」

「いるけど折角だから梓には実験台になって貰おうかと」


 不穏な言葉が聞こえた気がするが、触れないに越したことはないので無視だ。


「……そういうことならお願いしようかな」


 それを聞いてから凛華が勢いよく部屋を出て行って数十分後、湯気が立つ小さめの土鍋をお盆に乗せて持ってきた。

 机にお盆ごと置いてから、どうしようか迷う素振りを見せて、


「高さが微妙なんだけど、こっちの机で食べられそう?」

「それくらいなら大丈夫」


 重く感じる身体を時間をかけてゆっくりと起こしてベッドから起き上がり――


「――っ、なに、今の……」


 その拍子に腹部への痛みと何かが溢れてくるような感覚に襲われて、倒れないように机に手をついて身体を支えた。

 原因はもちろんわかっているし対策だってしてあるが……不快感は拭えない。


「落ち着いて。大丈夫だから」

「……本当に?」


 自分でも情けないと思うくらいの声音で聞き返すと「大丈夫」と同じように返ってきて、混乱していた思考が徐々に纏まりを取り戻す。

 深呼吸を二三度繰り返し、机から手を離せるくらいに落ち着いてから、トイレへと向かった。

 伊織に教えられた通りの手順を思い出しながら、自分で初めてソレの処理をして部屋へゆったりとした足どりで戻る。

 その様子を見てか「すっかり女の子になったね」と苦笑気味に言われて精神力を削られたが、現実としてその通りだし、今は軽口を返す元気もなかった。


「そんなに拗ねないで。それよりお粥が冷めちゃうよ?」

「むぅ……」


 流石に作ってくれただけに美味しいうちに食べたいので椅子に座ると、凛華が鍋の蓋を開けた。

 途端に広がる湯気の向こうには、白いご飯に小さく解された焼き鮭が散りばめられていて、ネギと梅干しが彩りを豊かにさせている美味しそうに見えるお粥があった。


「美味しそう……だな」


 まじまじとそのお粥を確認してみるも、やはり美味しそうに見えることに変わりがない。

 だが、それが問題だったりもする。

 凛華は人並みには料理は出来るものの、昔から調味料をよく間違えるのだ。

 塩ではなく砂糖が仕込まれたおにぎりだったり、塩辛いケーキだったりと、被った被害は数え切れないほどだ。


「疑ってるようだから先に言っておくけど、今回はちゃんと塩を入れたよ。なんなら伊織ちゃんが見てる前だったから」

「なら安心か」

「それどういう意味?」


 ほっぺたを摘まれて、俺も仕返しとばかりにやり返すと、ふと笑顔が浮かんで同時に手を離した。


「なんか妹が出来たみたい」

「それ伊織にも言われたけどそんなに俺を妹にしたいの?」


 すると小声で「それはそれでいいかも」と聞こえてしまい、身を引いた。

 妹は流石にやめて欲しい。

 ……と、こんなことをしている場合じゃない。


「それより食べていい?」

「ちょっと待って」


 もうスプーンを持つ手前だったが、凛華が横からかっさらってしまい、どうしようかと思っていると、凛華がスプーンにお粥を乗せて待機していた。


「これは……」

「食べさせてあげる。口開けて」


 凛華は満面の笑みだった。

 絶対に面白がられていると確信めいた感情を抱きつつも、小さく口を開けて食事が始まった。

 結論だけ言えば見た目通りの美味しさだった。

 仄かに感じる塩味も、梅干しの酸味も引っ込んでいた食欲を掻き立てて、食べられないと思っていたが完食してしまった。


「ご馳走様でした」

「そんなに美味しかった?」

「なんて言うか……優しい味だった」

「ならよかった。私は片付けてくるから梓は横になってて。その方が楽だと思う」

「何から何までやって貰って悪い」

「何も気にしなくていいの。あんまり無理すると伊織ちゃんが心配するからね。もちろん私もだけど」


 何か他にも言いたげな視線をぶつけられて、つい逸らしてしまう。

 逃げるようにベッドへと戻っていき、横にゴロンとなって部屋から出ていく凛華を目で追った。


「恵まれてるな……ほんと」


 これ以上ないくらいに満たされている毎日に感謝をしつつも、戻ってきた凛華と他愛のない会話をしながら午後を過ごすのだった。


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