Case File No.005-14

 私は死んでしまった。


 神の死がどのようなものなのかはわからないが、私の魂は男達の慰み者にされるしか能の無かったあの忌まわしい肉体を離れている。


 必死に心肺蘇生を行ってくれている真雪ちゃん達には申し訳ないが、こうなる可能性があることを私は事前に知らされていた。


『君には死んでもらうことになるかもしれない』


 黒島大尉の予測は見事的中した。


『神となった君にしかできないことがある』


 死んだ時はどうすればいいのかについても黒島大尉は教えてくれた。


 普通の人間ならすぐにでも常世とこよの入り口へと案内され、閻魔王庁の裁きを待つことになるが、神の場合は事情が異なるらしい。


 色々と手続きが煩雑な為、すぐに常世とこよへは召喚されない。


 その魂は肉体を失っても、しばらくは中津日本なかつひのもとに留まる。


 無論、仮とはいえ肉体を失えば、境界世界への干渉も不可能になる。


『普通の人間ならただの幽霊だ。極希ごくまれに認識される程度の不安定な存在でしかない。しかし、神は違う。純粋な霊体となっても、世界への干渉が許される。というより、本来、神は肉体を持たず、純粋な霊体として存在するべきなのだ。中津日本なかつひのもとや異世界では、神が肉体を持つことも珍しくはないが、それは自らに制限を課す行為に他ならない。世界への干渉は容易になるが、反面、超常の力の大半を失ってしまうことに繋がるからだ』


 黒島大尉は私の死を考慮した上での作戦も立案していた。


 肉体から解放された私が、直接、兄のところに行って道案内や防御を行う。


 それが長官の懐刀ふところがたなが考えた私の使い道だった。


『無論、これは最終手段だ。神といえども死の不可逆性は乗り越えられない。それはいくつもの神話が物語っている。だから、全ての判断を君に委ねたい。対魔法徹甲弾への対策を伝えるか否か。それが本作戦の分水嶺となるだろう』


 つまり、兄を助けたいなら死んでくれ、ということなのだと私は理解した。


 進駐軍の慰み者にされ、惨殺されたことから始まる私の不孝は、全て忌まわしい肉体がもたらしたことだった。


 そこから解放されるのだとしたらこんなに喜ばしいことはない。


 彼に出会う前だったら答えはすぐに出ていたのかもしれない。


 でも、出会ってしまった私は、結局、答えを出せないまま死んでしまった。


 心の何処どこかで黒島大尉の予測が外れることを願っていたのだが、私は最期まで運に見放されてしまったようだ。


「処置終了。神、大花咲の崩御ほうぎょを認める」


 眼下で手を尽くしてくれていた手塚大尉が、植本二曹と共に手を合わせる。


 艦橋の天上近くに浮いていた私は、一斉に啜り泣く艦橋の人達に深々と一礼した。


揚艇機ダビットの警務官に伝えますか?」


 伝令の辻村兵長の言葉に、艦長の真雪ちゃんが首を振る。


「必要ありません……」


 たった一言を必死に絞り出した直後、その頬を大粒の涙が伝った。


 私は真雪ちゃんに近づき、触れられないその体を抱きしめるようにして、その耳元でお礼を言った。


『ありがとう』


 もちろん、真雪ちゃんには聞こえない。


 だが、それでいい。


 自分を納得させるようにして、私は壁をすり抜けて彼のいる場所へと向かう。


 幾つもの出会いと別れを繰り返し、傷つきながらも前へと進んできた一人の英雄は、今、出撃の時を迎えて揚艇機ダビットで待機しているはずだった。


 ふねの右横に吊された小さなボートに近づくと、伯爵が気付き、魂に直接、話しかけてきた。


ってしまったか……』


『はい……』


『何か伝えることがあるなら伝えるぞ?』


『ありがとう、って伝えてください』


『それだけでよいのか?』


『未練になりたくはありませんから……』


『そうか……。では、それだけを確実に伝えることにしよう……』


 肉体があった時は見えなかった伯爵の本当の姿も、今の私には、はっきりと見えている。


 この方は吸血鬼とか、死霊術師ネクロマンサーとか、そういう低い次元の存在ではない。


 そもそも、ここにいることがおかしいレベルの存在だ。


 神である私ですら完全には認識が及ばないのだ。


 この方がいればきっと彼も大丈夫に違いない。


『熊吉さん……』


 彼は辛そうな顔で、艇尾に立っていた。


 その表情から、私の身に何が起こったのか理解しているのだろう。


 触れれば、その心を読み取ることもできるが、それは未練だと自重した。


『兄のことをお願いします……』


 肉体を失った私には彼を抱きしめることはできない。


 言葉を伝えることもできない。


 でも、それでいい。


 長い時間の中で、快楽に溺れていった私にはそもそもその資格がなかった。


 英雄達の逞しいものを受け入れる喜びをしまった時点で私は全て失ったのだ。


 そうするしかなかったというのは言い訳に過ぎない。


 もっと早く肉体を捨てることだってできたはずなのだ。


 地上に遣わされ、旅の中で交わした愛も本物だった。


 漏らした吐息も、火照ほてる体も、芯を貫く快楽の衝撃も全て嘘だった訳じゃない。


 冒険者と出会い、処女のフリをしてその腕に抱かれる。


 それ自体は用意されたことだったとしても私の気持ちは用意したものではなかった。


 そうやって新たな英雄を作り出す導き手としての役割にも満足していた。


 結局、私は自分の意思で彼らに抱かれたのだ。


 そんな汚らわしく醜い私が、本物の英雄である彼に与えられるものは、やはり、あの肉体以外にはなかった。


 それを失った今の私が、彼に与えられるものは何もない。


『愛してるって言って欲しかったです……。全部、忘れるくらいめちゃくちゃにして欲しかったです……』


 涙すら流すことができないのがもどかしい。


 この思いを伝えられなかったことが悔しくてたまらない。


「おい、熊吉君、少し余裕が出てきたので、咲様に伝えたいことがあれば伝えるぞ!」


 艇首側に立つ伯爵が彼に向かって叫ぶ。


「大好きだって……大好きだって伝えて下さい! だから、絶対に死ぬなって伝えて下さい!」


 似たような言葉を言われたことは何度もある。


 もっと強い言葉で言われて、力強く抱きしめられた回数を数えたら切りがない。


 でも、与えられた運命以外で言われたのはこれが初めてだ。


『熊吉さん……。私もあなたが大好きです……』


 霊体は涙を流さない。


 でも、心で流せる涙があることを私は初めて知った。


『余計なことだったか?』


 伯爵が私の魂に問いかけてきた。


『いえ、これで未練もなくなりました。ありがとうございます』


 本当に幸せで一杯だった。


 嘘偽りなく心が満たされていた。


『ミラウさんと末永くお幸せに』


 別れの言葉を告げた瞬間、ふねの大砲が鳴り響いた。


 私はこれで最後だからと言い訳をして、彼の方に手を伸ばす。


「咲……?」


 不意に彼が手を伸ばし、私の手を掴もうとする。


「山田君、どうかしたのかね?」


 黒島大尉が不思議そうに彼を見つめる。


「今、そこに咲がいたような気がしたんですが……ありえないですよね……」


 彼が伸ばした手を戻そうとした瞬間、黒島大尉が一喝した。


「馬鹿者! 目を瞑っていてやるから、そこにいるつもりで抱きしめてみせろ!」


 何かを察した黒島大尉の言葉に背を押され、彼が私へと近づいてくる。


 そして、彼はまるで私が見えているかのように私を腕の中に包み込んでくれた。


「お兄さんはきっと助け出すよ。だから、咲も頑張って……」


 それは、生きろ、という意味だったのだろう。


 頑張って生きて、また、あの小さな部屋で何気ない日常を送ろう。


 そう言いたかったのだろう。


『頑張ります……。でも、さよならです……。これでさよならなんです……』


 何も知らない彼の腕の中で私は必死に訴える。


 だが、その言葉は彼には届かない。


「さよならなんて絶対に言わないからね……」


 悲愴な決意を聞いた瞬間、私は手を伸ばし、彼の体を抱きしめていた。


 本当に抱きしめることはできないけど、そこに彼がいるつもりで伸ばした手を彼の体に回していた。


 そして、砲声が止み、出撃の時が訪れる。


“作業艇降ろし方用意! 陸戦隊、陸戦用意!”


 艦内マイクが入ると同時に彼は揚艇フックの真下に戻って行った。


「クロ大佐ー! 魔法長と詠唱員長スペル・マスターが防御を引き継ぐそうでーす!」


 真下からの声に応えて、伯爵が魔法防御を解くと、それまで見えない盾に防がれていた砲弾が一斉に降り注いだ。


 しかし、それらがふねに届くことはない。


 降り注ぐ砲弾と同じ数の魔法が放たれ、全てを撃ち落としてしまったからだ。


「やれやれ、これで一息つけるな……」


 伯爵は大きく伸びをしながら、まだ作業艇の中に留まっている私を見る。


 愛らしい黒猫の瞳ではなく、本来の目が私を捉えている。


 人々の根源的な恐怖を形にしたかのようなその姿には、全てを見透す幾つもの目がある。


 私に向けられているのは、その一つに過ぎない。


 ただ一つなのに群衆に睨まれたかのような重圧を感じる。


『恐れを知らぬ人なる神、新しき者よ。さあ、行くがよい。汝が愛した者は、このわれが古き名に誓って護ってみせよう』


 いつもの伯爵とは違う厳かな声が私の魂を吹き飛ばすかのように響き渡る。


『古き者よ、ありがとうございます』


 私が礼を言ってこうべを垂れると、伯爵を覆う影からしゅるりと触手が伸びてきた。


 それは、私の前に小さな光の粒を差し出した。


餞別せんべつである。受け取るがよい』


『これは……?』


われを封じると共に、その一部を顕現けんげんせしめる【黒の哲学大全たいぜん】の断章を複写したものだ』


『黒の哲学大全たいぜん?』


『星の海を渡りし存在ものと、かの星に生まれし人なる存在もの、その両者の対話から生まれた叡智の結晶。最古の魔導書と呼ばれるものの原典の一つだ。人の身には毒にしかならぬが、今の汝ならば扱えよう』


 私は恐る恐る小さな光に触れる。


 魂が焼き尽くされるほどの情報に一瞬で飲み込まれる。


 確かにその情報量はあまりにも膨大で人間の理解の及ぶものではなかった。


 普通の人間が触れたら脳が焼き焦げるほどの知識と力がそこにつまっている。


 これで断章の複写に過ぎないというのだから恐ろしい話だ。


『主に顕現けんげんに関する記述を集めた。兄を導く為に使うがよい。無論、今ここで別れを惜しむ為に使ってもよい。全ては汝の意思によるのだ』


 何処どこが顔かもわからない伯爵の影は笑っているように見えた。


 恐怖のかたまりのような姿にも、何処か優しさが感じられる。


『兄の為に大切に使わせていただきます』


 私の力だけでは兄を導くことはできなかったかもしれない。


 完全霊体からの世界への干渉は簡単なことではないからだ。


 だから、異世界の神は肉体を求め、中津日本なかつひのもとの神も偽りの肉体にその身を封じている。


 だが、肉体を持ったが故に神は苦しむ。


 そして、それを慰める為に私は神にさせられた。


 世界に干渉する副産物として生まれる性欲を鎮める為に利用されたのだ。


 そんな神々の苦悩を知っているから、私はここで使うわけにはいかなかった。


 私は彼らと違う。


 肉の苦しみに負けたりはしない。


 情慾に溺れ、快楽を貪ったりはしない。


 それはただの意地に過ぎないのかもしれない。


 でも、肉体でつながること以外にも愛情を知る方法はあるのだ。


 それを知った今、私にそんなものは必要ない。


 だから、この場で顕現けんげんして別れを言うことも、口付けを交わすことも必要ない。


 さあ、行こう。


 ここで出来ることはもう何もない。


 私はその場を離れ、白い霧の中へと飛んでいく。


 この魂が燃え尽きる、その瞬間まで、愛すべき存在ものの為に全力を尽くす。


 私は女神。


 穢れきってはいるが、それでも女神だ。


 英雄達を導くのがその仕事だ。


 私はこの仕事に誇りを持っている。


 天界の娼婦とあざけられようと、世の安寧あんねいの為に尽くしてきたことには誇りを持っている。


 数え切れない愛を受けた私には一つの愛なんて意味がないのだ。


 でも、許されるのなら覚えておいてもらいたい。


 ただ一人の男の記憶に思い出として留まりたい。


 ただ一つの思いを胸に、私は霧の彼方に消えていった。

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