Case File No.004-19

 黒島大尉の作戦会議というのは冗談かと思ったが、珈琲コーヒーを飲みながらでいいから、と前置きした上で今回の事件についての概要説明を求められた。


 熊吉が代表して概要を説明すると、黒島大尉は珈琲コーヒーを飲むことさえ忘れて聞き入ってくれた。


「面白いな。いや、実に面白い話だ」


 全てを聞き終わったところで、黒島大尉はようやく珈琲コーヒーを口にする。


「参謀殿が生前、哲学や宗教について熱心に研究されていたというのはまことでありましょうか?」


 パトラッシュの質問に黒島大尉はうなずいた。


「地獄でも続けておったよ。世界中の本を読みあさることくらしか娯楽はなかったので一通りのことは知識として学んだつもりだ」


「であるなら、捕虜尋問から断片的に得られた情報について、何かお分かりになるのではないでしょうか?」


「思うところはあるな。しかし、確信に至るものではない。それよりも、どうして君は私が哲学や宗教について研究したと知っているのかね?」


「軍事関係の書物には一通り目を通しております。そのお名前は存じ上げておりました」


「パトラッシュ君と言ったか。君は下士官なのに良く勉強しているようだね」


「恐れ入ります」


 役務えきむ調達契約を結んだパトラッシュには、契約中の身分を保障するものとして仮の階級が与えられている。


 与えられた階級は二等兵曹。


 これは陸上部隊における軍曹に相当する階級だ。


 今日からは時空保安庁の制服も支給され、その腕にはしっかりと二等兵曹であることを示す階級章が縫い付けられている。


 また、胸には民間役務協力者を示す役務えきむ提供徽章きしょう、通称、傭兵徽章きしょうもつけられている。


「我が輩が察するに、参謀殿は既に敵の企図きとを見破っておられるのではないのですかな?」


 という伯爵にも仮の階級が与えられている。


 仮の階級は、能力や経験等を考慮して決定されるが、今回、伯爵に与えられた階級は何と大佐。


 魔法で一夜にして作られたという特注の制服の肩には一人だけ金線が三つも光っている。


 その胸にはつけられているのは、パトラッシュと同じ役務えきむ提供徽章きしょうだけでなく、高等魔法官徽章きしょうという魔法長のライラさんでさえつけることを許されない特別な徽章きしょうもつけられていた。


「クロ大佐は、何故、そう思われるのですか?」


「なに、簡単なことです。昨日の報告を受けた長官がすぐに地獄へと向かわれたということを考えれば、それを可能と見込まれていたからと考えるべきは必定ひつじょう。そして、それは此度こたびの一件が、それほど深刻な事態であると言うことの証左でもありましょう」


 それまで穏やかだった黒島大尉の顔が急に険しくなる。


「長官がいらっしゃったことは極秘のはずですが、何故、貴方あなたが御存知なのですか?」


「我が輩は霊務卿りょうむきょうと個人的な付き合いがありますからな。地獄の動向も自然と耳に入るのですよ」


「それは大したものですな。さすがは大佐任官されるだけのことはあります。恐れ入りました」


 褒められた伯爵は満更でもない顔をする。


「して、参謀殿は敵の企図きとについていかなるお考えをお持ちなのですかな?」


何分なにぶん、このような仕事は初めてである上に、捜査資料にすら目を通しておりません。ですので、現段階で申し上げることは何もありません。しかし、その上でこの事件に対し、長官以上に憂慮していることだけはお伝えしておきます」


「なるほど、手の内は明かさない、ということですな」


「まあ、そんなところです」


 と言った具合に、黒島大尉は答えをはぐらかすばかりだったが、本人が言うように、初めての仕事で右も左もわからない、というのが正直なところなのだろうと熊吉は思った。


 要するに、伯爵とパトラッシュは買い被り過ぎているのだ。


「そもそも、司令づきは何で艦隊ではなく、こんなところに配属されたのですか? 長官が直々じきじきに迎えにいらっしゃったのは艦隊での働きを期待されいたからだと思うのですが」


 熊吉が率直な意見をぶつけると、黒島大尉は少し寂しげに笑った。


「今の私に艦隊は役不足だよ。本で知識は得ているものの、実際の用兵に堪え得る代物とは言えん。私が地獄でのんびり湯治をしている間に世はめまぐるしく変わってしまった。一人時代に取り残された私はまさに浦島太郎そのものだ。そんな私に艦隊の参謀が勤まるとは思えん。だから、全く畑違いのここを紹介してもらったのだ。まあ、本音を言えば、宇垣さんとそりが合わないから辞退した、からなんだがね」


 黒島大尉は最後の言葉だけ声を小さくして言った。


 昔の彼だったら、そんなことは言わなかっただろうし、そんな茶目っ気も出さなかっただろう。


 少なくとも本やうわさで聞く彼とは大きく違っているということだけは確かなようだ。


「山田君、私からも一つ質問していいかね?」


「はい、どうぞ」


「消えた少女と日本、君はどちらを救いたいのかね?」


「どちらもです」


「もし、片方しか選べないとしたら?」


 意地の悪い質問だが現実味はある。


 琴美を盾に取られる可能性は熊吉も考慮していた。


 犯人の言いなりになって判断を迷えば取り返しのつかない事態になることも充分に理解している。


 それでも最後まで諦めたくはない。


 単なる意地からではなく、それが村岡式の極意に反するから、諦めるわけにはいかないのだ。



 壊せざるを壊し、救われざる救い、もって世を照らす光とならん。


 天地あめつちを照らす日の本の光がごとくに。



 地上において単なる夢想の域を超えなかった村岡式を地獄にて完成させた恩師、村岡聖慧まさとしはそう言って熊吉を送り出してくれた。


 熊吉はずっとこの教えと共に生きている。


 だから、どんな巨悪も殺したことはないし、また、救うべき者を見捨てたこともない。


 そんな熊吉にどちらかを選ぶなんて出来るわけがない。


「自分の学んだ海軍村岡式特種船匠術せんしょうじゅつは、全てを救う為にみ出されました。どちらかを一方のみを救うのは師の教えに反します。ですので、片方しか選べないような事態に陥ったとしても、その現実を打破することを最後まであきらめません」


 熊吉の答えを聞いた黒島大尉は声を上げて笑い出した。


「君は面白い男だな。長官から君のことは聞いていたが、実際に会ってみて気に入られた理由がわかった気がする」


「どういう意味でしょうか?」


「世間では長官と宇垣さんの不仲の原因について色々と言われているが、嫌われた最大の原因は、面白みに欠ける、のただ一点に尽きると私は思う。先の大戦、勝てる見込みは万に一つどころか、零であったと私はみている。全て終わった後で当時の記録を並べ、後出しで意見を述べて悦に入る戦史家、軍事評論家には申し訳ないが、全ての情報を知り得た今、私は確実に勝機はなかったと断言できる。その危機感は今ほどではないにしろ当時もある程度、理解していた。長官におかれては私以上の危機感を持っておられたことだろう。だから、勝てぬいくさを打破する常識外の策を求め、乾坤一擲けんこんいってきの大勝負に出られたというわけだ。慎重な宇垣さんには、そうした博打ばくちのような作戦の立案が難しいと考えられたのだろう。それが結果的に宇垣さんを遠ざける理由になったのだと私は見ている。まあ、結局のところ、長官は生来の博打ばくち打ちだったということだ。だから、日本を質草しちぐさにした博打ばくちのような作戦であっても泰然たいぜんとこれを承認されたのだと思う。そういう御方なのだ。国も少女も救う勝負をあきらめないという君の信念に惚れないわけがない」


 黒島大尉は褒めてくれているのだろうが、熊吉は複雑な気持ちだった。


 黒島大尉は婉曲えんきょくに危うい戦い方をしていると言いたいのだろう。


 理想は認めるが、それを追い求めるのはリスクが伴うことを、先の大戦に絡めて指摘しているように思える。


 それは熊吉自身も充分に自覚していることだったので、正直、耳が痛かった。


「無茶なことを言っているのは自分でもわかっています。それで長官や司令に迷惑をかけることもしばしばです。それでも私は全てを救いたいのです。そう考えることは悪いことなのでしょうか?」


 熊吉の質問に対し、黒島大尉はゆっくりとかぶりを振った。


「私はそれが悪いとも思わないし、不可能であるとも思わない。我々は既に帝国海軍軍人ではなく、時空保安庁の保安官だ。敵と戦い、これを倒すのが仕事ではあるまい。人命を尊重する君の考え方こそが、今、我々に求められているもののような気がする。まあ、特攻で多くの者を死なせた私が言っても説得力は微塵みじんもないだろうがね」


 と、黒島大尉は自嘲気味に笑ってみせる。


 その笑顔からは、彼なりの苦悩と葛藤かっとうと後悔が垣間かいま見えていた。


「とにかく、だ。生き急ぐのはよくないぞ。私と違って君はもう地獄に戻ることはないだろうが、君という貴重な存在は替えがかないということだけは肝に銘じてもらいたい」


 とても数々の特攻を推進していた人とは思えない発言に熊吉は未だ疑念を捨てることができない。


 しかし、当初抱いていた嫌悪感は既に消えつつある。


 そう、許されない者などいないのだ。


 黒島大尉もまたその一人であることに熊吉はようやく気付けたのだった。




 午後から第三警備区警備本部庁舎の作戦室で共同捜査本部の捜査会議が行われた。


 会議と言っても議論の場ではなく、ただ持ち寄った情報の概要をそれぞれの担当者が粛々と話すだけだ。


 詳しい内容は配布した書類の紙面にて確認することになっているので、本当に要点だけを掻い摘んで話す会議はあっと言う間に終わってしまう。


 結論から言うと新たな情報はほとんどなかった。


 琴美の部屋で発見された三名の遺体の身元が判明したのは、ただ単に伯爵の情報の裏をとっただけであったし、彼らの住んでいた部屋からも犯人に繋がる有力な情報は何一つ得られなかった。


 被害者である斉藤洋子とその息子の隆幸が暮らしていたスコットランド四丁目にあるアパートの一室に荒らされた形跡が認められた為、そこが殺害現場であることは判明したものの、他の住民に聞き込みをした結果、殺害時刻に大きな物音や悲鳴を聞いたという者は一人もいなかった。


 戦成町せんせいちょう一丁目にある栗原智恵ともえのマンションに至っては、当然、荒らされた形跡もなく、一応、近隣の住民に聞き込みはしたが本人に関する情報以外は聞き出せなかった。


 ただ、何も成果がないというわけではない。


 洋子と智恵ともえが異世界からの帰還者であることや、文化教室カルチャーセンターでの植物療法フィトセラピー講座を通じて知り合ったことは、全く新しい情報であり、小さいながらも確実な捜査の進展を実感させるものだった。


 もっと詳しい内容を聞き出すには、会議終了後、知り合いに話を聞くのが一番だ。


 ということで小鴨刑事を見つけて話を聞くと、これから文化教室カルチャーセンターでの植物療法フィトセラピー講座を開いていた人物に会いに行くというので同行させてもらうことになった。


 該当する人物の名前は白石由美子。


 年齢は三十九歳。


 彼女は病院で理学療法士として働きながら植物療法フィトセラピーを学び、現在は桜森町駅の近くにあるショッピングモール内でハーブを使った心身総合リラクゼーションをうたうエステサロンを経営している。


 定休日は日曜日と水曜日なので今日は店を開けているようだが、電話でアポを取り、十六時から少しだけ話を聞く時間をもらったのだそうだ。


 中津横須賀市警のパトカーは他の刑事達を乗せて署に戻るそうでなので、小鴨刑事は一人、電車で向かうつもりだったらしい。


 パトラッシュの車で送りますよ、と言ったら渡りに船だと喜んでくれた。


 時間に余裕があったので国道十六号を一時間ほど走って桜森町駅に着く。


 目的の店は駅と直結するショッピングモール『ColetteコレットMareマーレ』の中にあると言うことなので、施設の駐車場に車を止めて中に入った。


「ほう、これは中々立派なものだな」


 自慢の尻尾しっぽを揺らしながら先頭を行く伯爵が言った。


 約束の時間までまだ少しあったので暇潰しに施設内を歩いているのだが、女性客が多い為か、ちょっと歩くだけで伯爵に声がかかった。


 可愛い、可愛い、と頭や顎を撫でられ、伯爵はすっかりご満悦だが、後ろを歩く三人はちょっと複雑な表情を浮かべてる。


「伯爵、五千円以上買い物すると駐車料金が無料になるそうなんで、その勢いで何か買ってくださいよ」


 熊吉は伯爵に並んでボソッと呟く。


「それは別に構わんが、お主、咲様のご機嫌を取らなくてもよいのか? 昨夜も、枕元で色々と愚痴をこぼされておったぞ」


「あれ? 妖精ちゃんと一緒じゃなかったんですか?」


「あの娘か……。互いに魔法で眠らせようとしておったのだが、すんでのところでり勝ったようだ……。我が輩に勝負を挑むとは、あの娘、やはり侮れぬ……」


「ってことは、昨日は咲と一緒に寝たのですか?」


「花のような芳醇ほうじゅんな香りと、包み込むような優しい温もりに包まれ、まさに夢見心地であったぞ」


 伯爵の顔がほころび、その横で熊吉がむっとした表情を浮かべる。


「今日こそ、妖精ちゃんと寝てもらいますからね?」


「あの娘、寝相悪いぞ……」


「知ってますよ」


何故なぜ、知っておるのだ? お主、一緒に寝たことがあるのか?」


「咲から聞いていますし、朝も起こされるまで起きませんから……」


 布団から半分飛び出しているあの姿を見れば寝相の悪さは想像できる。


 因みに、妖精ちゃんと同室の篠原しのはら中尉からは、あまりの寝相の悪さに妖精ちゃんのベッドだけ落下防止のネットがついているという情報も得ている。


「我が輩、死ぬことはないが、痛みも苦しみもしっかり感じるのだぞ」


「唐揚げで実証済みですものね」


 熊吉が言った直後、伯爵が高速猫パンチを繰り出してきたが、心構えができていたのでサイドステップでかわすことができた。


「シャー!」


 悔しかった伯爵が、猫の鳴き声で威嚇いかくする。


「一度見た技は喰らいませんよ」


「素人に殴らせ放題だった奴が何を言う」


「ひょっとしてあの試合を見てたんですか?」


「最高級の処女の血を片手に見させてもらった。何故なにゆえ、あのような素人の小僧に殴らせ続けたのだ? 我が輩の一撃を見切れるのなら、あれしきの速さ、けるのは造作もなかろう?」


「面倒だからですよ。伯爵が引き籠もっている理由と同じです。うっかり本気を出してしまうと、後々あとあと、面倒なことになりますからね。騒がれないようにする為にはああするしかありませんでした」


 伯爵の言うとおり、全てを受ける必要はなかったが、ぎりぎりけさせてもらえなかったというのも事実だ。


 カメラ越しでは分かり難いが、実際は人間が予測回避できる限界を遙かに上回っていた。


 相手の動きが単調だったから、防御のタイミングは外さなかったが、外してまともにもらっていたらそこで全てが終わっていただろう。


 要するに、あの試合は言うほど楽なものではなかったのだが、熊吉にだって見栄を張りたい時はあるのだ。


「見栄っ張りめ……」


 女子高生に愛想を振りまきながらボソッと言う伯爵。


「なんか言いました?」


「いや、何も言っておらんぞ。空耳だろう」


 と、伯爵は近づく女子高生に頭を撫でられる為に駆けて行った。


「伯爵さん、大人気ですね」


 小鴨刑事が女子高生に頭を撫でられている伯爵を見ながら苦笑いを浮かべる。


「申し訳ありません。伯爵様は、滅多に人前に出ない癖に、意外と人懐っこいところがありますので」


「パトラッシュ、正直に女好きだって言ってもいいんだよ」


「従者として肯定はしかねますが、大尉殿の言わんとしていることは理解しております」


 非常に微妙な言い回しだが、否定しないところをみると、パトラッシュも熊吉と同じ意見のようだ。


「ニャーン♪」


 伯爵が本物の猫なで声を出すと、女子高生達のテンションは最高潮を迎える。


 可愛いを連発しながら抱きつかれる伯爵の顔はこれでもかというくらいに緩みきっていた。


「時に大尉殿、今日の献立は熱々あつあつの天ぷらなどいかがでしょうか? 昨晩のように伯爵は熱いものが弱点ですので」


 何気ないパトラッシュの発言に熊吉は驚かされる。


 別段、怒っているわけではないが、調子に乗りすぎている主人におきゅうえたいとは思っているのだろう。


「よし、咲に連絡しておこう」


 熊吉は早速、メールで咲に連絡した。


 ついでに、妖精ちゃんにも送っておくことを忘れない。


 という感じに伯爵へのお仕置きが決定したが、その後も引き続き伯爵の猫かぶりが続き、ただ歩いているだけで約束の時間を迎えてしまったので急いで店に向かう。


 五階にある白石由美子の店の名前は『グアリジョーネ』だ。


 落ち着いた木目調のインテリアに、観葉植物をふんだんにあしらった店内は、差し詰め癒しの森と言ったおもむきがある。


 店舗自体も広く、受付のある待合室はカフェスペースにもなっていて、特製のハーブティーや、有機野菜を中心とした料理、ハーブを使ったお菓子を楽しむことが出来るらしい。


 小鴨刑事が受付で名前と用件を告げると、カフェスペースの一画に案内され、そこで待つように言われた。


 出されたハーブティーを飲みながら待っていると、程なくして白石由美子が現れた。


 口許くちもとの黒子が色っぽい美人であったが、それ以上に見た目の若さに驚かされる。


 とても三十九歳には見えない。


 その見た目は上に見ても、精々、二十代後半くらいだ。


「お待たせして申し訳ありません。オーナーの白石と申します」


 と挨拶し、由美子は全員に名刺を配った。


 配られた枚数は、もちろん、伯爵を除いた三枚。


 名刺を配られなかった伯爵の前には、一人だけハーブティーではなくミルクが置かれている。


 完全に猫扱いだが本人は気にする様子もなく、器用にカップを持ってミルクを飲んでいた。


「お忙しいところ申し訳ありません。中津横須賀市警の小鴨です。あと、こちらは時空保安庁の方々です。彼らも事件を捜査しているのですが、一緒にお話しをうかがってもよろしいでしょうか?」


「ええ、構いませんがそちらの猫ちゃんは?」


 由美子が当然のように聞いてくるので、代表して熊吉が説明する。


「これは警察犬みたいなものです。猫がお嫌いでしたら外で待たせますが?」


「いえ、大丈夫ですよ。私、猫が大好きで家でも飼っていますので」


 と言って、由美子は伯爵が座る席の背後に回り、抱き上げて膝の上に乗せた。


「とてもお行儀がいのね。お名前は何て言うのかしら?」


「クロですニャー」


 伯爵が答えたので、由美子は驚きの表情を浮かべる。


「まあ、言葉がしゃべれるのね!」


「はい、ですニャー」


「お利口さんなのね。うちの子もあなたみたいにおしゃべりできたら楽しいのに」


「こんな美人さんに飼われているのならその子もきっと幸せに違いないですニャー」


「同じ猫ちゃんにそう言ってもらえて嬉しいわ。ありがとう、クロちゃん」


 由美子はすっかり伯爵の愛らしさにやられてしまっている。


 変に身構えられたり、緊張されたりすると、思い出せるものも思い出せなくなる。


 伯爵が狙ってやったかどうかはわからないが、こうやって場をなごませることも聞き込みには必要なのだ。


「そのままで構いませんので、貴方が開いている講座の生徒であった斉藤洋子さんと栗原智恵ともえさんについてお聞かせ願えますか?」


 小鴨刑事が手帳を取り出して本題に入る。


「あのお二人のことは良く覚えています。とても勉強熱心で講義が終わった後も良く質問に来られてました。文化教室カルチャーセンターでは一般教養程度のことしか教えていなかったので、もっと本格的に勉強したいともおっしゃられていたのですが、ある日、突然、お二人とも講義を休まれるようになって、結局、そのまま一度も出席することなく講義は終了してしまいました」


「お二人が休まれた理由についてはご存じないのですか?」


文化教室カルチャーセンターの方へは体調不良で休むという電話が一度あったそうです。でも、それ以降は連絡もなく欠席されていました。お二人と交友のある生徒さんの話によると、お二人とも異世界からの帰還者であちらの世界では癒しの力を持っておられたとか。私の講義を受講した動機も、人々を癒したい、とのことでしたので、失ってしまった力の代わりになるものを求められてたようです。お二人は休む数日前くらいに、力を取り戻すことができるかもしれない、と言っていた、とその生徒さんはおっしゃっていました。これは飽くまでも私の推測ですが、その算段がついたことで講義に出席する必要がなくなったのではないでしょうか」


「異世界で失った力を取り戻す……ですか……。時保さん、私はそこら辺の事情に明るくないのですが、本当にそんなことが可能なのですか?」


 小鴨刑事に視線を向けられる熊吉は、足りない頭で必死に考えるが結論は出ない。


 経験に基づくならあり得ない話だが、前例がないだけという可能性も否定できない。


 まあ、要するによくわからないというのが正直なところだ。


「私が知る限りそのようなことはないのですが、何分なにぶん、畑違いなことなことですので専門家に意見を仰がないと正確なところはわかりません」


 熊吉は一応専門家である伯爵に視線を向けるが、すっかりしゃべる猫になりきっている伯爵は欠伸あくびをするだけで何も答えてはくれない。


「お二人は騙されていたのでしょうか……。相談していただければ引き留めることもできたのですが……」


 二人の訃報ふほうは、新聞やテレビで既に報道されている。


 由美子が自分を責めたくなる気持ちもわからなくはないが、無断で休むほど傾いてしまった心を元に戻せたとは思えない。


 相談無く聴講をやめてしまったことが全てを物語っているような気がした。


「相談はなかったということですが、兆候というか、変化のようなものは全く感じられなかったのでしょうか? 思い出せる範囲で結構ですので、気になることがあればお願いします」


 小鴨刑事の質問に対し、由美子は伯爵を撫でるのをやめて考え始める。


「そうですねぇ。兆候のようなものはなかったと思いますが、気になる点と言えば一つ思い当たることがあります」


「それはどのようなことでしょうか?」


「お二人とも帰還者ということなのか、異世界の植物の薬効について特に関心が強かったと思います。私自身は帰還者ではありませんから、飽くまでも正規に輸入され、一般に浸透しているものを中心に講義をしたのですが、それ以上のことを知りたいと言うことでしたので、ハーブを中心に異世界の植物を個人で輸入されている方を紹介しました」


「その方の住所や連絡先はわかりますか?」


「名刺をいただいております。すぐに持って参りますので、しばらくお待ちいただけますか?」


 と、由美子は伯爵を席において店の奥に戻っていく。


 その姿が見えなくなったところで伯爵の猫かぶりモードが一時停止した。


「やれやれ、猫かぶりというのも中々に疲れるものだな」


「とか言って、本当はそっちが素なんじゃないんですか?」


「お主、あまりおいたが過ぎると、咲殿にあることないこと言いつけるぞ。聞き込みにかこつけて口説くどいてたって言っても良いのだぞ」


「勘弁して下さいよ。ああ見えて、結構、嫉妬しっと深いところあるんですから。まあ、それはさておき先程の話、どう思われますか?」


「異世界で得た力を取り戻すという奴か?」


「向こうで得た力は帰還時に返却が義務づけられているので新たに付与するしかありませんが、日本の神々がそんなことを許すとは思えないんですよね」


「まあ、そうだろうな。八百万やおよろずの神の中には悪戯いたずらきの神もおわすが、出雲議会で決められた天上の律法を犯せば、たとえ神といえども罰を与えられる。人間の魂魄に関する情報の操作に関して言えば大罪だ。これを許せば、そもそもこの境界世界の意義が問われかねんからな。絶対に許すわけにはいかんだろう」


「ということは可能性はない、と?」


「少なくとも日の本の神に関してはありえん。だが、方法がないわけではない」


「どういうことです?」


「鈍い奴だな。この境界世界に、異世界の神が侵入していれば、それも可能だということだ。無論、咲殿のように正規の方法で入国された方は不可能だろうが、正規の手続きを踏まず、密入国した神に関してはこの限りではない」


「ということは、可能性はなくはないということですね」


「そういうことになる。だが、それは同時に警備体制の不備を認めることになるのだぞ。ことは時空保安庁内部だけにはとどまらず、神々の守護さえも疑う事態になりかねない。一種の結界であるこの境界世界に、それらを維持管理する神に知られることなく侵入することが果たして可能だろうか? 我が輩には無理なような気がするが……」


 言葉をにごす伯爵も完全に否定する自信はないのだろう。


 伊弉冉尊いざなみのみことの眷族として、日本の神々の力を疑うことのできない複雑な心境が見え隠れする。


 熊吉も時空保安庁の警備体制には問題がないと思っている。


 それでも万全であるとは言い切れない。


 伯爵が神々に対して抱いている疑念も同じものだろう。


 邪神認定された神ならいざしらず、未知の神や、敵意を隠した神に関しては外交上の問題もあり、完全に防げるとは言いがたい。


 本来、友好的な交流を目的に開かれた外交チャンネルを悪用される可能性だってある。


 結論から言えば、限りなく低いものの可能性は零ではない、ということだ。


 でも、それを認めたくない二人は必死に否定する材料を考える。


「お待たせしました」


 再び現れた由美子の声に驚いて伯爵が再びニャンコモードに戻る。


「ニャーン♪」


 伯爵の猫なで声を聞いた由美子はほっこりと口許くちもとを緩めながら、小鴨刑事に持ってきた名刺を渡した。


「拝見します」


 小鴨刑事は名刺を受け取ると、素早く住所などを書き取って由美子に返した。


 由美子は返された名刺をしまうと、再び伯爵を抱きかかえ、席に着いた。


「こちらの方とは今も取引を?」


「ええ、珍しいハーブが手に入った時、ご連絡をいただくことがあります。とても紳士的な方で、本来なら値が張る代物を格安でお譲りいただいています」


「最近会ったのはいつでしょうか?」


「昨年の十一月後半くらいだったと思います。正確な日付は調べないとわかりませんが、十二月ではなかったと思います」


「斉藤さんと栗原さんが欠席されるようになったのは何時からですか?」


「十二月に入ってすぐです。ちょうど異世界のハーブを使った講義をした直後でした。ひょっとして事件と何か関係があるのでしょうか?」


 由美子の表情には後悔がにじんでいた。


 二人に貿易商を紹介しなければ事件に巻き込まれなかったのではないかと考えているのだろう。


 しかし、その貿易商が犯人と決まったわけではない。


 ただの偶然である可能性も充分に考えられる。


「現時点では何とも申し上げられません。偶然が重なっただけとも考えられます」


「そうなら良いのですが……」


「結果的に事件への関与が認められたとしても、あなたが気にむことではありませんよ。あなたはお二人の熱意に応え、後学の機会を与えたに過ぎないのですからね」


「ありがとうございます。少し気が楽になりました」


「いえ、こちらこそ貴重なお時間を割いていただいてありがとうございました。また、何かあればご連絡いたしますが、身の回りで少しでも不審な事がありましたら、署の方までお気軽にお電話下さい」


「わかりました。何かありましたらご連絡さしあげます」


「それでは、我々はこれで失礼させていただきます」


 小鴨刑事と熊吉とパトラッシュの三人が立ち上がる。


 由美子に見送られ、そのまま店を出た三人は、駐車料金分の買い物をしようとしたところで、肝心の財布を店に置き忘れてきたことを思い出した。


「やべっ、伯爵のこと忘れてた!」


 急いで引き返すと、伯爵はまだ由美子に抱えられたまま他の従業員や客に頭を撫でられていた。


「伯爵さん、幸せそうですね」


 小鴨刑事の言うとおり、すっかり猫に戻ってしまった伯爵は気持ち良さそうだったが、放って置くわけにもいかないのでしっかり回収し、財布としての役目を果たしてもらった。

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