⑱【女の直感? 北乃家崩壊の危機!】
「北乃君……ちょっとそこに座って」
夕食後、妻である『かな子』が静かにそう切り出した。
私が自分の食べ終えた食器を下げようと腰を浮かせたその瞬間だった。
いつもであれば台所までそのまま食器を運び、ふきんでテーブルを拭くのが私の仕事。
だがこの時ばかりは、私は重ねた食器を持ち上げたまま硬直してしまった。
○
なぜか?
彼女の声に異様な冷気を感じたせいだ。
なにより私のことを昔の呼び方『北乃君』と呼んだからだ。
これは悪い前触れにちがいない……ここは慎重に行かないと。
「な、な、なにかな?」
ハッ! イキナリどもってしまったぁぁぁ!
なにも思い当たることなんてないのに、動揺してしまった。
だが彼女の声の冷たさ、そして緩く組んだ指の隙間からのぞく彼女の瞳の冷たさは私を動揺させるに十分だった。
それでも私は内心の動揺を気取られないよう、食器をテーブルに置いた。
カタカタカタッ、と食器が鳴いたけれどなんとか無事に着陸させた。
○
「北乃君……片づけは後でいいから、そこに座って」
「は、はい」
私は腰に巻いていたエプロンを椅子の背にかけ、なんとなく音を立てないようにそっと座った。
「北乃君、あたしになんか隠してるよね?」
ドキリと心臓が大きく脈打つ。
いやいやいや、隠してることなんてない。ないはず。ないよね?
と、自分に問う。
「ない、けど?」
断言できない自分が怖い。
質問に質問で返してしまう臆病な自分がむしろ悲しい。
○
「本当に? 心当たりがないのね?」
「ない……と思うけど。なんか怒らせるようなことしてたかな?」
「へぇぇ、それでごまかせると思ってるんだ?」
なんかやばい。圧倒的にヤバい。
なんか部屋の温度が急に下がってきた気がする。
エアコン壊れてるんじゃないかな?
だとしたら、背中に流れるこの汗はなんだろう?
本当に心当たりはないか?
もう一度自問する。
○
……実はある。
だが、これだけは妻のかな子には話せない。
どうしても話せないのだ。
うん、黙っていよう! と、そっと心に決める。
○
「じゃあ、コレはなに?」
かな子が胸ポケットから小さなビニール袋を指先でつまみ上げ、それをテーブルの上、ちょうど私とかな子の真ん中に滑らせた。
「最近、北乃君のワイシャツのポケットから出てきたんだよね、それもこのところずっと」
私はそのビニール袋をつまみ上げて中身を見る。
「コレって、髪の毛よね? 金髪の」
ビニールの中の毛はどれも短くて、明るい金色だ。
ちなみにかな子の髪はすこし茶色がかったライトブラウン。
どうみても彼女の髪の毛ではない。
○
「な、なんだろう? いつの間についたのかな? ハハ」
私はついうなじの毛を撫でながらそう聞く。
しまったァァァ……これは嘘をついてごまかしているポーズそのものだ!
だがもう後戻りはできない。
ごまかしとおすしかないっ!
が、ジロリと睨まれた。
そしてかな子から静かに爆弾が投下された。
「北乃君、浮気してない?」
○
もうなんか全部バレている気がする。
それでも私は抵抗を試みる。
「まさか! 浮気なんてするわけないだろう?」
「そうかな?」
「だいたいボクはモテないよ。甲斐性だってないし。かな子ひとすじだって!」
「でもねぇ、女の直感が告げるのよ、なんか隠してるって」
実に鋭い……侮りがたし、女の直感!
たしかに私はかな子にちょっとした秘密を隠していたのだから。
○
「まぁいいいわ……」
そのことばにちょっとホッとする。
がそれも一瞬。
つづく彼女の言葉に私はさらに追い詰められる。
「……コモリ君、きてちょうだい」
コモリ君というのは娘の旦那さん。
ミステリーが大好きな義理の息子だ。
そして居間の扉をあけてコモリ君が入ってきた。
その脇に分厚いマニラ封筒を挟んでいる。
なんかヤバそうな……というか確実に逃げ道を塞がれている。
○
そのコモリ君、入ってくるなり私にぺこりと頭を下げた。
「すみません、お義父さん、裏切るような真似をして……」
もう死刑確定みたいな雰囲気。
しかもしっかりとかな子の隣に腰掛ける。
二対一。
さらに逃げ場を塞いでくる。
「……実はこの一週間ほど、お義母さんに頼まれてあなたを尾行していました」
なんか他人行儀な言い方だよね?
もうなんか結果が出ているみたいな話し方だよね?
○
「じゃあ、報告を聞かせてもらおうかしら?」
かな子の言葉にコモリ君がうなずき、マニラ封筒から一枚の写真を取り出した。
「これは一昨日に撮った写真です。とある専門店での写真です」
そこにあった写真にはスーツ姿の私と、エプロン姿の女性店員が写っていた。
「ここで容疑者は革の拘束具を購入しています」
いつの間にか私の呼び方が容疑者になっている……。
「ふーん、北乃君、そう言う趣味があったんだ? 初めて知ったわ。まぁ、趣味なんてのは人それぞれだからね。で、まだ隠すつもり?」
○
「か、隠してなんかないよ。だいたい、この写真の人、髪が長いだろう?」
実際その写真は遠くから撮ったせいか、かなりピンボケしている。
それでもその店員さんが、髪をポニーテールにしているのははっきりと分かる。
分かるはずだ!
「たしかにそうね……どういうこと、コモリ君?」
「私も最初はか彼女が怪しいと考えたのですが、容疑者はここで買い物を済ませて次の場所へと向かっています」
それから彼は二枚目の写真を机に置いた。
またもや遠くからのピンボケ写真。
今度は玄関先。スーツ姿の私とそれを出迎える金髪の女性の姿。
さらに写真が重ねられ、私が彼女の家に入っていくまでが撮影されていた。
しかも彼女の髪は金色、しかもショートヘア―だった。
「容疑者はこの家に入り、1時間ほど滞在していました」
「もう言い逃れ出来ないわよね? 北乃君?」
○
「ご、誤解だよ……」
私としてはそう言うのが精いっぱい。
なにしろこれだけの証拠が突き付けられた。
ここは日本海の荒波が押し寄せる断崖絶壁、もはや逃げ道はなかった。
まさに追い詰められた犯人。
ザッパーンという波音まで聞こえてきそうだった。
「まだシラを通すというならジカミしてもらうほかないですね」
○
「「ジカミ?」」
聞きなれない言葉に思わず聞き返す。
ちなみにそれはかな子同じ反応だった。
「直観……直接の直に観察の観と書きます」
と、話すコモリ君はすごく得意そうだ。
「直接観察、チョッカンが正式な呼び方ですが『直感』と紛らわしいのでジカに観るで『ジカミ』というんです(※1)。まぁ証拠とか証人とかとじかに接することです」
「へぇぇ、そんな言葉知らなかったよ」
「ミステリーではけっこう有名な言葉で、もとは警察の使う隠語だそうですよ(※2)」
「コモリ君は物知りだね」
○
「まぁミステリーでは常識ですよ(※3)。それはともかく、こうなったら北乃さんには『直観』直接見ていただくしかないですね」
コモリ君はそういうと立ち上がると、居間の扉のドアノブに手をかけた。
「実は証人の方をこちらに呼んであります」
「え?」
思わず声が出てしまう。
そしてかな子はそんな私の様子を軽蔑しきった目で見ていた。
○
ザッパーン。
また波の音が聞こえる。
私は崖に追い込まれた犯人だ。
被害者のかな子、そして探偵役のコモリ君がそこにいる。
「では、どうぞ」
居間の扉が開かれ、カタリが入ってくる。
その手には革のリードが握られ、そのリードは黄色い首輪につながっている。
そのリードの先にいるのは……
見事な金色の毛をしたレトリバーの子犬だった。
○
「かわいいいいいっっっっ!」
かな子が声を上げた。
上げると同時にもう子犬を抱きしめていた。
「どうしたの、この子?」
「その僕の同級生の子の家で生まれたんですけど、引き取り先を探してて……それで北乃さんに相談したんです」
「ほら、キミは昔から犬を飼いたいっていただろ?」
ちなみにワンちゃんもかな子が気に入ったみたいで、ビュンビュンと尻尾を振り回してじゃれついている。
「うんうん!」とかな子。
「それで君の誕生プレゼントにどうかなって思ってさ、カタリも飼いたいって言ってたしね」
○
「もちろんオッケーに決まってるじゃない! それよりこの子の名前はなんていうの?」
「それはまだ決めてなくて」
「カタリは? なんか考えてるの?」
「ボクも決めてないんです。飼っていいか分かんなかったし」
「ねぇねぇ、じゃああたしが決めていいの?」
私とカタリは揃ってうなずく。
「そうねぇ……あなたホント美人さんね! まるでハチミツみたいな綺麗な色! すごくキレイな金色の毛だから……コハク!(※4) コハクなんてどう?」
○
それはなんだかぴったりの名前に思えた。
「ようこそ琥珀ちゃん、キミも今日から北乃家の一員だよ」
ワン!
琥珀ちゃんは小さく一声なき、千切れそうなくらい尻尾を振り回した。
……こうして北乃家の危機は去り、また新しい家族が増えたのである。
おわり
※1……今回のお題は『直観』です。ジカミと読ませているのは創作です。
※2……まるっきり嘘です。創作上のデッチ上げです。
※3……当然これも嘘です。信じちゃいけません。
※4……琥珀さん、お名前を使わせていただきました。これであなたも北乃ファミリーの一員です。
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