⑰【走る北乃君とコモリ君】

 ゴールまでいよいよ残りあと三十メートル。


 ボクの心臓は早鐘をうち、限界を迎えた全身の筋肉が悲鳴を上げている。

 もう体がバラッバラになりそうだ。


 だがまだ出るはずだ。最後の一滴を絞りだすまで、ボクはこの足をゆるめない!

 この限界の向こう側には輝かしい勝利が待っているのだからっ!


   ○


「ハッ、ハッ……やりますね、お義父さん、六十過ぎとは思えませんよ」


 背後から荒い息遣いと共にコモリ君の声が追ってくる。

 もうかなり迫られている。


「ハッ、ハッ……キミこそやるじゃないか、コモリ君。デスクワークばかりのワリにね……ハッ、ハッ」


 そんなセリフを吐くのが精いっぱい。

 

「それにしても……こうして……走るのも、ずいぶんと、ひ、久しぶりですね……」


   ○


 余裕のつもりかコモリ君はそんな言葉をつなぎながらついに私の横に並んだ。

 だが、その彼もまた全身ぐっしょりと汗をかき、辛そうに顔をゆがめていた。

 額から流れ出した汗にメガネも曲がっている。

 そろそろ限界頂点を迎えるころだろう。


 だが苦しいのはお互い様だ。

 私とてこの勝負、勝ちを譲るつもりは毛頭ないッ!


   ○


「……思い出すね、もう何年前になるだろう……サクヤちゃんもまだ生まれなかったころだ……」


 私は彼の挑発に敢えて乗る。

 こうして言葉を交わすことで、ガンガン体力が削られてゆく。

 思考そのものが今にもはじけ飛びそうなギリギリの状況。


 だがそれは彼も同じ。

 そして思い出話に浸りながらも、私は悲鳴を上げた腿を持ち上げ、力強く大地を蹴ってさらに加速する。


 いよいよラストスパートッ!

 これから私は神の領域に踏み込むのだ!


 ついてこれるかな? コモリ君ッ!


   ○


「そう……でしたね……ハッ……ハッ……北乃さんが、どうしても、ハッ……門限を守るって……」

「あれは……笑ったね……奥さん、レンチュウ……ハッ、ハッ……みんな……寝てて」


 ちょっと思い出し笑いがもれる。


 だがそれがマズかった!

 一瞬だが緊張を解かれてしまった!


 そしてさすがはコモリ君、その隙を逃さず、スッと真横に並んだ。


(やるじゃないか、コモリ君ッ! 君がそんなに策士だとは思わなかったよ!)


 だが油断した私が悪い。


 ゴールまではあと十五メートル……まだ間に合う。

 最後の力をかき集め、私はスッと神経を集中させる。


   ○


 そんな私の気迫が伝染したのだろうか? 観客たちの声援が消えていった。

 いや、これは違う。

 ついに来たのだ。

 限界を超えた神の領域にッ!

 わたしはついにあのスプリンターと同じ世界に立ったのだ!


 光の粒が私の横を静かに流れている。

 そして私は自分の身体を完全に把握する。

 血管に流れる血液の音、リズミカルにポンプを繰り返す鼓動、痛みが消えなめらかに動き出す筋肉。


   ○


 これが神の領域!


 勝てる。これなら勝ちきれる。


 私はさらにぐんぐんと加速する。


 もはやコモリ君の存在すらはるか彼方。


 観客すらもはるか彼方。


 そして目の前にはゴールテープ。


 視界がますます明るく輝きだし、私はその光の中に溶け込むように、ゴールテープの向こう側へ……





   ○


「いやぁ、まさかお義父さんに負けるとは思いませんでしたよ……」


 コモリ君の声が聞こえる。

 そこでわたしは神の国からゆっくりと校庭に引き戻される。


 振り返ると、肩で息をしているコモリ君の姿。


「パパ、惜しかったねぇ」

 と、コモリ君の娘であり、私の孫のサクヤちゃんがタオルを渡していた。

 彼女ももう五年生。すっかり背も伸びた。


 と、わたしの所にもタオルがやってきた。

 持ってきたのは息子のカタリ。


   ○


「カタリ、見てたかい?」

「はい。その、すごく、北乃さん、頑張ってて……」


 相変わらずちょっと照れたようなぎこちない喋り方。

 ちなみに彼は小学六年生。

 背が伸びたのはもちろん、かなりのイケメンに成長している。


 ちなみに彼は養子だから、顔がいいのはわたしのせいではない。

 北乃さん、というちょっとよそよそしい呼び方はそのせいなのだ。

 

   ○


「どうだった? 父さんの走り?」


 それはついポロッと出た言葉。

 無意識に出た言葉。

 わたしは自分のことを父さんと言ったことはなかったのだ。


 でもこの運動会で、ちょっとカタリにいいとこ見せたくて、アドレナリンを出し過ぎてしまったのだろう。

 ちょっと気分がはしゃいでいたのかもしれない。


 でも、それでよかったのかもしれない。


   ○


「……うん。お父さん、すごくかっこよかった!」


 カタリはそういってにっこりと笑ってくれたのだ。


 わたしもまたにっこりと笑い、汗の流れた目元をゆっくりとぬぐった。 



 それはカタリが初めてわたしを「父さん」と呼んでくれた瞬間だったから。






 終わり

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