⑬【Uターンの瞬間と焼き鳥屋さんの思い出】

 その日、僕は嫁のお義父さんと焼き鳥屋さんに来ていた。

 珍しいことに二人だけ。

 しかもお義父さんからの誘いだった。

 ちなみにこの焼き鳥屋『色とりどり』はお義父さんの行きつけの店である。


   ○


「大将、まずは塩でいつもの焼いてくれる?」

「あいよ! 飲み物は中生でよかったですか?」

「もちろん。今日は二人分な。 北乃君それで良かったよな?」

「ええ。まずはビールですよね!」


   ○


 それからお父さんは茄子の浅漬けと枝豆を頼み、焼き鳥が焼けるまでそれをつまみに話を始める。


「それで、なんか会社の方、うまくないんだって?」

 お義父さんはいきなり本題に切り込んできた。


「まぁ、実はそうなんです」

 さて、なんて話だしたらいいものか?

 なんて考えると、カウンターにドンと中生が二つ置かれた。

 ジョッキには真っ白い泡がこんもり、その下の黄金には剥片になった氷が浮いている。


   ○


「まぁまずは飲もう。今日もおつかれさん」

 お義父さんとグラスを合わせ、グビリと一口。

 ビールの苦みと共に生ビールの甘い香りが口から喉へと落ちてゆく。


 うまい。

 こんなにうまい生ビールを飲むのは久しぶりだ。

 僕はそのままゴクゴクと半分ほどを飲み、プハーっと息を吐きだす。


   ○


 うん。疲れがどこかへ消えてゆく。

 というか溶けてゆく。

 茄子にちょっと辛子をつけて一口。

 これもまたうまい。茄子の独特の香りと歯ざわり、程よい塩加減に誘われて、ビールをもう一口。


   ○


「うまいですね、ここの生ビール」

「だろう? ここの大将はマメだからさ、サーバーの手入れも完璧なんだ」

「サーバーですか?」

「そう。サーバーの手入れをちゃんとしている店ほど生ビールがうまいんだ」


 そう言いながらお義父さんもグイッとジョッキを傾け、僕たちのビールはすでに空になってしまった。


   ○


「大将、生中もう一杯づつ!」

「あいよ! すんませんね、まだ焼きあがってなくて」


「こっちのペースが速いだけ。あとビールがうまいせいかな」

「ありがとうございます。もうすぐですんで」


「で、なんだか最近悩んでるそうじゃないか? 転職するのかい?」

 お義父さんはズバッとまた切り込んでくる。


   ○


 実はその通りなのだ。

 でもまだ迷っている。


「なかなか踏ん切りがつかなくて、まだ迷ってるんです」

「踏ん切りがつかないってことは、やめることは決まったようなもんじゃないか」


 その言葉にちょっとハッとする。

 というか自分の本心がこんな形で表れていたことを知る。


「でも、半年後には娘も生まれるんです。 無職になるワケにはいかないですし」

「再就職するつもりはないのかい?」

「まさか。ちゃんと就職はするつもりです。でもこのご時世ですし、なかなか決まらいだろうし、決まらなかったらって考えると」


   ○


 ドン!

 と、このタイミングで生中のお代わりがカウンターに置かれた。

 さらに横長の皿の上に、焼き鳥が三串、並べられた。


「あい、お待ち。左からぼんじり、ねぎま、かわ、です。お好みで七味をかけてくださいね」

「お。来た来た! まずは焼きたてを食べようじゃないか」

「はい」


 ちょっと将来のことを想像し、気持ちが暗くなっていた。

 なによりの問題はもう会社に行きたくないな、というのが転職の最大の理由だったことだ。

 キャリアアップのためとか、ヘッドハンティング、なんてことであればかなり違うのだろう。

 でも僕の場合、そういう華やかな話ではなかった。


   ○


「ここの塩は絶品なんだよ。七味を付けるとまたビールとあうんだ」

 お義父さんはササッとボクの分にもかけ、自分の焼き鳥にもうっすらと七味をふった。


「あ、ありがとうございます」

「まずは食べてみなさい、びっくりするから」


   ○


 で、一口。

 瞬間に目がグワッと開いた。

 美味い。香ばしさと肉のうまみが同時に広がる。

 塩味ってシンプルなはずなのに、すごく深みのある味だった。

 この鳥から出てる油の上手さがまた優しくて、食欲をそそる。

 思わずビールを一口。それからゴクゴクと二口、三口。


 次のねぎまもまた格別。少し焦がしたネギと鶏肉の相性の良さは完璧だ。

 そして鳥皮。噛めば噛むほど旨みがしみだしてくるようで、ビールがまたすすむ。

 気付けば夢中になって全部食べていた。


   ○


「大将、次はタレで頼むよ。皮は二つずつね。それと手羽先も追加で!」

 お義父さんは慣れた様子で頼んでくれる。


 これはひょっとして……

 僕はちょっとお義父さんの様子をうかがう。

 これは料理と絡めて、なにか深い話をしてくれるつもりではないのか? と。

 シンプルな塩から王道のタレへ。

 人生においても……なんていう感じで。


   ○


 でもお義父さんはただただ美味そうに焼き鳥を食べている。

 焼き鳥を食べ、冷えたビールを幸せそうに飲んでいる。


 なんだか考えすぎていたのかもしれない。

 というか僕の抱えている問題も傍からみれば考えすぎなだけかもしれない。


   ○


「お、タレが来たぞ」

「おいしそうですね」


 今度はレバー、もも、つくね、それと皮。

 タレの焦げた甘い匂いがふわりと漂ってくる。

 ここにも七味を振りかけて、パクッとたべて、ビールを飲む。


 食べ終えた串を小さなツボに刺してゆく。


   ○


 はぁぁ。幸せだ。こんなにも美味いなんて。

 よく冷えたビールと焼きたての焼き鳥。

 この二つだけでこんなにも幸せになれるなんて。


   ○


 「な? 幸せだろう?」

 「はい。幸せです」


 「幸せってのはこんなもんなんだ」

 「その、安いってことですか?」


 「ちょっと違うな。手を伸ばせば届くってこと」

 「手を伸ばせば、ですか」


 「そう、そういう幸せはいろんなところにある。だがみんなどこに手を伸ばしていいか分からない。届かないところばかり手を伸ばす」

 「あ。なんか分かります」


 「で、届かないから自分は不幸だ、ついていないと思いこむ」


   ○


 今の僕はまさにそんな感じだった。

 今の場所から逃げ出したい。

 逃げ出した先に何が待ち受けているのか分からなくて怖い。

 収入がなくなるのが怖い。

 家族を辛い目に合わせそうで怖い。

 不幸や貧乏にはまり込んでしまいそうで怖い。


「僕はすごく怖いです」

 僕は正直にそう言った。


   ○


「北乃君、キミはちょっと抱えすぎ。キミが怖いのは分かる。でもな、キミの家族は、私ももちろんそうだが、キミが壊れてしまうのが一番怖い。キミだけが不安に押しつぶされるのを見るのが怖い。これはね、逆の立場になってみればわかることだよ。ちょっとでもいい。想像してみるといい」


 そう言ってからお父さんはニッと笑った。


「ちょっと生意気言ったかな。でも心配することはないんだ。キミは一人じゃないんだから、キミはちゃんと自分の幸せに手を伸ばしなさい。それがみんなの幸せにもつながるんだから」


   ○


 その日の僕は、お義父さんの言葉が嬉しくて、泣きそうになってビールを飲んだ。

 それでもちょっと涙が出て来たけど、ビールの冷たさのせいにしてすぐにぬぐった。

 お義父さんは気付いていたかもしれない。でも何も言わなかった。

 言ったのはコレだけ。


   ○


U


 その時の僕は言っている意味が分からなかった。


U


   ○


「ささっ、こういう話はここまで! まだまだ飲むぞ! そして腹いっぱい焼き鳥を食べて帰ろう!」








 それから二週間後。


 ある晴れた日の通勤途中。


 僕の足が突然止まった。


 ボクはその時、焼き鳥屋さんで聞いたお義父さんの言葉を思い出した。


 僕はくるりと振り返った。


 この道の先にはボクの家があり、家族が待っている。


 だから僕は少し笑顔を浮かべて、まだ朝だけど早々に帰り道についたのだった。




 終わり

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