⑥【夜の街を駆け抜ける三分間の話】

 いよいよ残りあと3分。


   ○


 ボクの心臓は早鐘をうち、限界を迎えた全身の筋肉が悲鳴を上げている。

 もう体がバラッバラになりそうだ。

 だがまだ出るはずだ。最後の一滴を絞りだすまで、ボクはこの足をゆるめない!

 その限界の向こう側には輝かしい勝利が待っているはずだから。

 いやさ、勝負の敗北はボクにとって、さらには北乃家にとっての死と崩壊を意味しているのだ。


   ○


「お、お義父、さん、ハァ、残り 時間はっ!」

 隣を並走するのは娘のダンナ『コモリ君』。

 彼もまた全身ぐっしょりと汗をかき、辛そうに顔をゆがめている。

 そろそろ彼も限界頂点を迎えるころだろう。セリフもとぎれとぎれだ。

 もはや腕時計を見ることもままならない、わずかな余計な動きがタイムロスを生むからだ。

 とはいえ、ボクもすでにそんな余裕はない。

 頭の中での感覚で言えば、あと2分30秒。

 距離にして500メートルくらいか。


   ○


「間に合うんじゃないかな まだ2分以上ある」

 嫁の父『お義父さん』の自転車がスッと加速してきてボクの隣を並走する。

 日ごろから鍛えているせいだろう、腕時計で確認してくれる。

 だが穏やかな表情でも、額から流れる汗まではとめられない。

 さらに穏やかな上半身とは対照的に、その足はありえない速度でペダルを回し続けている。

 これが噂のハイケイデンス。


   ○


「油断、ダメですっ!」

 ボクは短くそう言い放つ。

 言葉を絞りだすのもキツイ。

 そして最後のS字クランクに猛然と突っ込んでゆく。

 いかにスピードを緩めずに、そして最短のルートを結んでいくか。

 走り慣れた道のはずでも、見通しの悪い道にはアクシデントがつきものだ。

 しかも時刻はもはや夜中である。


   ○


「見えたっ! 見えました!」

 コモリ君の弾んだ声が聞こえる。

 見えた。私にもはっきりと見えた。

 暗闇の中でそこだけが煌々と明るく輝いて見える。

 あれがゴールライン。


   ○


「あと一分。このペースなら大丈夫」

 お義父さんがまたスッと横に並走する。

 さすがお義父さんだ。あのクランクもスムーズに抜けたようだ。

 あのシャカシャカのハイケイデンスもまだ緩めていない。


   ○


「お、お義父さん、お願いしてもいいですかっ?」

「オーダーだね?」

「はいっ、申し訳ないんですが……」

「大丈夫さ、言わずともわかってるよ。先に開けて待っている!」

「お願いしますっ!」


   ○


 その言葉とともにお義父さんがサドルからスッと腰をあげた。

 そして限界と思われたケイデンスをさらに上げ、音もなく自転車を加速させてゆく。初めて見るお義父さんのダンシングだ。

 バタバタと夜風で翻るジャケットの裾が、はばたく天使の羽に見える。


   ○


(鍵は託した……お義父さんは必ずあのオーダーをなし遂げてくれるはず)

 あとはボクたちがこのまま走り続ければいい。


   ○


「いやぁ、それにしても飲みすぎましたね、もう筋肉がパンパンですよ」

 再びコモリ君が私の隣に並ぶ。

 そして何とも人懐っこい笑顔を浮かべる。

「そうだね、ボクもだよ」


   ○


 たまたま帰りの電車が同じになり、私たちはともに飲みに行くことにしたのだ。

 八時から飲み始めて約三時間。

 会社のことや世間のコト、家族のことなんかを話題に楽しい時間を過ごした。

 まぁそのせいで少々飲みすぎてしまい、気付けばこんな時間になってしまった。

 で、残業上がりのお義父さんとばったり会って、こうして一緒に帰っているわけだ。


   ○


「さぁコモリ君、ラストスパートだ!」

 私はカバンを抱え直し、ちょっとネクタイをゆるめて、さらに加速する。

 こんなに走るのは本当に久しぶりだ。

 お義父さんの自転車がちょっとうらやましい。すごくラクそうだし。

 それに革靴で走るのは足が痛い。


   ○


「ちなみに、僕は門限ないんですよね」

 急にコモリ君がそんなことを言いだす。

 彼もまたカバンを抱えもち、ラストスパートをかけている。

 ボクに合わせて一生懸命走っている。


   ○


 だからてっきり門限が同じなんだと思っていたのだ。

 だのにこうして一緒に走ってくれている。

 コモリ君はほんといい奴だ。

 頼もしい仲間、いや、家族。

 そういうのはかけがえのないものだ、と改めて思う。

 みんなの想いに応えるためにも、門限だけは必ず守ってみせる!


   ○


 しかしな……三奈は門限作ってないのかぁ

 ……かな子だけだったかぁ

 ……ハナさんはそういうの興味なさそうだしなぁ


 つまり、門限あるのはボクだけか……


 ちなみに三奈というのは娘、かな子はボクの嫁、ハナさんは義母だ。


   ○


 だが他所ヨソ他所ヨソ、ウチはウチ。

 ボクにはかな子の定めた門限があるのだ。

 それは深夜の12時。

 午前様というのは許されないのだ!


   ○


 ゴールラインはもう目の前だ。

 あと五十メートル。

 残り時間は30秒。


   ○


「……コモリ君、ボクの言ったルールを覚えているかい?」

「はい。みんなが楽しくなるように、でしたよね」


「ああ。あのゴールを抜けた時、笑顔で家族が迎えてくれるはずだよ。キミはそんな景色を見たくないかね?」

「はっ! お義父さん、僕、大切なことを見失ってたみたいです」


「分かればいいのさ、さっ、ラストスパートだ、がんばるぞ!」

「はいっ!」


   ○


 残りはあと10メートル。

 先についたお父さんが、玄関のカギを開け、扉をあけてくれた。

 最後に腕時計をちらりと見る。

 まだ十秒ある。


   ○


 家まであと9、8、7、6、5、4、3メートル、そして……


 カチリ。

 秒針が垂直に立ち上がり、それよりわずかに早く、ボクたち三人は玄関に飛び込んだ。


   ○


「ただいまぁ!」

「間に合った!」

「かえったぞ!」


   ○


 が、意に反して出迎えの姿はなかった。

 それどころか家の中はシンと静まり返っている。


「あれ?」

 ボクたちはそろそろと薄暗い廊下を進み、真っ暗な居間の電気のスイッチをパチリと付ける。


   ○


 大きなダイニングテーブルの上にメモが一枚乗っていた。


【 先に寝ます

        三奈

        かな子

        ハナ   】




 終わり

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