失われた過去 中編

 男は執拗に天使を付け狙った。

 意外にもなかなか隙を見せない天使と、付き従う二人の少女だったが、ある曲がり角の更地の前に立ち止まった瞬間、ようやくそのチャンスはやってきた。


 建物の陰に潜んだ男は、背中からバサッと骨の腕を広げ、ゆっくり手を伸ばし―――――天使の影へと迫った。


「!!??」


 天使は何かに気が付いたようだが、もう遅い。男の仕事はすでに終わっていたのだった。


(これは興味深い。あの天使は有栖摩武装探偵社の関係者か)


 その男…………宍戸湊ししど みなとは、相手の影から、記憶を本の形で奪う事ができる。彼が持つトランクの中は、かつて奪った記憶が本としてたくさん詰まっている。彼女の記憶の一部も、彼のコレクションに加わるのだ。


(――思い出の無い人間は死んでるのと同じだ。あの天使は、親の記憶を奪われた。親が殺されたも同然だろう)


 天使はちょうど思い出を反芻していた時だったのだろう。彼女の親という「記憶」から、ごっそりと「記録」がとれた。それだけ彼女にとって、親との思い出が占めるウェイトは大きいのだろう。


(これだけでも十分な収穫だが、あの天使はまだこちらに気が付いていない。もう一押し行くとしようか)


 宍戸はさらなる戦果を狙うべく、再び天使の影へと手を伸ばす。



××××××××××××××××××××××××××××××



 アイネは、今まではっきりと目的地に向かう意思と、その目的を持っていたはずだった。ところが、彼女はそのことを突然まったく思い出せなくなってしまった。いや、それどころかここに来るまでに至った経緯すら完全に失念してしまった。


「あれ…………? おかしい、な? そもそもどうして私はここに?」

「お、お父さん! 忘れちゃったの!? ボケちゃったの!?」

「え!? 私ボケた!? 「物忘れが激しい第二世代」とか言われるのやだよ私!?」

「やだなぁお父さん! 師匠に会いに行くんじゃなかったの?」

「し……ししょう? ししょう……って、誰の?」


 日和二人の動きが再び止まった。

 間違いない。アイネは、いつの間にか師匠……竜舞奏に関することをきれいさっぱり忘れてしまったのだ。

 だが、次の瞬間―――――


「うっ!? ま、また何かぞくっと!?」

「!!」


 アイネは二度目の悪寒を覚えた。それはまるで、脳から何かずるりと抜け落ちたような、非常に気味の悪い感覚だった。

 そして、アイネが悪寒を覚えてすぐ、妹日和は急にアイネに突進した。


「お父さんごめんっっ!!」

「おふっ!?」


 大粒の涙を流しながらアイネの腹に突進した妹日和は、ぶつかった衝撃で身体をくの字に折ったアイネの身体を抱え、突進の勢いをそのままに一気に近くのビルの外壁を三角飛びで駆け上った。

 高さ約150mもあるビルの谷間を、自分の1.5倍はある大きさの女性を抱えて30秒で登り切った妹日和。屋上に着くや否や、大声で泣き叫びながらアイネに抱き着いた。


「やだやだっ! お父さん、ひよりんたちのこと忘れちゃやだっっ!」

「だ、大丈夫! お父さんは大丈夫だから! ひよりんたちのことはちゃんとわかるよっ!」

「えっ、えぐっ! お父さんは記憶を取られちゃってるのっ! このままだと、ひよりんたちのことも…………きっと忘れちゃうんじゃないかって、ひっく!」

「私の……記憶を?」


 言われてみると、確かにアイネは先ほどにもまして心の中にぽっかりと、何か大事なものを失った穴が開いているような気分になっていた。

 そしてそれは、アイネが感じた二度の悪寒と無関係ではないだろう。

 アイネはようやく事の重大さに気が付き、不安の余りおもわず泣きじゃくる妹日和を強く抱きしめてしまった。


「よかった………本当に、よかった………」

「ふぇ……お父さん?」

「ひよりんたちの記憶を奪われていなくて、本当に……よかったぁ」


 ひょっとしたら、そんなことよりももっと重大なことを忘れているのかもしれない…………そんな気がしつつも、アイネは目の前の少女――――日向日和のことが記憶に残っていることに安堵した。

 そして妹日和もまたアイネが自分たちのことをまだ覚えてくれていたことがとても嬉しかった。嬉しくて嬉しくて、また泣いた。


 異変が起きた直後、妹日和はすぐにアイネが何者かの攻撃にさらされ、そしてその攻撃は「記憶を奪う」性質のものであると結論付けた。そうしている間にも二回目の攻撃にアイネが晒された。妹日和はアイネが自分たちのことさえ忘れてしまう可能性があると思い、すぐに行動に移ったのだった。

 アイネに忘れられてしまったら生きていけない――――妹日和の危機感は、大胆な行動となって表れた。そのおかげか、しばらくしても悪寒は襲ってこない。


「あれ? そういえばお姉ちゃんは?」


 アイネはふと、双子の片割れ……姉日和がいないことに気が付いた。

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