九章 2
道化が広場をよこぎっていく。
ワレスはまだ追わない。道化師が通りに入っていくのを待つ。こっちは目立つ金髪だ。昼間の尾行には向いてない。
道化師は広場を出ていった。
ワレスは尾行を開始する。
早く、見通しの悪い細い路地へ入ってくれないだろうか。そうしたら、いっきに間合いをつめるのに。
つけていくあいだ、しだいに気持ちが高ぶっていく。
(まちがいない。昨日の男だ。あの背格好。歩きかた。おれが昨夜、とり逃がした男)
道化の笑い顔を描いた仮面をつけている。はたして、その下の素顔はどんなものだろう。
ワレスの知ってる顔ではないのか?
楽器をかなでるあの技量。
有り金をまずしい者にあたえる慈悲深さ。
それは、ワレスの知る伯爵そのものではないのか。
(伯爵なんだろう?)
はやる気持ちをおさえ、ことさら慎重につけていった。
道化はせまい道を何度もまがり、こみいった下町へと入りこむ。ごみごみして見通しが悪い。もっと近づかないと見失う。
ワレスは道化が路地を折れるのを見て、距離をつめるために走った。まがる前に道化の行方を確認しようと、のぞいてみる。
そのとたん、ギョッとする。道化が、ワレスの鼻先に立っていた。
「さっきのお客さんだね。ずっと、おれのあとを追ってたね?」
ワレスは腹をくくった。
「ああ。その仮面をとってくれ」
道化は考えこんでいた。
やがて、無言で仮面に手をかけ、はずす。涙の粒と笑み口を描いた作りものの顔が、道化のおもてから離れていく。
ワレスは期待して見つめた。その下から、肖像で見た美貌が現れるのではないかと。
だが——
その素顔を見て、ワレスは失望した。違う。伯爵ではない。きれいではあるが、十人並みだ。
ワレスはうなった。
(違うのか。しかし、昨夜の男はまちがいなく、こいつだ)
ワレスが考えこむうちに、道化師は去っていった。
*
広場に帰ったワレスは、ジェイムズと合流し、あらためて乳母の家をめざした。
乳母の住む小館は、城下町の郊外にあった。以前は狩り好きな先代伯爵が、狩りのさいの休憩所として使っていたものだ。
約束もなく急におとずれたが、乳母のマリットは在宅だった。ふっくりした、可愛らしい印象の初老の女だ。若いころもきわだった美人ではなかったろう。だが、マリットにはただの乳母という以上の教養が感じられた。聞けば、乳母になる前は、当時の奥方の侍女だったという。
「さあ、こちらでお茶でもどうぞ」
庭の見える客室に、ワレスたちを案内する。
「この屋敷に若いかたが遊びにきてくださるなんて、何年ぶりでしょうね。そうそう。以前、若さまがいらしたのが最後ですよ」
ワレスはさっそく、たずねる。
「伯爵がここに遊びにきていたのですね?」
「ええ。以前はよくおいででしたわ」
「最後にお見えだったのは、いつですか?」
「そうねえ。一年か二年前かしら。なんだかご満悦でしたよ」
マリットはワレスたちの前に茶器を置きながら、なにげないようすで答える。マリットにとっては意味のない言葉だったろう。だが、ワレスはその意味の重大さに考えこむ。
ご満悦……自分が幽閉した間男のもとへ、毎晩、愛する妻が通うのを黙認している男には、ふさわしくない言葉だ。
「ご機嫌だったのですか? なぜだか理由がわかりますか?」
「ひとつには、シオンさまの六歳の誕生日が近かったからです。お祝いの宴を盛大にひらくつもりだと、嬉しそうにおっしゃってました。ああ、そうですわね。シオンさまが六つなら、二年前のことですわ。二年前の春です。こんな贈り物を用意していると、品物をひとつひとつ、指折り数えていらっしゃいましたわ」
「えッ」と、ジェイムズが彼らしくなく、ぶしつけな声をあげる。
もちろん、昨夜、エベットから、シオンはマイルズの子だと聞いたせいだ。ワレスはデーブルの下で、ジェイムズの足をけりあげた。
「伯爵はずいぶん、ご令息を可愛がっていたのですね」
「それはもう目のなかに入れても痛くないというのは、あのことですわ」
そう言ったあと、マリットは首をかしげた。
「そう言えば、あのとき、若さまはおかしなことをおっしゃっておいででした。そのお誕生日会で、みんなを『あッ』と言わせてみせると」
「宴を盛りあげる趣向を考えておいでだったのですね?」
「そうなんでしょうね。若さまは、あれでけっこうイタズラ好きでしたよ。お小さいころからね。息子といっしょになって、わたくしを困らせたものです」
ワレスは息をのんだ。
そして、マリットの言葉尻を追求しようとしたとき、小間使いがやってきた。
「奥さま。ジョーナスさまがお見えです」
「今、お客さまなのに。でも、ちょうどいいわ。こっちに来るように言っておくれ」
マリットは機嫌よく言った。が、小間使いは妙な顔をして、女主人に手招きした。しばらく耳打ちされていたマリットは、急に真顔になる。
ワレスたちに向きなおると、
「ごめんなさいまし。少し、お待ちいただけますかしら」と言って中座した。
ジェイムズがしびれをきらして、ワレスの肩をゆさぶってくる。
「ワレス。伯爵がシオンを可愛がってたって。どういうことなんだ?」
ワレスはジェイムズのようすに笑みを誘われた。前にも思ったが、やっぱり、ジェイムズは犬っぽい。
「たぶん、その答えは昨夜の奥方の話のなかにある。よく思いだしてみろよ」
「君と私じゃ頭のできが違うんだよ。教えてくれてもいいじゃないか」
「じゃあ、たとえばだ。おれが結婚前のジョスと親しかったと仮定して。ジョスが結婚した直後、わたくしと逃げてくださいと言われたとする」
「ジョスはそんなタイプじゃなさそうだが……」
「そこは、つっこまない。おれがジョスに『侯爵に悪いから、たまに会うだけでいいよ』と答えたら、おまえ、おれをどう思う?」
「君はジゴロだから、それがいつもの手口なのかな、と思うよ」
「そうだろ? そこが問題なんだ。伯爵もそれに気づいたんじゃないかな」
ジェイムズは難しい顔になって考えこんだ。
「……というと、もしかして、マイルズは」
「ああ。ジゴロだったんだ」
話してるところに、マリットが帰ってきた。しかし、どうしたことか顔色が悪い。
「悪い知らせでもありましたか?」
「え? いえ、大丈夫ですわ」
なんだか態度まで急によそよそしい。
そのあと、お茶を飲みながら話したが、マリットの口はかたくなってしまっていた。何もひきだせない。
これ以上は、いてもムダだ。ワレスたちは早々にいとまごいした。
「今日はありがとうございました。とても楽しかったです」
「あら、そうですか。また、いらしてくださいね」
口先だけの別れのあいさつをかわす。
マリットはワレスたちを見送って、玄関までついてきた。そのとき、マリットはろうかの飾り棚の上の家族の細密画をさりげなく倒した。
ワレスは気づかぬふりをしたものの、城へ帰るあいだ、マリットの態度の意味を考えた。
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