第156話 夢で夢見る… 参~髪結異聞録 終~
「さて、行き……」
立ち上がって「行きんすか」と言いかけたとき、ふっとあたしの頭をめまいが襲った。
くらりくらり。
天井と床が入れ替わって見える。あれ? こんな景色、確かに見た。そうだ、歌舞伎町の交差点で――。
あたしは、地面に横たわっていた。
そしてそこから、空を見ていた。
え、ちょっと待って。あたし、あのとき。
鼓動が早くなる。目線の端に、阿嘉也さんが残したキーチェーンが見えた。
そうだ、思い出した、あたし、あのとき――!
目の前が暗転する。
視界が黒く塗り替えられて……それが明るくなったとき、あたしの目の前には阿嘉也さんがいた。
「その通りですよ、花魁」
あたしが立っているのは歌舞伎町の交差点だ。
そしてあたしは――道路に横たわる自分を見下ろしていた。
目を閉じた『あたし』のおなかのあたりからは血がたくさん流れていて、その横で女の子とそのお母さんらしい女の人が泣いている。
「ようやく、思い出されたのですね」
「……うん。あたし、死んだんだね……」
「それには多少誤解が。花魁はいまここで生きておられます」
「でも、歌舞伎町の杏奈は、あのとき」
それは出勤前、店に向かって歩いているときのことだった。
目つきのおかしい男が、あたしの横を歩くちいさな女の子に駆け寄っていく。その手にはナイフ。あたしは咄嗟にそいつの腹にパンチを入れて……女の子に「大丈夫?」って聞いたとき、背中から刺されたんだ――。
あたしは女の子を庇うのに夢中だった。だから、刺されたことも気にしないでとにかく裏拳をかまして、そいつが地面に倒れたところを思い切り蹴り飛ばした。
でも……そこまでだった。全身の力が抜けて、ずるずると地面に崩れていく体……その男がまわりの人に取り押さえられたのを見たら、安心して目も開けられなくなって……。
「そこで、あたしはあなたに会った」
「はい」
「ここでそのまま死ぬか、生きて、ここではない場所で先のわからない未来に飛び込むか、どっちか選べって」
「その通りです」
「あたしはもちろん、生きる方を選んだ」
「あのときの花魁は、たいそう潔かった」
「生きるか死ぬかなら、生きる方を選ぶでしょ、普通」
まさか、江戸時代に飛ばされるとは思わなかったけど。そう付け加えてあたしが笑うと、阿嘉也さんもつられたように笑った。
「そういう方だから、私は山吹花魁の生をあなたに預ける気になった」
「……じゃあ、本物の山吹はどこに行ったの?」
「山吹花魁は、隠されていましたが、死病を得ておいででした。ご覧の通り、私にはちょっとした力がありますからね。夢の中に入れていただいて、山吹花魁に聞いてみたんですよ。『もしまだ生きられるならなにをしたいか』と」
「それで?」
「すると山吹花魁は『未来が見たい』とお答えになった。私も長い間こういった商売をしていますが、そんな答えをした方ははじめてでした。私も、花魁とともに未来が見たくなりました」
阿嘉也さんがふっと遠くを見る。
「しかし、山吹花魁から死病を取り上げることはこの世の
阿嘉也さんの口調は独特だったけど、あたしにはなんて言いたいかわかる気がした。
つまり、種痘をしたとき、お殿さまの家臣と一騎打ちをしたとき、そのほかたくさんのとき、あたしにはいつだって命を落とす可能性があったってこと。
でもあたしはそれを乗り越えてきて、今も生きてる。
それが、一を二にするってことなんだよね?
「あなたを見ているのは本当に楽しかったですよ。これが山吹花魁の言った『未来』ということか、と何度も思いました。なかなか説明にお伺いできず、申し訳ありませんでした。あなたがすべてを思い出すまでは、言うわけにはいかなかったんです。それが世界のルールですから」
「そんなことも、あのとき言ってたね」
「ええ」
阿嘉也さんが微笑んだ。
そうだった。あのとき約束したんだっけ。
『時間軸の移動であなたは私を忘れるでしょう。けれど、また思い出したとき、私はあなたにもう一度説明しに行きます』
「あなたを選んで本当に良かった。山吹花魁もそう思っているでしょう」
阿嘉也さんが手を差し出す。ああ――握手、したいんだ。
あたしはその手を取って強く握りしめた。
「ねえ、阿嘉也さん、あなたって本当は……」
そう問いかけたあたしの唇を、阿嘉也さんの人差し指が「しーっ」の形で塞ぐ。
「私はただの、気まぐれな髪結いですよ。努力をし、前を見つめる人がとびきり好きな、ね」
そして、阿嘉也さんがぱちんと指を鳴らした。
あたしの周りの歌舞伎町の風景がふわふわと霞んでいく。
阿嘉也さんの姿も揺らぎはじめていた。
「私たちが話すのはこれで最後のはずです。でも、これからも、私はあなたの未来を楽しみに見守っていますよ、杏奈さん」
「阿嘉也さんも……!」
あたしは消えていく阿嘉也さんのその姿に手を振った。
阿嘉也さんの言葉通り、あたしたちはきっともう会うことはないだろう。
直観だけど、あたしはそう思った。
だから、あたしに未来を、可能性をくれたこの人に、精一杯の感謝を込めて。
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