第148話 いとしいとしと呼ぶ声は 拾参
その夜、お殿さまはいつもより早く帰っていった。
すこし寂しそうな背中。
でも、あたしにできることはもうない。
甘い言葉も、蕩けるような慰めも、今日だけは全部嘘になってしまうから。
だからあたしは、ただその背を見送る。
次に会うときは笑い合えることを信じて――。
「山吹」
背後から呼びかけられてあたしは振り向く。
そこにいたのはお内儀さんだった。
「お殿さまにはきちんと説明したのかい」
「あい」
「……まあ、仕方のないことだよ」
お内儀さんの手があたしの肩を叩いた。
「この吉原じゃ良くあることだ。変に情をかけるのはやめなあね。そんなことをしたらお殿さまの気持ちを踏みにじることになる」
「承知で……おりんす」
「ならいい。もしまた来たら、うんと優しく迎えてやりな」
そこまで言って、お内儀さんが声を潜めた。
「土屋さまのご家中のお武家さまがあんたに会いに来てるよ。先客がいるからと断ったんだが、いつまでも待つと言ってねえ。相手が相手だから、追い返すのはあんたに聞いてからにしようと思ってさ。どうする? 会うかい?」
え……なんなんだろう……。土屋さまからは手紙とかなんも来てないし……。急ぎの用事かな?
でも悩んでも仕方ないよね。相手から来てくれたのも逆に好都合だし。こんなん会う一択でしょ。
「あい。会いんす。わっちはすぐに座敷に戻りんすゆえ、そのあと通してくんなんし」」
※※
座敷に戻ってあたしは上座に網を打ったけど、いまいちなんか落ち着かない。土屋さまとか、普通のお客さまを迎えるのとはまた違う感じで緊張する。だって来る意味わかんないし。
座敷の前で立ち止まる足音が聞こえた。
あたしはそれを促すように、「お入りなんし」と声をかける。
座敷の襖がするすると開く。
そこにいたのは、初老の男の人だった。
白髪交じりっていうより、白髪多めでグレーヘアって感じ。年齢は六十代前半かな? 目がめちゃくちゃ真面目そう。
その人が襖の前で立ったままでいるので、あたしはもう一度「お入りなんし」と繰り返す。
それでようやく、その人は動き出した。
おずおずと座敷の中に踏み込んで来て、ゆっくりとあたしの前に座る。
「ござんせ。……お内儀から土屋さまのご家中の方と聞きなんした。
「はい。殿からあなた様のことはお聞きしました。わたくしは
「これはこれは。富士殿とお呼びしてよろしゅうおりんすか」
「いかようにでも。して山吹殿」
「あい」
「はじめに申しておきますが、これはわたくしの一存です。殿のお気持ちではございません。そのことを念頭に話を聞いていただきたい。……あなた様のような世界に生きられた方は、堅実な土屋家のご家風に馴染まないこと必至。殿をお思いになる心があるのならば、これをお収めになり、落籍の話をお断りくださいませ」
そう言いながら、富士さんが風呂敷包みを差し出してくる。
「これは……」
「どうぞ」
重ねて言い募られて、あたしは仕方なくそれを開く……わ、小判! 超金!
「あなた様からすれば涙金かもしれませぬが、わたくしからすれば大金でございます。土浦は豊かな土地ではありません。土屋のお家も同じ。まこと悔しいことではございますが、あなた様のような贅沢なお暮しの方を受け入れる余裕はありませぬ」
「な、なにを……」
え、いやマジでなに言ってんのこの人?
あたしは土屋さまのところに行っても贅沢なんかする気ないし、そもそも歴女的に藩の財政のことは良く知ってるから、土浦藩に贅沢とか期待してないし。
「よろしければ、良い口の身請け先も紹介いたします。相当の暮らしができてうるさく言う者もない、あなた様が満足するような場所を世話しましょ……」
「……富士殿、わっちをお舐めでないよ!!」
あたしは完全に頭に血が上っていた。
なんでこんなこと言われなきゃいけないの?
あたしは土屋さまが好き。それだけ。お金なんかいらない。そんなものが欲しいなら、土屋さまを選んでない! お殿さまだって、徳之進さんだっていた! でもあたしは土屋さまがいいの!
「贅沢のために身請け先を選ぶなら、もっといいお方があまたおりんした! ええ、この国ひとつ買えるようなお方もおりんしたえ。それはけして嘘偽りではござんせん! これを! これをご覧なんし!」
あたしはあたしの持ち物を富士さんの前に並べる。
純金の火掻き棒を筆頭に、仕掛、硯、かんざし……どれも誰が見てもわかる高級品だ。
「わっちはこれらすべてを捨てて、土屋さまのところに参るのでありんす!」
部屋がしんと静かになる。
富士さんは、いまにもきらきらと光を放ちそうな品々をじっと見ていた。
「……それは……なおさら忍びない。このような見事な数々……」
うつむいた富士さんの顔からこぼれたのは、意外な言葉だった。
あたしの怒りの矛先がなんだかしゅんとなる。
あたし、向かってこられると強いんだけど、態度を柔らかくされると弱いんだよね。怒り続けられなくなっちゃう。
「されど……当家には本当に余裕がないのです。あなた様にそのような気がなくとも、そう見る者が多いということを理解していただきたい」
富士さんが深々と頭を下げる。
あたしは戸惑っていた。
冷静になれば、富士さんの気持ちもわからなくはない。
土浦藩は譜代とはいえ、水害に悩まされ続けて、藩に領民のお救い米所が設置されたくらいだ。花魁のあたしが行ったりしたらきっと反発はある。こうして訪ねてきてくれて、頭を下げてくれた富士さんなんかマシな方なんだろう。
えーと、じゃあどうしたらいい?
ただ悩んでるなんてあたしじゃない。立ち止まるより、一歩でも前に進める努力を。
……ピコーン! そのとき、久しぶりのラインスタンプが頭の中にひらめいた。
「ではもし、わっちが自分で自分の食い扶持を得るやり方を新しく考えることができんせば、土浦に参りんしてもよろしゅうおりんすか」
「は、それは、まあ」
「ならばそのやり口を考えんしょう。今すぐというわけにはいきんせんが、必ずなにやら見つけてみせまする」
「しかし……」
「藩のみなさま方にわっちの本気をわかってもらういい機会でもありんす」
あたしが身を乗り出すと、富士さんは体を反らす。
でもかまわない。
乗り越える壁があるなら、よじ登ってでも、壁をぶち壊してでも進むのがあたしだ。しかも今回はその先に推しなうえに好きな人がいるんだから。
「それでは、いい手を思いつきましたら文を書きんす。所書きはこちらへ」
富士さんの連絡先を紙に書いてもらい、とりま今日のところは帰ってもらうことにする。
なんだか、まだなにか言いたそうだったけれど、そんなことは気にしない!
きっと富士さんみたいな人はたくさんいる。そんな人みんなにうなずいてもらうために、あたしは頑張るんだ。
<注>
江戸家老:江戸の藩邸に詰めていた家老です。国元には国家老がいます
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