第122話 異国嫁取物語~番外~その日の牡丹の胸のうち

 こんなにも幸せでよいのでしょうか。

 チェスター殿のお言葉にうなずいた私は、ふと、自分に問います。

 ここに来るまでのことと、きっとこれから待ち受けること。

 そのわからないことだらけの中で、はっきりしているのは、私はもう、花魁の牡丹ではない、ということだけです。


 私は、牡丹は、不義の子です。

 てて親の顔も知らず、かかさまの顔もろくに知らぬうちに売られた娘です。

 気が付けば、巳千歳ここにいました。

 お内儀さんを怖いと嫌厭けんえんする娘も多うございましたが、私は、物事をはっきり言いなさるお内儀さんが嫌いではありませんでした。

 わけもわからぬうちに、私をいないものにしようとした生家の人々より、厳しくとも、禿かむろとしてよく務めれば褒めてくださるお内儀さんと姉女郎の玉蘭ぎょくらんどんの方が、よほど優しく思えました。

 ええ……玉蘭どんはほんに優しい方でおりました。しょや歌ばかり達者でも、舞の苦手な私に手取り足取り踊り方を教え……私が吉原でも老舗の巳千歳で、三番手を張ってこれたのも、玉蘭どんのおかげです。

 山吹花魁のように華やかでも、桔梗花魁のように美しくもない私でしたが、舞の足取りだけは仙女のようであると、よくお客さまに褒めていただいたものです。


 ただ、玉蘭どんのことは、私の中の恐れでもありました。


 私が一本立ちしたあとしばらくして、玉蘭どんはさるおいえのご家老ののちえとして身請けされました。

 後添えとはいえ、名のある大家たいかの正妻として迎えられ、あのころの玉蘭どんは光り輝くように笑っていたものです。

 そして、私にも「せいいっぱい勤めれば、必ず報われんすよ」と、仕掛や硯、そのほかこまごましたものをお譲りくださったものでした。

 ……いまでも、あのときに玉蘭どんから頂戴したものを私は大切に持っております。

 そして玉蘭どんは盛大な行列で巳千歳を離れ……それで終わりましたらどんなにか良かったでしょう。絵草子のように、ひいさまは幸せになられました。そんな言葉で終われたら……。


 私は、お客さまの口伝えで、した玉蘭どんが屋敷の井戸に身を投げたことを知りました。


 玉蘭どんは先妻のお子に「卑しい女」「端女はしため」「おまえのような女が継母ではさいの来てもない」とさんざ罵られ続け、はじめは玉蘭どんを庇っていたご家老も、お世継ぎの若君にそう依怙地になられてはどうもできず、次第に玉蘭どんを疎んじるようになり……。なまじご家老を想っておられた玉蘭どんは、とうとう儚くなられたそうです。


 涙が、止まりませんでした。


 歯がゆさと、悔しさと、好いた男といられると喜んでいた玉蘭どんへの悲しみに……。


 チェスター殿のところから逃げようとしたのは、玉蘭どんのことを思い出したからです。

 私は不義の子。玉蘭どんとは比べようもないほど卑しい身。チェスター殿はエゲレスのお公家さま。きっとチェスター殿が私を好いてくださるのは熱病のようなもの。

 その熱が冷めたとき、傍らに侍るのがひいさまでなく、親もろくに知らない田舎娘だと気づかれたら……そのときのチェスター殿の顔は、見たくなかったのです。


 けれど、チェスター殿はそんな私を迎えに来てくださいました。チェスター殿の髪の色も目の色も、人目を引くのはよくわかっています。それが、供回りも連れず、たった一人で巳千歳ここまで。本当に、なんという勇気、なんというご覚悟。


 だから、私も決めました。


 これから先、なにが起きるかはわからない。でも、チェスター殿をひたぶるに信じよう。どんな苦難が待っていても、チェスター殿がそばにいる限り、けして逃げずに立ち向かおうと。

 姿を消すのは、チェスター殿のお心がはっきりと変わってからでもできる。

 ならば、いまできることを成し遂げようと。


 それが、幼き頃に帰る家をなくした私に、帰る場所を作ると言ってくださったチェスター殿への、私ができる唯一のことだと思うのです。

 私が笑うと、チェスター殿も笑います。

 私はしばらく山吹花魁のことも忘れ、うっとりとその腕の中にいました。

 




<注>

嫌厭けんえん:マジうざくて嫌い

後添え:後妻

さんざ:さんざん

端女はしため:下女、下級召使。下働きの女性をさす言葉の中でも特に強いもの。女性へのめちゃくちゃにひどい悪口です。絶対に言っては駄目です。

ひたぶる:マジパなく一途






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