第88話 小夜鳴鳥は囀らない 七
そんな感じであたしは無事戻ってきました!巳千歳に!
とりあえず帰楼して、また落ち着いたら小夜さんや徳之進さんからお礼があるって……揚げ代をもらってるから別にいいのにな。
「お内儀さん、山吹、帰りんした」
「ああ、お帰り」
「留守の間はなにもござんせんか」
「ないよ。安心しな。ああ、今日は松平のお殿さまが来るそうだよ。帰ってきたばかりで悪いが頼むよ。まったくあの殿さまはあんたに夢中だねえ」
「それは
「どんな料理だい」
「薄く切った山吹焼に砕いた麩をまぶして揚げ焼きをいたしんす。コトレッタという名で、たまり醤油をつけると白い飯によう合いんす」
「そりゃいい。酒の〆には飯を食いたがる客が多いからねえ」
「お殿さまの口に合うようならば皆にも出してくんなんせ」
「言われなくてもそうするさ。そうそう、桔梗に礼を言っとくんだよ。あんたが留守の間、桜と梅の面倒を見てくれた。あんたが公方さまのところに上がってるのを知ってるのは、廓でもあたしと亭主とやり手だけだからね。うまく話を合わせるんだよ」
「あい。ようわかりんした」
「ところでその南蛮の料理はどこで味見したんだい?」
「
「……は?」
かちん、とお内儀さんの手から煙管が落ちた。
「あれ、お内儀さん、火、火!」
「なんてこった……恐れ多い……ああ……あたしゃなんて言ったらいいのか……息が止まる……」
「な……っ!息を止めちゃあなりんせんえ!」
急いで煙管を拾ってから、お内儀さんの背中をとんとんと叩く。
「ああ、ああ、もう大丈夫だよ。……さすがに『公方さまもお喜びの料理』って出すわけには行かないだろうねえ。いつも通り、あんたの好きな南蛮料理ってことにすりゃあいいか。はあ……うちの売り上げはうなぎ登りだが……その前にあたしの心の臓も止まっちまいそうだ」
手渡された煙管を口にして、息を整えたお内儀さんがふーっと深く煙を吸い込んだ。
※※※
「お疲れさまでござりんした」
「無事のお帰り、まっこと嬉しゅうおりんす」
桜と梅が三つ指をつく。
その二人に顔を上げるよう言ってから、あたしは後ろに控えていた桔梗に頭を下げた。
「桔梗殿、万事ご手配ありがとうござりんした」
「別に礼を言うことでもなさしんす。わっちは昨晩はお茶挽きでおりんしたからな。されど山吹殿も大変でござんすなあ。客に茶屋から帰してもらえぬとは」
「……良い人柄の客でしたが、ずいぶん酔っておりんしたゆえ。これからわっちの馴染みになりんすので、今後もこたあことがあるやもしやんせん」
「よござんすよ。お茶挽きのときなら二人の面倒をみささんすくらいやぶさかではござんせん。されど、その客があんまり横紙破りなら、お職の鉄火山吹らしくびしりと言いなんせ」
「あい。よおく心得ておりまする」
そんな感じであたしは自分の座敷に戻り、ふと、文箱を開ける。
その中に大切にしまってある土屋さまからのお手紙……あたしはそれを胸に抱きしめた。小夜さんが安心院さんを一途に思う目を見たら、どうしてか土屋さまのことが思い出されて仕方なかった。元気に、なさってるかな……。
この気持ち、なんなんだろう。胸がぎゅっとして……よくわかんないけど……会いたいな、土屋さま……。
※※※
「山吹、久しぶりだの。近頃は忙しくてな、ようやく来れたわ!会えて嬉しいぞ!」
その夜、登楼してきたお殿さまが、満面の笑みであたしの前に現れる。
「わっちこそ。のう、この会いたしと思う心はどこから来るのでござんしょうな……」
お殿さまに微笑みかけながら、頭に浮かぶのは文箱の中の土屋さまの手紙。
本当に、この気持ちはどこから来るんだろう?
感情なんて脳の出す電気信号だって習ったのに、いまはどうやってもそうは思えない__。
「心の臓じゃ!わしの体の真ん中で、山吹、山吹、と打ち鳴らしておる!」
自信満々に言うお殿さまに、あたしは思わず吹き出してしまった。いいなあ。このわかりやすさ。うらやましいかもしんない。
「なにを笑う。わしは本当のことを言ったまでだぞ」
「これは申し訳なきことでござんした。されどの、わっちはお殿さまを見ると顔がほころびささんす。ほら、これこのように……なにもお殿さまを笑ったわけではござんせんえ」
嘘じゃない。この、しょーもなくて可愛いかよ!の人といると、あたしはつい笑っちゃうから。まあ、それが恋愛かどうかと聞かれたら、たぶん違うけど、ね。
「さ、もっと臓腑に火をつけんすために、一献」
杯にお酒をそそいで、あたしはお殿さまに体を近づける。
まだなにも飲んでいないのに、お殿さまの顔が赤く染まった。
「わっちの考えた新しい料理もありんすえ。今晩はわっちとゆっくりと……」
杯を手にしたいお殿さまの手首に、あたしは人差し指と中指を巻き付ける。そしてそのまま、きゅっと力を込めて握るようにした。
お殿さまの顔がさらに赤くなる。
「し、仕様のない娘であるな、山吹は。わしがいなくて寂しいなら寂しいと素直に言えば良いのだ。ああ、わしは寂しくなどないからな。そなたに会いたくて会いたくて政務を必死で片付けなどしていないからな?」
「あいあい。よおくわかっておりんすよ。お殿さまこそ、ほんに仕様のない人でおりんすなあ」
やっぱり可愛いかよ!と、ぽふぽふとお殿さまの背を叩き、あたしも自分の杯にお酒をつぐ。
結局あたしの気持ちの名前に答えなんか出なかったけど、それはともかくとして、この人といると楽しいし、土屋さまには会いたい。それだけははっきりしてる。だから、いまはまだそれでいいじゃん、とあたしは思った。
※※※
そして朝。お殿さまご一行を大門まで見送って、あたしが廓まで帰ってきたときだった。
「山吹!」
お内儀さんが焦ったような声であたしを呼ぶ。
んー?どしたんー?
手招きされるままにあたしは内所に入り、お内儀さんの向かいに腰かけた。
「いかがなさんした」
「御城から急ぎのお召しだよ!」
え、え、ええー!!!
だって帰って来たばっかじゃん! それを急ぎとか、なにがあったん?! つかマジ?!
<注>
横紙破り:めちゃくちゃ。常識外れなことです
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます