第60話 悪しき蒼い梅の季節 終劇

 そのあとの桔梗に迷いはなかった。


 さくさくと優雅ともいえる調子で大量の海苔を食べ、石見銀山もさっと飲み干し、椿ちゃんが持ってきた白湯をこくりこくりと口に運ぶ。


 いいじゃん!さすがうちのライバルだよ。

 こういう女じゃなきゃあたしだって勝負したくない。


「さて、これでかさが治りんすか」


 言葉と一緒に湛えた桔梗の花魁らしい笑みには自信の色さえある。

 こんなときにあたしが言うのも変だけど、いま、すごくいい女だよ、桔梗。


「一度では無理でござりんす。日に一度……そうさな、それを十と四日、この刻限に」

「ずいぶん長ぅおりんすなあ」

「瘡が体に出てから出養生しても同じほどでありんしょう。まあ、わっちに賭けてくだしんせんか。瘡が出ればわっちの負け、出なさしんすばわっちの勝ち。……知っての通り、わっちは負け知らずの女でありんすえ」

「あれ、生意気なお職でありんすこと。ならばわっちも負けてはおらんせんな。この賭け、桔梗花魁、乗りんした」


 ことんと白湯の椀を茶托の上に置いて、桔梗はいつも通り、ツンデレてくれる。


 それとは反対に……ごめん、わたしは不安を隠すために笑ってる。

 ヒ素の無毒化は海苔のシアノコメコバラミンで成功した。

 だけど、その副産物がどれだけ体内でサルバルサンに近づくか……本当なら自分の体で試せればよかったんだけど……種痘のときみたいに。


 でも、何もしないよりはいい。


 あたしは胸の中で繰り返す。


 でも、何もしないよりはいい。


 桔梗の梅毒をそのままにしておけば間違いなくどんどん進行する。最後は舟饅頭ふなまんじゅうや夜鷹まで堕ちるかもしれない。

 それじゃ、あたしは江戸で初めてできた最高のライバルを見捨てることになる。

 そんなの鉄火のアンナのすることじゃない。


 そうだよ、あたしは、肩の関節が抜けたってビルから落ちそうな仲間は助けたじゃないか。

 生きて帰れないかもと思ってもダチのためなら一人でカチコミに行ったじゃないか。


 可能性がコンマの彼方でも、なんにでも立ち向かってきた。


 ヤンキー時代もキャバ嬢時代も。


 だからあたしはいつも天下を取れたんだ。


「ただ、桔梗殿、体に障りがないか変わりがないか、日ごと話してくだしんす。さすればわっちにも心得がありんすれば」

「わかりんした。山吹薬師殿に従いんすよ。あとは何やらござりんすか」


 桔梗がふふっと笑う。


 それに「ござんせんよ」と答えて、桔梗のことを頼まれたお内儀さんにも「しばらくは見ざる聞かざるでいてくだしんす」と頼んで___。


 あとは、二週間後。




                  ※※※




 

 しばらくの間、桔梗のリンパ腺のしこりに変化はなくて、あたしはもうダメかと思いもした。


 でも……ちょうど七日目、「山吹殿、しこりが小そうなりんした」と小声で桔梗に告げられて……それからは加速度的にしこりは小さくなり、二週間後にはすっかり消えていた。そのあと、心配していた瘡が浮き上がることはなかった。


 てことはつまり……。


「勝ちんしたなあ」


 桔梗が嬉しそうに笑う。


「これでわっちも石見桔梗いわみぎきょうですえ」


 あ、うん、それはいーんだけど。


 て、マ?!


 もしかしてあたし、梅毒治しちゃった人世界第一号?!






<注>

瘡:梅毒そのものを指すことも、梅毒により体にできるバラ色の発疹を指すこともあります。わかりづらい箇所があればご指摘ください。

カチコミ:ヤンキー用語。敵対組織の事務所を襲撃することです。たいていはやむを得ない場合に少人数で行います。

舟饅頭:小舟の上で客を取る、夜鷹と料金の安さを争う最下層私娼。資料散逸につき、のちほど詳しく記述します。最下層の私娼であるゆえ、老婆や梅毒で落ちた鼻を蠟で作り商売に出ている女もいました。

ただ「ぼちゃぼちゃのおまん」など、ここにもどうしてここまで堕ちなければいけなかったのか不明な美女もいました。


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