第140話 仔猫と、はつ江さん・その四

 白い雲が浮かぶ青空。


 朝餉の香りがこぼれるレトロな木造住宅たち。


 微かに聞こえる波の音。

 

 ここは海の近い大きな街。


 そんな街に建ったとある一軒の家の中で、セーラー服の上着にもんぺ姿の少女が朝食をとっていた。その隣では、サバトラ模様の仔猫が、越前焼の小皿でイワシの頭と尻尾をかじっている。仔猫の側には、端切れを縫い合わせて作った、小さなネズミのぬいぐるみ。


「縞ちゃん、おいしい?」


 お下げの黒髪を揺らしながら、笑顔で尋ねる少女の名は深川 はつ江。

 天真爛漫、元気溌剌、仔猫大好きな十四歳の女学生だ。


「んに、んに」


 声を漏らしながら、イワシをかじり続ける仔猫の名は、縞。

 少し毛羽立ったフカフカの毛並みと、ピンと立った大きな耳と、シマシマな尻尾と、その他諸々の可愛らしさ満載な仔猫だ。


 縞はイワシを食べ終わると、皿から顔を上げてペロペロと口の周りを舐めた。それから、はつ江の方を向き、目を細めてヒゲをピンと立てた。


「にー!」


「ふふふ、おいしかったならよかった!」


 はつ江もニッコリと笑い、縞の首元をフカフカとなでた。すると、縞は目を細めながら、ゴロゴロと喉を鳴らした。


「はつ江、食べ終わったなら、早く片付けなさい。学校、遅刻するわよ」


 二人がじゃれ合っていると、台所の方から母親の声が響いてきた。はつ江は、分かった、と返事をすると、縞の頭をポフポフとなでてから、立ち上がった。


「じゃあ、縞ちゃん。学校にいってくるから、ネズミさんとお留守番しててね!」


「……に!」


 仔猫は短く一声鳴くと、側にあったネズミのぬいぐるみを咥えた。


「んに、んに、んに!」


 それから、声を漏らしながら尻尾を立てて、トトトトと小走りに部屋を出ていった。はつ江は微笑みながらその姿を見送り、食器を手にして台所へと向かった。



 その後、はつ江は足取り軽やかに街を抜け、通っている女学校へたどり着いた。


「みんな、おはよー!」


「うん、おはよう」

「おはよー」

「おはよ……」


 元気よく挨拶しながら教室に入るはつ江に、級友たちも挨拶を返す。


 それでも――


「はっちゃん、おはよう」


 ――隣の席で微笑む親友の姿はなかった。


 はつ江は少しだけ淋しそうに微笑むと、席について授業のしたくを始めた。


 それから、午前中は学校で授業を受け、午後は工場へ働きにでかけた。その間も、はつ江は級友たちや、工場につとめる大人たちと楽しそうに過ごし、あっというまに夕方になった。


 はつ江は一人で夕暮れの道を歩いていたが、不意に隣に顔を向けた。


「はっちゃん、今日も楽しかったね」


 そう言ってくれる親友の姿は、やはりない。

 はつ江は歩みを止め、自分の頬を軽く叩いた。それから、小さく、よっし、とつぶやくと、手を握りしめて、再び歩き出した。


「ただいまー」


「にー!」


 はつ江が家に着くと、今日も縞がトコトコと迎えにきた。はつ江は、ニッコリと笑うと、玄関を上がり縞を抱き上げた。


「ただいま、縞ちゃん! 今日も、いい子にしてた?」


「に!」


 返事をするように鳴く縞をギュッと抱きかかえ、はつ江は茶の間へ向かった。


「お母さん、ただいまー」


 そう言いながら襖を開けると、卓袱台の前に座った母親は、ビクッと肩を震わせた。それから、慌てて手にしていたハガキのような紙を懐にしまった。


「お帰りなさい、はつ江」


「うん、ただいま。お母さん、今のって誰かからの手紙?」


 はつ江が尋ねると、母親は顔を背けた。


「そうじゃないわよ」


「じゃあ、なんなの?」


「別に、あんたが気にすることじゃないわよ。ほら、ご飯のしたくしてくるから、それまで宿題でもしてなさい」


「あ、うん……」


「それと、防空頭巾の手入れも、ちゃんとしておくのよ、あんた、この間の隅の所がほつれてたじゃない」


「あ、そうだね、あとで直しとく」


 はつ江が答えると、母親は振り返り厳しい表情を浮かべた。


「そうやって、先延ばしにしない! 今すぐ直してきなさい!」


「わ、分かったよ」


 あまりの気迫に、さすがのはつ江はたじろぎながらうなずいた。すると、母親は表情を和らげ、必ずよ、と小さくつぶやいて、台所へ向かっていった。

 母親が部屋をでていくと、はつ江は縞の顔を覗き込みながら、首をかしげた。


「お母さん、虫の居所が悪かったみたいだね?」


「にー」


「縞ちゃんは、怒られたりしなかった?」


「ににー」


 はつ江の言葉を分かってか分からずか、縞はセーラー服のスカーフにちょいちょいとじゃれついた。その姿を見て、はつ江は頬を緩めた。


「それじゃ、お代官様に叱られる前に、お裁縫をしちゃいますかね!」


「にー!」


「ちょっと、お代官様っていうのは、やめなさいって言ったでしょ!」


 台所からは、母親の律儀なツッコミの声が響いた。


 そして――






  ジリリリリリリリリ!


 ――鳴り響いたベルの音に、はつ江は目を覚ました。

 見渡すと、今日もふんわりとしたベッドの天蓋と、けたたましい音を立てる目覚まし時計が目に入る。


 はつ江はどこか淋しげに微笑むと、目覚まし時計のベルを止めた。


「……さて、今日も一日がんばるだぁよ!」


 はつ江は元気よくそう言うと、ベッドの上でうーんと伸びをした。

 すると、部屋の扉がトントンとノックされた。


「はつ江、もう起きたか?」


 聞こえて来たのは、シーマの声だった。


「もちろん、バッチリ目が覚めてるだぁよ!」


 はつ江が大声で答えると、扉からは、そうか、という声が聞こえてきた。


「ボクももう着替えが終わったから、今日も朝ご飯のしたくを手伝うぞ!」


「あれまぁよ、それは、助かるだぁね! ありがとうね、シマちゃん!」


「べ、べつにこれくらい大したことじゃないだろ! そうそう、ボク一人でもちゃんとできるから、慌ててしたくして転んだりは絶対するなよな!」


「分かっただぁよ! ありがとうね、シマちゃん!」


 ツンデレるシーマに返事をして、はつ江はピョンとベッドから飛び降りた。 

 こうして、仔猫殿下とはつ江ばあさんのワチャワチャとした魔界の一日が、今日も始まっていくのだった。

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