第39話 ニューン
コケトリマルバッタに案内を頼んだシーマ十四世殿下一行は、樫村の家を離れて森の中のけもの道を進んでいた。けもの道は緩やかな上り坂になっていて、木の根や石でデコボコしている。そんな道を出発してから十五分ほど休みなく歩いていたためか、シーマの表情には疲れの色が見えている。
「なあ、モロコシ。後どれくらいなんだ?」
シーマは耳を軽く伏せて尻尾を垂らしながらモロコシに問いかけた。すると、モロコシは頭の上に載せたコケトリマルバッタを手に取り、顔の側に近づけた。そして、コケトリマルバッタが首を左右にカクカクと動かすのに合わせて、ピスピスと鼻を鳴らしながら頷く。
「シマっち、疲れちゃった系?大丈夫、大丈夫!もう秒でつくから!気分アゲてこうぜ!……だって!殿下、もうすぐだよ!」
「そ、そうか……」
疲れのせいなのか、モロコシの通訳のせいなのか、シーマはヒゲと尻尾をダラリと垂らして返事をした。その様子を見て、はつ江がニコニコとしながらシーマの頭をポンポンと撫でた。
「シマちゃんや、疲れたならおぶっていこうかい?」
「もう!子供扱いするなって言ってるだろ!それに、こんなデコボコした道でおんぶなんかしたら、転んじゃうかもしれないだろ!」
シーマが耳を反らして尻尾をパタパタと振りながら抗議すると、はつ江はカラカラと笑い出した。
「わはははは!悪かっただねシマちゃん!心配してくれてありがとね!」
はつ江がそう言うと、シーマは耳と尻尾をピンと立てながら腕を組んで、ふん、と鼻を鳴らした。そんな二人を見ていたチョロが、不意に蘭子に目を向けた。視線に気づいた蘭子は、おどおどとした表情で首を傾げる。
「どうかしましたか?チョロさん」
「あ、いえ。緑川のお嬢は、疲れていやせんか?アッシはバッタ屋さんの遠征で慣れていやすが、娘さんにゃこの悪路はつれぇかなと思いやして。なんなら、アッシが抱えていきやしょうか?」
心配そうな表情をするチョロに、蘭子は顔を赤らめながら首をブンブンと横に振った。
「いえいえいえ!お気持ちはありがたいのですが、大丈夫です!こ、こう見えても日々鍛えていますから……」
「おお!そいつは頼もしいでございやす。でも、なんか助けが必要なときは、すぐに言ってくだせぇ。緑川のお嬢の頼みなら、アッシはいつでも力を貸しやすぜ!」
チョロがそう言ってニカッと笑うと、蘭子はたじたじとしながら、ありがとうございます、と呟いた。
そうこうしているうちに、けもの道の先に開けた場所が見えてきた。途端に、コケトリマルバッタがパサリと翅を動かしてから、モロコシの頭に跳び乗った。
「いぇあ!到着、到着ぅー!……だって!みんな、早く行こう!」
コケトリマルバッタの言葉を通訳したモロコシは、耳と尻尾をピンと立てながらシーマの袖を引っ張り駆け出した。
「こ、こら、モロコシ!あんまり急ぐと転ぶだろ!」
シーマは脚をもつれさせながらつられて走り出し
「二人ともまっておくれー!」
はつ江もトコトコと小走りに二人を追いかけ
「アッシらも急ぎやしょう!」
「は、はい!」
チョロと蘭子も駆け出した。
五人と一匹がけもの道を抜けると、そこには直径三メートルほどの灰色をした沼があった。それを見たコケトリマルバッタは、モロコシの頭から飛び降りて首をカクカクと動かした。
「ちょっ!マジで沼なんですけど!しかも、悲報!俺っぴが好きなコケ……皆無!」
「そうか……残念だったな……」
モロコシが驚愕した表情で通訳をすると、シーマは頬を掻きながら気まずそうな表情で、コケトリマルバッタに声をかけた。
「バッタさんや、元気を出しておくれ」
はつ江も心配そうに声をかけると、コケトリマルバッタはパサリと翅を動かした。
「シマっちも、ばあちゃんもありがとな!まー、バッタ界隈だとこういうことよくあるから、切り替えて元いた井戸に戻るわ!……だって、コケトリマルバッタさんありがとうございました」
モロコシがペコリと頭を下げると、他の四人もペコリと頭を下げた。
「世話になったな」
「バッタさんや、ありがとうね!」
「ご協力いただき、まことにありがとうございました」
「あんがとな!バッタの兄ちゃん!」
五人のお礼の言葉を受けると、コケトリマルバッタは首をカクカクと動かしてから、翅をパサリと動かした。そして、ピョンと跳び上がると翅を広げて来た道に向かって飛び立っていった。
五人はコケトリマルバッタを見送っていたが、姿が見えなくなると蘭子がクチバシに指をあてて首を傾げた。そして、沼の縁でしゃがみ込むと目をこらして水面を見つめた。
「多分、この沼が新しく水分を集めている場所なのでしょうが……」
蘭子がそう言うと、チョロも隣にしゃがみ込み、灰色の水面を覗き込んだ。
「普通の水とは、様子が違ってる気がしやすね。考えなしに触っちゃならねぇ気がいたしやす」
チョロが眉間にしわを寄せて呟くと、はつ江も、よっこいしょ、と呟きながらしゃがみ込んだ。
「なんだか、くずまんじゅうみたいで美味しそうだぁね」
感心した様子ではつ江が呟くと、シーマもしゃがみ込んでヒゲと尻尾をダラリと垂らしながら、ため息を吐いた。
「斬新な感想だな、はつ江……でも、本当に水よりももっと粘度が高そうだな。なんか、プルッとしてるというか、なんというか……」
シーマが尻尾の先をくにゃりと曲げながら呟くと、モロコシもピスピスと鼻を鳴らしながらしゃがみ込み……
「本当だー!ここのお水、すごくプルプルしてるよ!」
……ピンク色の肉球がついた掌で、水面をタシタシと叩きながら楽しそうにそう言った。
四人は途端にモロコシに顔を向け……
「うわぁ!」
シーマが黒目を大きくして尻尾の毛を逆立てながら、モロコシの肩を掴んで沼から引き離し……
「あれまぁよ!モロコシちゃん!怪我はないかね!?」
はつ江が慌てて駆け寄って、モロコシの手を覗き込み……
「モロコシの坊ちゃん!念のため、この解毒剤で手を洗ってくだせぇ!」
チョロがチョッキの胸ポケットから小瓶を取り出しながら駆け寄り……
「モロコシさん!肉球がピリピリしたり、口の中がかゆくなったりしていないですか!?」
蘭子が目を丸くしながら、モロコシの顔を覗き込んだ。
四人の心配をよそに、モロコシは解毒剤で手を洗いながらニッコリと笑った。
「ちょっと手がベタベタしたけど、大丈夫だよ!チョロさん、ありがとうございました」
モロコシがそう言ってペコリと頭を下げると、四人はホッと胸をなで下ろした。
「いえいえ!モロコシの坊ちゃんには、ヴィヴィアンの件でお世話になりやしたから、なんのこれしきでございやす!でも、駄目でございやすよ、不用意に怪しげなもんに触っちゃ」
チョロがモロコシの頭を撫でながら諭すようにそう言うと、シーマも片耳をパタパタと動かしながら腕を組んで頷いた。
「そうだぞ、モロコシ。チョロが解毒剤もってなかったら、大変なことになってたかもしれないんだぞ」
二人の言葉を受けて、モロコシは耳を伏せながら尻尾を垂らしてシュンとした表情を浮かべた。
「……うん、二人ともごめんなさい」
モロコシがペコリと頭を下げると、はつ江がニコニコと笑った。
「でも、モロコシちゃんが無事でよかっただぁよ。小っちゃい子は、何にでも興味津々だからねぇ……孫が小っちゃい頃も、カミキリ虫を掴んで噛まれたり、鼻の穴にちり紙つめて取れなくなったりしてたねぇ……」
はつ江が目を閉じながらシミジミとそう言うと、蘭子が苦笑いを浮かべた。
「ず、随分とわんぱくなお孫さんだったのですね……それはともかく、モロコシさんのおかげで沼の正体はほぼ分かりました」
蘭子はそう言うと、沼にチラリと目を向けた。
「本当でございやすか!?緑川のお嬢!」
「蘭子さん!この沼は何なの!?」
チョロとモロコシが目を丸くしながら尋ねると、はつ江は目を輝かせながら両手を握りしめた。
「やっぱり、くずまんじゅうなのかね!?」
「はつ江、期待に満ちあふれてるところ悪いんだけど……多分、その可能性だけはないと思うぞ……」
ワクワクするはつ江に対して、シーマはヒゲと尻尾をダラリと垂らしながら、脱力気味に声をかけた。蘭子は苦笑いをしながら頬を掻くと、コホンと咳払いをして沼の方に顔を向けた。
「はい、水を集める性質があり、一見すると液体のようですが触ると弾力があり、手で触れるとベタつきがのこるとなると……」
蘭子がそう言うと、沼の水面が俄にプルプルと波打ち始めた。そして、水面の中央がニューンと伸び上がり、そこに円らな黒い目が二つ現れた。
「スライム、だな……」
「スライムさんだぁ!」
「スライムでございやすね」
シーマ、モロコシ、チョロが声を合わせてそう言うと、はつ江は、ほうほう、と声を漏らした。
「あの人は、すらい・むさんと言うのかね」
「えーと、『スライム』というのは、私達『河童』と同じように種族名なので、個人名は他にあるんですよ……」
蘭子がはつ江に説明していると、スライムは数回まばたきをしてから、目を閉じてプルプルと身を震わせた。
「良かった……ようやく人に出会えた……」
スライムがため息まじりに呟くと、はつ江がキョトンとした表情で首を傾げた。
「すらいさんや、困っているみたいだけど、どうしたのかね?」
はつ江に声をかけられたスライムは、眉間と思われる部分にしわを寄せて怪訝そうな表情を浮かべた。
「すらい?……あ、えーと……僕は、ポバール・ボウラックと申します。以後、お見知りおきを」
ポバールがそう言ってプルンと震えると、はつ江は、ほうほう、と声を漏らしてから、ペコリとお辞儀をした。
「私は森山はつ江だぁよ!よろしくね、ぼうらくさん」
ピンクの着物が似合う落語家のようなイントネーションで名字を呼ばれ、ポバールは再び怪訝そうな表情を浮かべた。しかし、深く追求することはせず、どうも、と呟いて、プルプルと身を震わせた。
「相変わらず、はつ江ばあさまは物怖じしねぇでございやすな……ボウラック先生って言やぁ、えれぇ有名な学者さんじゃありやせんか……」
「ぼくも知ってる!伝説の遺跡をいっぱい見つけたすごい学者さんなんだよね!」
二人のやり取りを見たチョロが感慨深そうに声を漏らし、モロコシがそれに続いた。すると、はつ江は目を見開いて驚いた。
「あれまぁよ!ぼうらくさんは凄い先生なんだねぇ!」
三人の言葉を受けて、ポバールは頬と思われる部分をほんのり赤くして、プルプルと震えた。
「いえ……それほどでも、ないですよ……」
ポバールが照れていると、シーマがコホンと咳払いをした。
「えーと……ボウラック博士、お久しぶりです」
シーマの声に気づいたポバールは、目を見開いてプルプルと震えた。
「で、殿下!?お久しぶりでございます!本日は何故このような場所に!?」
ポバールがひっきりなしにプルプルと震えて慌てふためくと、シーマはヒゲと尻尾をダラリと垂らして脱力した。
「その言葉、ソックリそのままお返ししたいですが……ともかく、今は落ち着いて下さい」
シーマがそう言うと、ポバールは、かしこまりました、と返事をして、ピタリと震えを止めた。ポバールが落ち着いたのを確認すると、シーマは再びコホンと咳払いをしてから口を開いた。
「ボク達は水道局の井戸調査のお手伝いで、ここまで来ましたが……」
「……調査の結果、この付近の井戸の水位が著しく下がっていたため、原因の調査に参ったしだいです」
シーマの言葉に蘭子が続くと、ポバールは目を伏せて気まずそうな表情を浮かべた。
「申し訳ございません……間違い無く僕が原因ですよね、それ……」
ポバールが悲しげな声で呟くと、チョロがキョトンとした表情で挙手をした。
「ときに、ボウラック先生。一体全体どうして、こんなとこで沼になってたのでございやすか?」
「一体、何があったのかね?」
「なんで、なんで?」
チョロの言葉に、首を傾げたはつ江とモロコシが続くと、ポバールは目を伏せたまま、それは、と呟いた。
「なんともお恥ずかしい話なのですよ……」
暗緑色の木々が生い茂る森の中に、ポバールの悲しげな声が響いた。
かくして、ポバールはいかにして沼になってしまったのかの説明が始まるのだった。
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